「静かな同意、騒がしい兆し」
夜は、思ったよりも早く明けた。
深い藍色が薄まり、星が一つ、また一つと消えていく。焚き火の残り香が、冷えた空気に溶け、森は再び「決めきれない沈黙」を取り戻していた。
旅人たちは、まだ眠っている。
商人の男は外套に包まり、年配の女は火の跡を背にして横になり、少年は夢の途中で眉をひそめている。
ユウトは、音を立てずに立ち上がった。
「……行くか」
小さな声だったが、仲間には十分だった。
レオンはすでに剣帯を整えている。ゴルドは地面に座り、ゆっくりと首を回していた。ピリィは、ユウトの肩の上で形を揺らし、眠そうに目を細めている。
『……あの人たち』
『起きたら、ちょっと変わってるですぅ』
「それでいい」
ユウトは、そう答えた。
「変わらなくてもいいし」
「変わってもいい」
森を抜けると、朝靄が低く漂う平原に出た。遠くに、街道が一本、まっすぐ伸びている。昨日よりも、人の往来が多い。
馬車。
徒歩の旅人。
武装した護衛団。
そして――
同じ紋章をつけた者たち。
「……揃いすぎだな」
レオンが、視線を細める。
胸元、肩、旗印。
白地に、簡素な円と線で描かれた印。
主張しすぎない。
だが、意図は明確だ。
【……確認しました】
リュミエルの声が、静かに響く。
【自称】
【“正序会”】【
【正しき順序を、世界に戻す組織】
「名前からして、もう決めてるな」
ユウトは、苦笑に近い息を吐いた。
「正しい」
「順序」
「戻す」
「全部、“疑う余地がない”言葉だ」
街道脇で、彼らは演説をしていた。
剣も、魔法も使わない。
使っているのは――言葉だけだ。
「混乱の時代にこそ、指針が必要です!」
「迷いは、弱さです!」
「正しい順序が、人を救うのです!」
人々は、立ち止まる。
頷く者もいる。
腕を組み、距離を取る者もいる。
だが、完全に無視する者はいない。
(……もう、根を張り始めてる)
ユウトは、足を止めた。
「どうする?」
レオンが、問いかける。
「壊すか?」
「潰すか?」
「違う」
ユウトは、即答した。
「それやると」
「“正しさ”の証明になる」
「じゃあ?」
「混ざる」
ピリィが、ぴょんと跳ねた。
『えっ』
『混ざるですぅ!?』
「うん」
ユウトは、街道へ足を踏み出す。
「聞く側になる」
「従うふりもしない」
「否定もしない」
「ただ――」
「迷いを、そこに置く」
演説者の一人が、ユウトに気づいた。
「そこの旅人!」
「あなたも、この混乱を感じているでしょう?」
「感じてる」
ユウトは、素直に答えた。
「だから、聞いてる」
「素晴らしい!」
「我々は、正しい道を示しています!」
ユウトは、首を傾げた。
「一つだけ、聞いていいか」
「もちろんです!」
「正しい順序って」
「誰が決めた?」
一瞬。
空気が、止まる。
だが、演説者はすぐに笑顔を作った。
「それは――」
「歴史と、理性と、多くの合意です」
「合意って」
「全員?」
「……多数です」
ユウトは、頷いた。
「じゃあ」
「少数は、どうなる?」
「導かれます」
「導かれたくない人は?」
演説者の声が、少しだけ硬くなる。
「それは……」
「まだ、理解が足りないだけです」
ユウトは、それ以上は言わなかった。
「なるほど」
ただ、その一言を置いて、去った。
背後で、ざわめきが起きる。
同意ではない。
否定でもない。
だが――
質問は、残った。
街道を離れ、丘を越える。
視界が開け、遠くに都市の影が見えた。
高い城壁。
規則正しい区画。
整った街。
【……次は、ここです】
リュミエルが言う。
【正序会が】
【“成功例”として語り始める場所】
「モデルケースか」
レオンが、短く言った。
「一番、厄介だな」
「うん」
ユウトは、都市を見据える。
「正しさが」
「暮らしに溶け込んでる場所」
ピリィが、少し不安そうに言う。
『……でも』
『ここ、平和そうですぅ』
「そう見える」
ユウトは、答えた。
「だから、厄介」
風が、街の方から吹いてくる。
整えられた風。
乱れを嫌う風。
ユウトは、一歩、前に出た。
「行こう」
「壊さない」
「否定しない」
「ただ――」
「問いを、連れて入る」
仲間たちが、頷く。
都市の門が、ゆっくりと近づく。
ここでは、剣は役に立たない。
怒号も、奇跡も、いらない。
必要なのは――
静かに、同意しない勇気。
正しさの中で、
「分からない」と言い続けること。
都市は、静かだった。
喧騒がないわけではない。人の声も、足音も、商いの呼び声もある。だがそれらはすべて、決められた高さ、決められた速さ、決められた調子で流れていた。
整っている。
過剰なほどに。
城壁をくぐった瞬間、ユウトは理解した。
(ここは……迷う前に、答えが置かれている)
