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「正しさが選ばれる側に立った日」

昼は、何事もなかったかのように進んだ。


仕事は再開され、役割は果たされ、街は機能している。

荷は運ばれ、書類は処理され、時計塔の影は正確に移動する。


だが、その「正確さ」は、もはや空気のように無意識ではなかった。

人々は、自分が今、従っているものを――

ほんの一瞬だが、意識している。


(これは、決まりだから)

(これは、必要だから)

(これは……自分で、選んでいる)


理由は混ざり合い、切り分けられない。

それでも、その曖昧さこそが、昨日まで存在しなかった感覚だった。




正序会本部では、昼の報告が次々と上がっていた。


「滞留行動、午前中より減少」

「業務遅延、許容範囲」

「相談窓口への問い合わせ、増加」


「……増加?」


補佐官が、眉をひそめる。


「はい」

「ただし内容は……」


彼は、言葉を探す。


「制度への不満ではありません」

「命令への異議でもない」


「では、何だ」


「……質問です」


その場に、沈黙が落ちた。


質問。

それは、正序会にとって、最も扱いづらいものだった。


「『この判断は、必須ですか』」

「『別のやり方を考えてもいいですか』」

「『迷っている状態は、間違いですか』」


補佐官は、資料をめくる。


「誰も、反抗していません」

「ただ……確認しています」


白髪の女幹部は、その言葉を静かに受け止めた。


(確認する……)


それは、従う前提で疑わなかった者が、

初めて、足元を見たということだ。


「……答えは?」


彼女が問う。


「現行規定に基づき」

「“問題はない”と回答しています」


「そう」


彼女は、頷いた。


それ以上の指示は出さなかった。


答えを与えることはできる。

だが、納得まで与えることはできない。


それは、もう秩序の役目ではないと、

彼女自身が理解し始めていた。



一方、街の外れ。


ユウトは、人気の少ない橋の上に立っていた。

下を流れる水は、相変わらず一定の速さで進んでいる。


「……変わらないものも、あるな」


彼の呟きに、レオンが頷く。


「全部が揺らいだら」

「それは、ただの混乱だ」


「そう」


ユウトは、手すりに手を置く。


「だから、今はこれでいい」


ピリィが、水面を覗き込みながら言う。


『……正しささん』

『これから、どうなるんですかぁ?』


「さあな」


ユウトは、正直に答えた。


「ただ一つ言えるのは」


彼は、遠くの街を見やる。


「もう、上から降ってこない」


「正しさは」

「選ばれる場所に立った」


それは、正序会にとっての敗北ではない。

だが、特権の終わりではある。



夕刻。


街の一角で、小さな言い争いが起きていた。

配給の順番。

ほんの些細な行き違い。


以前なら、即座に仲裁が入り、

規定に基づき、静かに処理されていた。


だが、今回は違った。


巡回員は、すぐには介入しなかった。

様子を見ている。


二人の市民は、声を荒げかけ、

そして――止まった。


「……別に」

「今じゃなくても、いいか」


「……そうだな」


互いに、気まずそうに頷く。


巡回員は、記録を取らなかった。

取る必要がなかった。


衝突が起きなかったのではない。

衝突する前に、

「自分で決める」時間が挟まれただけだ。




夜。


正序会最上層。

女幹部は、一日の終わりに、再び窓辺に立っていた。


街は、静かだ。

だが、その静けさは、もはや制御の結果ではない。


(人は)

(支えられなくても)

(立てるのかもしれない)


その考えは、恐ろしくもあり、

同時に、救いでもあった。


(ならば)

(秩序の役割は……)


彼女は、答えを出さなかった。

出せなかった。


だが、一つだけ、はっきりしたことがある。


正しさは、

人を黙らせるためのものではない。


人が選び続ける限り、

問い直され続ける存在でなければならない。


それを受け入れた瞬間、

秩序は、敵を一つ失った。


代わりに――

重い責任を背負うことになった。




同じ夜。


屋上で、ユウトは風に目を閉じていた。


蒼風は、穏やかだ。

だが、確かに流れている。


「……次は、どうする」


レオンが尋ねる。


「次?」


ユウトは、少し考えてから答える。


「次は」

「この街の物語だ」


「俺たちは」

「もう、主役じゃない」


ピリィが、少し驚いたように揺れる。


『……それ、さびしくないですかぁ?』


「少しな」


ユウトは、素直に言った。


「でも」

「主役じゃない世界のほうが」

「だいたい、長く続く」


夜空に、雲が流れる。

星は、ところどころ隠れる。


完全な光でも、

完全な闇でもない。


それが、今の街だ。



……そして、その自由は、すぐに祝福として受け取られたわけではなかった。


夜が深まるにつれ、街には微かな軋みが生じ始める。

それは騒音でも、混乱でもない。

むしろ静かすぎる場所にだけ現れる、不安の音だった。


「……これで、本当に良かったのかな」


宿の一室で、帳簿を閉じた中年の男が呟く。

誰に向けた言葉でもない。

答えを期待していない問いだ。


今日は、配達の順を自分で決めた。

正序会の指示は来なかった。

来なかったからこそ、自分で考えた。


結果として、誰も困っていない。

それでも、胸の奥に小さな棘が残る。


(もし、間違っていたら?)


