「語られる正義、沈黙する問い」
幹線路を離れてから、半日が過ぎた。
街道は緩やかに南へと折れ、森と草原が交互に現れる地帯に入る。人の往来はまだあるが、先ほどのように噂が渦を巻くほどではない。荷車の軋む音、馬の蹄、遠くで交わされる挨拶。日常の音が、少しずつ戻ってきていた。
だが――
「……まだ、ついてきてるな」
ユウトが呟くと、レオンが頷いた。
「ああ。距離はあるが、消えてはいない」
蒼風は、確かに前へ流れている。
だがその背後で、もう一つ、別の流れが渦を巻いている。
追跡ではない。
敵意でもない。
“語られている”感触だ。
(……広がってる)
正しさの影は、直接姿を現さない。
だが、昨日の物語は、もう別の口へ渡っている。
リュミエルが、低く告げる。
【“物語化”が始まりました】
【歪みが、自身の存在を隠しながら拡散しています】
「物語にすると、検証されなくなる」
ユウトは言った。
「事実じゃなく、“意味”になるからな」
ピリィが、ぽふっと揺れた。
『意味って……』
『正しいっぽい空気、ですぅ?』
「そう」
「反論すると、空気を壊す奴になる」
レオンが続ける。
「剣を抜くより、厄介だ」
道の先に、小さな集落が見えた。
宿場町ほど大きくはないが、交易路の要所だ。水場と倉庫、簡易の礼拝所がある。
そして――
中央の広場に、人が集まっていた。
「……また、か」
ユウトは足を止めた。
今度は舞台はない。
吟遊詩人もいない。
代わりに、立っていたのは――
一人の青年だった。
町の服装。
旅人ではない。
だが、声は通る。
「――だから、俺は思うんだ」
「迷うより、正しいって言える方が、ずっと楽だって」
ざわめき。
「最近、変な噂が多いだろ?」
「迷いを肯定する勇者だとか」
「答えを出さない方が正しいとか」
ユウトの胸が、僅かに冷える。
(もう、“勇者”って単語に繋げてきてるか)
青年は、続ける。
「でもさ」
「考え続けるって、疲れないか?」
「正しさを共有できた方が、助け合えるだろ?」
「……これは」
レオンが低く言う。
「教義の芽だ」
ピリィが、ぎゅっと縮こまる。
『これ……昨日の話より』
『もっと、普通ですぅ』
「だから危ない」
ユウトは、広場の端から様子を見た。
青年は、悪人じゃない。
むしろ、真面目だ。
周囲を気遣い、言葉を選んでいる。
「誰か一人が決めるんじゃない」
「みんなで、正しさを決めればいい」
拍手が、まばらに起こる。
「……違う」
ユウトは、思わず呟いた。
「みんなで決める正しさほど」
「個人を潰すものはない」
リュミエルが、視線を細める。
【この青年】
【歪みに直接触れてはいません】
「だろうな」
【ですが】
【“正しさの影”にとって、最も扱いやすい存在です】
ゴルドが、腕を組んだ。
『……殴れないな』
「殴る理由がない」
ユウトは、深く息を吸った。
(ここで止めると、殉教者が生まれる)
(黙って通り過ぎると、教義が残る)
選択肢は、どれも重い。
ユウトは、一歩前に出た。
今度は、反論でも否定でもない。
「なぁ」
青年が、振り向く。
「質問していいか?」
「……ああ」
青年は、少し警戒しつつも頷いた。
「みんなで正しさを決めるって言ったな」
「そうだ」
「じゃあ」
「決まらなかった奴は、どうする?」
青年は、口を開き――
すぐには答えられなかった。
「……話し合う」
「それでも決まらなかったら?」
「……納得するまで」
「誰が?」
青年は、沈黙する。
広場の空気が、ゆっくりと重くなる。
「なぁ」
ユウトは、声を荒げない。
「正しさを共有するって言葉」
「一番、共有されないのが“苦しさ”だ」
青年の表情が、揺れる。
「正しいって言葉はな」
「選んだ後で、背負うもんだ」
「先に背負わせるな」
誰かが、息を呑んだ。
青年は、視線を落とす。
「……じゃあ、どうすればいい」
ユウトは、すぐには答えなかった。
代わりに、言った。
「分からない、って言っていい場所を残せ」
「正しさを決める前に」
「迷ってる奴が、黙らなくていい場所をな」
沈黙。
だが、さっきとは違う。
押し潰す沈黙ではない。
考える沈黙だ。
青年は、ゆっくりと頷いた。
「……それも、必要かもしれない」
拍手は、起きなかった。
だが――
否定もなかった。
ユウトは、それ以上何も言わず、背を向けた。
広場を離れると、ピリィが大きく息を吐いた。
『はぁぁ……』
『怖かったですぅ……』
「正解だ」
レオンが言う。
「今のは、刃がなかった」
「だが、一番深く刺さる」
リュミエルが、静かに告げる。
【歪みが】
【直接介入できませんでした】
「芽は摘んだ?」
【……いいえ】
【ですが、一本の形にはなっていません】
ユウトは、空を見上げた。
雲が、ゆっくりと流れている。
形を変えながら。
「それでいい」
「正しさは、まとめると強くなる」
「でも……」
ユウトは、歩き出しながら言った。
「問いは、散らばってる方が生きる」
蒼風が、確かに前へ吹いた。
それは、導く風じゃない。
背中を押す風でもない。
横に並び、離れすぎない風だ。
“正しさの影”は、まだ消えていない。
むしろ、形を変えて増えている。
だが――
(追いつけない)
ユウトは、確信していた。
答えを持たない者は、速い。
正解を掲げる者は、重い。