通りは広く、清潔だ。建物の高さは揃えられ、看板の色も派手すぎない。露店は指定された場所にのみ並び、客引きの声は抑えられている。
秩序。
安心。
そして――選ばせない優しさ。
「住みやすそうだな」
レオンが、率直に言った。
「確かに」
ユウトも否定しない。
「正序会が、誇るのも分かる」
ピリィは、少し居心地悪そうにぷるぷるしている。
『……静かすぎて』
『考える音が、聞こえにくいですぅ』
【街全体に】
【同調の魔導構造が敷かれています】
リュミエルの声が、低くなる。
【感情を均す】
【不安を沈める】
【強い疑念を、自然に散らす】
「洗脳?」
【……そこまで強くはありません】
【“便利な空気”です】
ユウトは、ゆっくりと歩きながら、街を観察した。
人々の表情は穏やかだ。
怒りも、不満も、見当たらない。
だが――
笑顔が、似ている。
市場の一角で、正序会の紋章をつけた者たちが、住民と話していた。
「最近は、迷うことが減りました」
「考えなくていいから、楽です」
「それが、正しい順序です」
「悩みは、社会のノイズですから」
ユウトは、足を止めた。
「……ノイズ、か」
その言葉が、胸に引っかかる。
悩み。
迷い。
疑問。
それらは、全部――ノイズ。
(消したら、きれいになる)
(でも……)
「生き物じゃなくなる」
レオンが、同じ結論に辿り着いたように呟いた。
宿を取ると、部屋は無駄がなかった。
清潔で、静かで、眠りやすい。
それが、逆に怖い。
夜になっても、街は暗くならない。
灯りは均等に配置され、影ができにくい。
影が、嫌われている。
ユウトは、部屋を出た。
一人で歩く。
誰にも止められない。
だが、誰にも干渉されない。
それが、この街の流儀だ。
路地裏で、壁に背を預けて座る若い女を見つけた。
服装は整っている。
だが、目だけが――揺れている。
「……迷子か?」
ユウトが声をかけると、女はびくりと肩を震わせた。
「ち、違います」
「休んでるだけです」
「ここで?」
「……はい」
沈黙。
しばらくして、女がぽつりと言った。
「正序会は、悪くないです」
「助けられた人も、たくさんいます」
「だろうな」
ユウトは、隣に座らず、少し距離を取ったまま答えた。
「それで?」
女は、唇を噛む。
「でも……」
「私、最近」
「自分で決めた記憶が、なくて」
ユウトは、何も言わない。
「仕事も」
「住む場所も」
「結婚の話も」
「全部、正しい順序に沿って進んでる」
女は、笑おうとした。
うまく、できなかった。
「……楽なんです」
「だから、文句なんて言えない」
ユウトは、夜空を見上げた。
「文句じゃない」
「それは?」
「違和感だ」
女は、目を見開いた。
「違和感を感じられるうちは」
「まだ、自分だ」
風が、ほんの一瞬だけ吹いた。
街の風ではない。
外から来た、乱れた風。
女の髪が、少しだけ揺れる。
「……それ」
「言っちゃいけないって、教えられてます」
「誰に?」
「みんなに」
ユウトは、立ち上がった。
「なら」
「今、ここで言ったのは」
「あんたの選択だ」
女は、しばらく黙っていた。
そして、小さく、頷いた。
「……怖いです」
「正常だ」
ユウトは、背を向けた。
「怖くない正しさは」
「だいたい、嘘だ」
宿に戻ると、リュミエルが待っていた。
【……街の中核】
【“調整塔”の存在を確認しました】
「街全体の空気を作ってる?」
【はい】
【正序会の思想を】
【生活に溶かす装置です】
レオンが、低く唸る。
「壊せば?」
「ダメだ」
ユウトは、即座に否定した。
「壊した瞬間」
「彼らは“被害者”になる」
「じゃあ、どうする」
ユウトは、ベッドに腰掛け、靴を脱いだ。
「使う」
全員が、ユウトを見る。
「調整塔は」
「正しさを均す装置だ」
「なら」
「均せないものを、入れる」
ピリィが、目を輝かせた。
『……迷いですぅ?』
「そう」
ユウトは、笑った。
「問いを」
「ノイズとして、流し込む」
【……可能です】
リュミエルが、少しだけ驚いたように言う。
【ですが】
【街全体に、影響が出ます】
「一斉じゃなくていい」
ユウトは、静かに続けた。
「一人でいい」
「自分で考え始める人間が」
「その揺れは」
「必ず、隣に伝わる」
夜は、深い。
だが、この街には、完全な闇がない。
だからこそ――
小さな影が、よく目立つ。
ユウトは、目を閉じた。
(正しさは、完成すると止まる)
(でも……)
問いは、動く。
迷いは、連鎖する。
剣は、まだ抜かない。
拳も、振るわない。
ただ――
静かな違和感を、街に残す。
だが、都市はもう、
昨日の都市ではいられない。
整えられた世界の中で、
最も危険なものが、
今、芽吹き始めている。
それは――
「自分で考えたい」という、
たった一つの、騒がしい兆し。