それは昨日まで、考える必要のなかった疑問だった。

正しさが上から与えられていた時代には、存在しなかった痛みだ。


別の通りでは、若い母親が子を寝かしつけながら、同じように天井を見つめていた。

今日は、子どもを外で遊ばせる時間を少し長くした。

規定では、推奨されない判断だった。


だが、子はよく笑い、よく眠っている。


(……これも、選んだ結果)


胸をなで下ろすと同時に、逃れられない自覚が生まれる。


(次も、私が選ぶのね)


自由は、軽やかな翼ではない。

それは、離した瞬間から重さを持つ。




同じ頃、正序会の記録室。


白髪の女幹部は、古い書類棚の前に立っていた。

ここは、すでに参照されなくなった規定や、廃止された命令が保管されている場所だ。


彼女は一枚の紙を引き抜く。

そこには、かつての理念が記されていた。


――秩序とは、人を迷わせないために存在する。


「……違うわね」


小さく、しかし確かに否定する。


迷わないことが、必ずしも幸福ではない。

それを、街が証明し始めている。


彼女は、その紙を戻さなかった。

破りもしない。

ただ、机の上に置く。


否定された正しさも、消えてはいない。

役割を変えるだけだ。


(導くのではなく、問いを残す)


それは、秩序にとって最も困難な変化だった。

答えを用意する組織が、問いを抱え続ける存在になる。


だが、もう戻れない。


彼女は、報告書の余白に一行を書き足した。


――判断猶予時間の存在が、市民心理に与える影響、継続観測。


「……猶予」


その言葉を、何度も心の中で転がす。


かつて、正しさは即答だった。

今は、沈黙を含む。




屋上。


ユウトは、まだそこにいた。

風に身を任せ、街の呼吸を感じ取っている。


蒼風は、確かに均等に流れている。

だが、ところどころで、わずかな渦が生まれていた。


「……揺れてるな」


レオンが、隣で同じ空を見上げる。


「不安か?」


「責任だろ」


ユウトは、静かに言った。


「選べるようになった分」

「逃げられなくなった」


ピリィが、少しだけ震える。


『……それでも』

『前より、いやな感じはしませんねぇ』


「そうだな」


ユウトは、微かに笑う。


「痛みはあるけど」

「息は、詰まらない」


蒼風は、人の選択に干渉しない。

背中を押しもしなければ、引き戻しもしない。


ただ、転びそうな時に、

「転んでも、立てる」と教えるだけだ。


「……俺たちは」


レオンが、低く言う。


「本当に、ここまでで良かったのか?」


「良かったかどうかは」


ユウトは、即答しなかった。


「この街が」

「何度、選び直すかで決まる」


英雄が正しさを示す時代は終わった。

今は、間違える権利が残されている。


それは、祝福でもあり、試練でもある。




深夜。


街のどこかで、誰かが決断を間違える。

小さな損失が生まれ、誰かが眉をひそめる。


だが、翌朝、その失敗は共有される。

隠蔽されず、罰せられず、語られる。


「次は、こうしよう」

「別のやり方もある」


正しさは、再び形を変える。

命令ではなく、提案として。


都市は、ゆっくりと学び始めていた。

自分たちの歩幅で。




夜明け前。


ユウトは、屋上の端に腰を下ろした。

空の色が、ほんのわずかに変わる。


「……戻らない朝、か」


呟きは、誰にも聞かれない。

だが、風はそれを運んでいく。


この街は、もう完全な秩序には戻らない。

同時に、完全な混乱にも落ちない。


正しさは、名詞ではなく動詞になる。

選び、迷い、問い直す行為そのものになる。


そして、それは終わらない。


英雄が去った後も、

答えが消えた後も、

人は歩き続ける。


その足取りは遅く、不揃いで、不完全だ。

だが――

それこそが、人間の速度だった。


戻らない朝は、まだ続いている。

静かに、確かに。


正しさが、隣で息をしている世界で。



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