「正しさが名を持つとき」
街は、まだ壊れていなかった。
崩壊の兆しも、暴動の気配もない。
通りは整い、建物は静かに並び、人々は今日も仕事に向かう。
だが――
“均衡”は、もはや前提ではなくなっていた。
人々は、歩きながら考える。
考えてから、歩く者もいる。
その順序の入れ替わりが、街にわずかな軋みを生んでいた。
朝の市場。
パン屋の女主人は、焼き上がったパンを棚に並べながら、ふと手を止めた。
(……これ、いつもより多く焼いた?)
確認すれば、規定通りの数だ。
間違いはない。
それでも胸の奥に、説明できない感覚が残る。
(昨日は、足りなかった気がする)
(今日は……余る?)
彼女は、初めて「売れ残るかもしれない」という可能性を想像した。
不安ではない。
恐怖でもない。
ただ――
“分からない”という感覚。
それは、これまで正序会が丁寧に取り除いてきたものだった。
正序会本部。
女幹部は、窓の外を見下ろしていた。
街は平穏だ。
だが、その平穏が「結果」ではなく、「努力」によって維持され始めている。
「……調整塔の稼働率を、上げますか」
補佐官が、控えめに尋ねる。
「同調係数を上げれば」
「この揺らぎは、沈静化できます」
女幹部は、すぐには答えなかった。
調整塔。
秩序の象徴。
正しさを、空気として行き渡らせる装置。
それを強めることは、簡単だ。
技術的にも、制度的にも。
だが――
「……それは、“否定”になる」
彼女は、ぽつりと呟いた。
「彼らが感じ始めたものを」
「“存在しなかったこと”にする行為よ」
「ですが、それが秩序です」
補佐官は、迷いなく言う。
「秩序は、常に選択を否定してきました」
「選ばせないことで、救ってきたのです」
女幹部は、静かに振り返った。
「……ええ」
「だからこそ、今までは正しかった」
彼女は、資料の一枚を手に取る。
そこには、自由意見聴取会で集められた紙の一部が、分析データとしてまとめられていた。
数値化できない。
分類不能。
だが、確実に存在するもの。
「でも今は」
彼女は、はっきりと言った。
「“選ばなかったこと”が」
「救いではなくなり始めている」
沈黙が、会議室を満たす。
「……原因は、特定できています」
補佐官が、言葉を変える。
「例の、外来者です」
「ユウト・ナガセ」
女幹部は、その名を聞いても表情を変えなかった。
「彼は、何をした?」
「何も、です」
「……何も?」
「思想を語らず」
「正しさを否定せず」
「命令も、提案もしていません」
「ただ――」
補佐官は、少し言い淀んでから続けた。
「“決めていない姿”を、見せ続けています」
女幹部は、ゆっくりと目を閉じた。
「……最悪ね」
それは、賞賛でも罵倒でもなかった。
純粋な評価だ。
「正しさは、反論できる」
「間違いは、否定できる」
「でも」
「“決めていない”状態は」
「どちらでもない」
彼女は、目を開いた。
「それは、正しさが踏み込めない領域よ」
一方、ユウトは街外れの水路沿いを歩いていた。
整備された石畳。
澄んだ水。
規定通りに剪定された木々。
完璧な景観。
だが、今日は違った。
水路の脇で、老人が立ち尽くしている。
ただ、水を見ているだけだ。
「……何か落としました?」
ユウトが声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。
「いや」
「何も」
「なら、どうして?」
老人は、しばらく考えてから答えた。
「分からん」
「ただ……止まりたくなった」
その言葉は、驚くほど自然だった。
ユウトは、何も言わず、老人の隣に立つ。
水が流れる。
規則正しく。
一定の速度で。
「この街はな」
老人が、ぽつりと言う。
「長いこと、正しかった」
「だから、疑う理由もなかった」
「でも?」
「最近」
「正しいはずなのに」
「息が合わん時がある」
老人は、水面を見つめたまま続ける。
「悪くはない」
「だが、良いとも言い切れん」
ユウトは、静かに頷いた。
「それが、“考える”ってことだと思う」
老人は、少し驚いた顔でユウトを見た。
「……怖くないのか?」
「怖いですよ」
ユウトは、正直に答えた。
「でも」
「怖くない世界って」
「だいたい、止まってる」
老人は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「若いな」
「そうでもないです」
ユウトも、少し笑った。
その日の夕方。
正序会は、初めて“公式声明”を出した。
――現在、都市内で発生している判断遅延および感情の揺らぎについて
――本会は、これを異常ではなく、調整対象と認識しています
街の人々は、それを静かに読んだ。
否定されていない。
だが、肯定もされていない。
ただ、“調整対象”と名付けられた。
その瞬間。
街に生まれた感覚は、初めて――
“名前”を与えられた。
夜。
宿の屋上。
レオンが、声明文を読み終えて言った。
「名付けたな」
「うん」
ユウトは、夜風を受けながら答える。
「正しさは」
「分からないものを、放っておけない」
ピリィが、少し不安そうに揺れる。
『……名前がつくと』
『捕まえられちゃいませんかぁ?』
「その通り」
ユウトは、否定しない。
「だから、次は――」
彼は、夜空を見上げた。
「正しさが、選ばなきゃいけなくなる」
「どういう意味だ」
レオンが問う。
「この街は」
「人を守るために、選ばせなかった」
ユウトは、静かに言葉を紡ぐ。
「でも今」
「人が、“選び始めている”」
「それを潰せば」
「正序会は、人を否定する」
「認めれば」
「正しさが、絶対じゃなくなる」
蒼風が、わずかに強まる。
それは、戦いの前兆ではない。
破壊の合図でもない。
ただ――
物語が、次の段階に進んだ音だった。
「次は」
ユウトは、はっきりと言った。
「正序会自身が」
「“何を守る正しさなのか”を」
「選ばされる番だ」
均衡の街は、今も静かだ。
だが、その静けさはもはや完成形ではない。
問いを抱えたまま進む、
未完成な静けさ。
そしてそれは――
どんな嵐よりも、強く、脆い。




