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「選ばれなかった声が、都市を満たす」

朝は、いつも通りに訪れた。


鐘は鳴らない。

太陽は昇る。

街路は整い、人々は流れる。


だが――その流れは、もはや完全な直線ではなかった。


歩き出してから一拍、遅れる者。

目的地の直前で、理由もなく足を止める者。

用意された選択肢を前に、指を伸ばしたまま固まる者。


誰も混乱していない。

誰も不満を口にしていない。


それでも、街の至るところで「微細な滞留」が発生していた。


それは渋滞ではない。

抵抗でも、反乱でもない。


“選ばれなかった時間”が、街に残り始めていた。


ユウトは宿の窓から、その様子を見下ろしていた。


(思ったより、早い)


蒼風は、もはや揺れではなく、静かな循環として彼の周囲を巡っている。

風は吹かない。

だが、空気が止まらない。


「……街が、息をし始めてる」


レオンの声が背後から聞こえた。


「正序会は、まだ手を出してこない」


「出せない」


ユウトは即答した。


「問題が“問題として定義できない”うちは」

「彼らの正義は、動かない」


ピリィが、窓枠にぴょんと乗る。


『でもぉ……このままだと』

『そのうち、“正しくない人”にされちゃいませんかぁ?』


「なる」


ユウトは否定しなかった。


「だから次は」

「正序会が“動かざるを得ない形”を作る」


レオンが、眉をひそめる。


「挑発か?」


「違う」


ユウトは、街の中央に視線を向けた。


「露呈だ」




正序会本部、深層階。


観測室には、これまでにない量のデータが流れ込んでいた。


「判断遅延、全域で拡大」

「同調率、微減」

「幸福指数、変化なし」


「……幸福は減っていない?」


白髪の女幹部が問い返す。


「はい」

「むしろ、一部では“未定義満足”が増加しています」


「未定義……?」


技術官が、言葉を選びながら答える。


「幸福とも不満とも分類できない感情です」

「“理由はないが、落ち着く”という報告が多い」


室内に、短い沈黙が落ちた。


「……危険ね」


女幹部は、静かに断じた。


「理由なき感情は、制御できない」

「制御できないものは、秩序を侵食する」


「では、是正を?」


「いいえ」


彼女は、首を振った。


「まだ早い」


「“原因”を、表に出させなさい」




その日の昼。


街の掲示板に、一枚の告知が張り出された。


――自由意見聴取会

――都市運営に関する意見を、匿名で提出可能


公式な制度だ。

過去にも、形だけは存在していた。


だが、これまで一度も“機能したことはない”。


誰も、意見を持たなかったからだ。

持つ必要がなかったからだ。


それでも。


掲示板の前に、立ち止まる人影があった。


一人。

また一人。


紙を前に、何も書かず、立ち尽くす者。

書きかけて、消す者。

しばらく悩んだ末、紙を箱に入れず、持ち帰る者。


その様子を、ユウトは人混みの中から見ていた。


(出たな)


「意見を言え、か」


レオンが、低く呟く。


「正序会なりの、誘導だな」


「うん」


ユウトは、視線を逸らさない。


「“考えた者”を、炙り出す気だ」


ピリィが、少し震える。


『……ひどいですぅ』

『考えたら、悪い人みたい』


「そう」


ユウトは、静かに答えた。


「でも」

「それを“悪い”って言える感覚が、もう生まれてる」




夜。


意見箱は、回収された。


正序会本部の会議室。

机の上には、数百枚の紙が積まれている。


「……多すぎます」


若い幹部が、困惑を隠せず言った。


「しかも」

「大半が、“意見になっていない”」


紙を一枚、読み上げる。


「『よく分からないけど、少し考えてしまった』」

「『選ばなくていい時間が、少し楽しかった』」

「『この街が、嫌いじゃなくなった理由が分からない』」


別の紙。


「『正しいかどうかは分からないが』

『この感じを、消さないでほしい』」


沈黙。


女幹部は、ゆっくりと息を吐いた。


「……なるほど」


彼女は、全てを理解したようだった。


「これは、意見ではない」

「要求でも、批判でもない」


「では、何だと?」


「“感覚”よ」


彼女は、静かに言った。


「正しさよりも前にある」

「分類できない、人間の感触」


室内の空気が、重くなる。


「排除すべきでしょうか」


誰かが、恐る恐る尋ねた。


女幹部は、少しだけ目を伏せた。


「……できない」


「なぜです?」


「なぜなら」


彼女は、紙束を見つめたまま、言った。


「これを排除する理由を」

「誰も、“正しく説明できない”から」




同じ夜。


ユウトは、屋上に立っていた。


夜風は、弱い。

だが、確実に街を巡っている。


「もう戻れないな」


レオンが言う。


「正序会も」

「この街も」


「うん」


ユウトは、頷いた。


「でも、壊れもしない」


ピリィが、そっとユウトの肩に触れる。


『……じゃあ』

『これから、どうなるんですかぁ?』


ユウトは、夜空を見上げた。


星は、相変わらず均等に並んでいる。

だが――

その間に、わずかな“揺らぎ”が見える。


「これからは」


彼は、静かに言った。


「正しさが、人を導くんじゃない」

「人が、正しさを疑いながら歩く」


「迷いながら、ですか」


レオンが問う。


「そう」


ユウトは、微笑んだ。


「迷いは、悪じゃない」

「選ばなかった道が、影になるだけだ」


蒼風が、夜空に溶ける。


それは、嵐ではない。

破壊でもない。


ただ――

止まっていた空気が、流れ出しただけだ。


そして、均衡の街は、

その流れを、もう拒めなくなっていた。


正序会は、次に“決断”を迫られる。


秩序を守るか。

人間を認めるか。


どちらを選んでも、

もはや以前と同じ世界には戻れない。


問いは、街全体に行き渡った。


声にならないまま。

答えを求めないまま。


だが確かに――

選ばれなかった声たちは、

都市の奥深くで、確かに生き続けていた。

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