問いを持ったまま歩く限り、
この戦いは、まだ終わらない。
夕暮れが、近づいている。
次の夜もまた、
誰かが“正しさ”を語るだろう。
そのたびに――
彼らは立ち会う。
斬るためではない。
黙らせるためでもない。
問いが、奪われる瞬間に、
そっと、立ちはだかるために。
風は、まだ吹いている。
迷いを、連れて。
夕暮れは、ゆっくりと色を失っていった。
赤から橙へ、橙から紫へ。空の変化は穏やかだが、その下を歩く人々の気配は、どこか落ち着かない。集落を離れた道すがら、すれ違う旅人たちの会話は、無意識に「正しい」「間違っている」「最近はこうあるべきだ」という言葉を含んでいた。
誰かが決めたわけじゃない。
だが、誰かが“語り始めて”いる。
「……速いな」
ユウトが呟く。
「昨日まで、影は形を探してた」
「今日は、もう声を持ってる」
レオンが、静かに応じた。
「声を持つと、剣より遠くに届く」
「だから、止まらない」
道は森へ入った。
背の高い木々が並び、光を細く切り取る。昼と夜の境目。視界が曖昧になり、音が少しだけ遅れて届く。
ピリィが、きゅっとユウトの首元に寄った。
『……この森、考え事してる音がしますぅ』
「分かる」
ユウトは、足を止めずに答えた。
「ここは、決めきれない場所だ」
森を抜けた先に、小さな焚き火が見えた。
旅人の一団だ。三人。商人風の男、年配の女、そしてまだ若い少年。
彼らは、警戒する様子もなくユウトたちを迎え入れた。
「旅の方かい?」
「夜道は危ない。火を使っていきな」
断る理由はなかった。
ユウトたちは、焚き火を囲んで腰を下ろした。
しばらくは、他愛のない話だった。
道の状態、物価、最近の噂。
そして――
自然に、その話題は出た。
「最近さ」
商人の男が言う。
「各地で、変な言い争いが増えてる」
「正しいとか、正しくないとか?」
年配の女が、ため息をつく。
「ええ」
「昔からあったけどね」
「最近は、みんな“自信満々”なのよ」
少年が、恐る恐る口を開く。
「……正しい方にいれば、安全なんじゃないの?」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
ユウトは、すぐには答えなかった。
「なあ」
代わりに、問いを投げる。
「正しい方って、どっちだ?」
少年は、言葉に詰まる。
「……えっと」
「みんなが言ってる方……?」
商人が、少し苦笑する。
「それが分かれば、苦労しない」
年配の女は、焚き火を見つめながら言った。
「正しいって言葉が、一番怖かったのはね」
「私が若い頃よ」
ユウトたちの視線が、彼女に集まる。
「戦争の時代」
「正しい旗があって」
「正しい歌があって」
「正しい敵が決められていた」
彼女は、静かに続ける。
「その中で」
「迷った人から、消えていった」
焚き火の音だけが、残る。
少年が、震える声で聞いた。
「……じゃあ」
「どうすればいいの?」
ユウトは、そこで口を開いた。
「怖いままでいい」
全員が、彼を見る。
「迷ったままでいい」
「分からないって言っていい」
「正しいって言葉を」
「誰かが“今すぐ選べ”って言い出したら」
「一回、立ち止まれ」
商人が、ゆっくり頷いた。
「……あんた、変わってるな」
「よく言われる」
ユウトは、軽く笑った。
「でもな」
「正しさは、走らせると暴走する」
「歩かせろ」
「一人一人の速さで」
年配の女が、深く息を吐いた。
「……それができたら」
「どれだけ、楽だったか」
ピリィが、そっと言う。
『今からでも……遅くないですぅ』
女は、微笑んだ。
「ええ」
「今からでも」
その夜、焚き火は長く燃えた。
誰かが答えを出すことはなかった。
だが、誰も黙らされなかった。
それだけで、十分だった。
夜半、ユウトは一人、少し離れた場所で空を見上げていた。
星が、まばらに瞬いている。
整列していない。
完璧な形でもない。
(……世界は、こんなもんだ)
そのとき。
胸の奥の赤い欠片が、僅かに疼いた。
リュミエルが、静かに隣に立つ。
【……歪みが、次の段階に移っています】
「分かる」
【“正しさ”が、組織を探しています】
「教団か」
【……あるいは】
【国家です】
ユウトは、短く息を吐いた。
「でかくなったな」
【ですが】
【同時に、弱点も明確になります】
「何だ?」
リュミエルは、夜空を見上げたまま答えた。
【組織は】
【“迷い”を許容できません】
【迷いを抱えた個人が】
【必ず、内部に亀裂を作ります】
ユウトは、口角を上げた。
「なら、やることは変わらないな」
【はい】
【問いを、手放させない】
遠くで、焚き火がはぜる音がした。
人が笑う声。
疲れたが、穏やかな声。
ユウトは、背を伸ばす。
(正しさは、また牙を研ぐ)
(でも……)
迷いは、消えない。
問いは、渡せる。
それを受け取った人間は、
もう、眠らされない。
夜は、深くなる。
だが、闇は一色じゃない。
無数の考え、無数の迷いが、
小さな光となって、散らばっている。
ユウトは、再び歩き出した。
答えを持たず。
旗も掲げず。
ただ――
問いが殺される前に、
その場に立つために。
風は、まだ吹いている。
正しさに向かう風ではない。
迷いと共に、歩き続ける風が。
そしてその風は、
確かに世界の奥へ、届き始めていた。




