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「均衡の街に走る、最初の亀裂」

都市は、今日も静かだった。


だが、その静けさは「保たれている」ものではなく、「保とうとしている」ものへと変質し始めていた。


朝の鐘は鳴らない。

だが、人々の歩調に、わずかなズレが生まれている。


早く歩く者。

立ち止まる者。

理由もなく、振り返る者。


誰も騒がない。

誰も声を荒げない。


それでも――

均された水面に、確実に波紋が走っていた。


ユウトは、通りを歩きながら、その変化を肌で感じていた。


(来てるな)


蒼風が、微かに揺れる。

強さはない。

だが、昨日より確実に“引っかかる”。


市場の一角。

果物を並べていた商人が、手を止めていた。


「……あれ?」


彼は、籠を見下ろし、眉をひそめる。


「値段、これで合ってたっけ?」


隣の商人が即座に答える。


「正序会の基準表通りだろ」

「昨日も、そうだった」


「……そうなんだけど」


商人は、なぜか納得しきれない顔をしたまま、果物を一つ手に取った。


「昨日は、これを売りたかった気がする」

「今日は……なんだ?」


その問いに、答えはない。

だが――

問い自体が、消えなかった。




正序会本部、上層階。


円卓を囲む数名の幹部たちは、静かに資料を読み込んでいた。

顔には、焦りも苛立ちもない。


ただ、違和感がある。


「……数値に、異常はありません」


報告役の男が言う。


「感情波形、同調率、生活満足度」

「すべて、基準範囲内です」


「では、なぜ――」


白髪の女幹部が、ゆっくりと口を開いた。


「現場から、“判断の遅れ”が報告されている?」


「はい」

「ごく軽微ですが」

「意思決定に、一拍置く者が増えています」


沈黙。


「遅れは、秩序を乱す」


別の男が、低く言った。


「修正が必要だ」


「だが」


女幹部は、指を組む。


「原因が特定できていない状態での強制修正は」

「逆効果になる可能性がある」


「……では、観測を続ける?」


「ええ」


彼女は、静かに頷いた。


「“考えてしまった者”を、見極めなさい」

「それが、今回のノイズ源です」


誰も、その言葉に異を唱えなかった。




宿の一室。


ユウトたちは、簡単な情報共有をしていた。


「街の反応は、想定通りだ」


ユウトが言う。


「まだ表に出ない」

「でも、確実に内部で詰まり始めてる」


レオンが、腕を組んだまま言う。


「正序会は、どう出る」


「観測だ」


ユウトは即答した。


「潰しに来ない」

「まず、“何が起きてるか”を理解しようとする」


「理解できたら?」


「正しさを、より強く塗り直す」


ピリィが、少し不安そうに揺れる。


『……それ、こわいですぅ』


「だから」


ユウトは、ピリィを見る。


「その前に、もう一段階、進める」


【……追加で、問いを流しますか】


リュミエルが尋ねる。


「いや」


ユウトは首を振った。


「同じことを繰り返すと、気づかれる」


「じゃあ、どうする」


レオンが問う。


ユウトは、少しだけ笑った。


「“正しさの外側”を見せる」




午後、ユウトは再び街へ出た。


向かったのは、中央広場。

演説も、布教も禁止されていない。

だが、不要とされている場所。


人は集まらない。

集まる理由が、ないからだ。


ユウトは、広場の中央に立ち、

何も言わず、腰を下ろした。


ただ、座る。


何も主張しない。

何も示さない。


数分。

誰も気に留めない。


だが――

一人の子どもが、足を止めた。


「……なにしてるの?」


ユウトは、子どもを見上げる。


「何も」


「なんで?」


「決めてないから」


子どもは、首を傾げた。


「決めないと、ダメなんじゃないの?」


「そう教わった?」


「うん」


ユウトは、少し考えてから言った。


「じゃあ、今日は」

「決めない練習をしてる」


子どもは、しばらく黙っていた。


「……それ、楽しい?」


「分からない」


「ふーん」


子どもは、その場に座った。


「じゃあ、ぼくも」


それを見ていた通行人が、一人、足を止める。

次に、もう一人。


誰も、輪を作らない。

誰も、同調しない。


ただ――

それぞれの距離で、立ち止まる。


正序会の巡回員が、遠くから様子を見ていた。

だが、止める理由がない。


違反がない。

主張がない。

扇動がない。


ただ、人が“決めていない時間”を過ごしているだけだ。


その空気は、調整塔をすり抜けた。


なぜなら――

これは、正しさでも、間違いでもない。


判断の前。

選択の前。


最も、数値化できない領域。




夕方。


正序会本部に、報告が入る。


「中央広場で」

「意味のない滞留が発生しています」


「意味がない?」


「はい」

「議論も、主張も、抗議もありません」

「ただ……座っているだけです」


女幹部が、目を細める。


「……厄介ね」


「排除しますか?」


「できない」


彼女は、静かに言った。


「彼らは、何も間違っていない」


沈黙。


「だが――」


彼女は、資料を閉じた。


「何も決めていない、という状態は」

「この街にとって、最も危険です」



夜。


広場の灯りは、いつも通りだ。

だが、その下には――

今日、初めての“影”ができていた。


整った光の中で、

人の輪郭が、少しだけ曖昧になる。


ユウトは、立ち上がった。


十分だ。

今日は、ここまで。


立ち去る彼の背を、

誰も引き止めない。


だが――

誰も、すぐには帰らなかった。


問いは、叫ばれない。

迷いは、共有されない。


それでも。


均衡の街は、もう知ってしまった。


「決めない」という選択が、

存在し得ることを。


正しさの都市に生まれた、最初の亀裂は、

あまりにも静かで、

あまりにも人間的だった。


そして、その亀裂は――

確実に、広がっていく。


次に正序会が動くとき、

それは“調整”では済まない。


均された世界が、

自らの均衡を疑い始めたのだから。


夜は、まだ深い。

だが、都市の底で――


問いが、確かに呼吸を始めていた。

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