「正しさの残響、選択の余白」
夜の冷気が、礼拝堂を出た一行の背をなぞった。
町は静かだった。
だがそれは、眠っている静けさではない。
“考えている”静けさだ。
通りに立つ家々の窓には、まだ灯りが残っている。誰も大声を出さない。だが、人の気配は消えていなかった。扉の向こうで、誰かが誰かと話している。あるいは、一人で壁を見つめている。
正しさの影は去った。
だが、残響は――確実に残っている。
「……後味、最悪だな」
ユウトが小さく呟くと、レオンが隣で頷いた。
「ああ。斬った方が楽な相手だった」
「だな。でも、斬ったら負けだった」
レオンはそれ以上、何も言わなかった。
剣を握る者ほど分かる。
斬れない戦いの方が、よほど消耗することを。
ピリィは、ユウトの肩に乗ったまま、町を見回している。
『みんな……起きてますぅ』
『眠ってないですぅ』
「それが、今回の結果だ」
ユウトは答えた。
「良くも悪くもな」
ゴルドが、珍しく口を開く。
『……筋肉は』
『正しいとか、よく分からん』
「だろうな」
『でも』
『さっきの場所、息が詰まった』
『外に出たら……楽になった』
「それで十分だ」
ユウトは歩きながら言った。
「正しさってのはな」
「“分かった気にさせる”のが一番危ない」
リュミエルは、少し後ろを歩きながら、静かに周囲を観測していた。町全体に広がる感情の波が、まだ不安定だ。
【……歪みは、完全には消えていません】
「分かってる」
【ですが】
【今夜、根を張ることもできなかった】
ユウトは、ふっと息を吐く。
「なら、上出来だ」
宿へ戻る途中、角を曲がったところで、一人の町人と出くわした。
中年の男だ。
礼拝堂にいた一人。
男は、ユウトたちを見るなり、深く頭を下げた。
「……さっきは、すみません」
「何がだ?」
ユウトは足を止めた。
「俺……正しいって言葉に、すがりたくなってました」
「自分で考えるのが、怖くて」
沈黙。
男は、拳を握りしめる。
「でも……」
「あなたの言葉を聞いて」
「怖いままでいいって、思えた」
ユウトは、少しだけ目を細めた。
「それは……選んだってことだ」
「はい」
男は、ぎこちなく笑った。
「まだ、正しいかどうかは分かりません」
「でも……自分で決めたって言える気がします」
ユウトは、肩をすくめた。
「それでいい」
「正しいかどうかは、後で決まる」
男はもう一度、頭を下げて去っていった。
ピリィが、小さく囁く。
『……あの人、ちょっと軽くなってましたぁ』
「だな」
レオンが言った。
「影が嫌う瞬間だ」
宿に戻ると、全員がそれぞれの場所に腰を下ろした。
今夜は、誰もすぐに眠れない。
リュミエルが、ユウトの前に立つ。
【……“正しさの影”】
【非常に厄介な存在です】
「だろうな」
【委ねの歪みよりも、拡散しやすい】
【人は、自分が正しいと思いたがる生き物ですから】
ユウトは、ベッドに腰掛け、靴を脱いだ。
「しかもあれは、悪意が薄い」
「本人は、救ってるつもりだ」
レオンが、低く言う。
「だから、止まらない」
「そうだ」
ユウトは、天井を見上げた。
「悪いことをしてる自覚がない敵ほど、厄介なもんはない」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
その沈黙を破ったのは、ピリィだった。
『でも』
『今日は、負けてないですぅ!』
全員が、ピリィを見る。
『だって』
『みんな、選ばされなかったですぅ』
『ちゃんと……考えてましたぁ』
ユウトは、思わず笑った。
「その通りだ」
リュミエルも、静かに頷く。
【今夜は】
【“正しさ”が、完全な形を得る前に止められました】
「でも、次は違う」
レオンが言う。
「あいつは、もっと巧妙になる」
「だろうな」
ユウトは、胸の奥の鼓動を感じていた。
赤い欠片が、ゆっくりと、しかし確実に脈打っている。
(世界が……本気で試してきてる)
剣を持つ勇者では足りない。
拳を振るうだけでは届かない。
必要なのは――
人が“考える余地”を守り続けること。
「明日、町を発つ」
ユウトは、はっきりと言った。
「ここは、もう大丈夫だ」
リュミエルが頷く。
【次の歪みは】
【より多くの人が集まる場所に現れるでしょう】
「国か?」
【……あるいは】
【信仰そのものです】
空気が、重くなる。
レオンが、剣の柄に手を置いた。
「世界を敵に回す覚悟が要るな」
ユウトは、笑った。
「今さらだろ」
ピリィが、胸を張る。
『ピリィ、ついていきますぅ!』
『正しさに、ぷるぷるするですぅ!』
「頼もしいな」
ゴルドが、腕を組む。
『筋肉も』
『正しさ、殴れないか考える』
「考えなくていい」
小さな笑いが、部屋に落ちた。
だが、その奥で、全員が理解していた。
これは序章だ。
正しさの影は、まだ名を得ただけ。
これから、教義になり、制度になり、正義を名乗る。
そのたびに――
選択は、削られていく。
ユウトは、目を閉じた。
(だから、削らせない)
迷いは、弱さじゃない。
考えることは、罪じゃない。
それを奪う“正しさ”と戦うために、
彼は剣を抜かない。
夜は、ゆっくりと更けていく。
町は、まだ不安定だ。
だが――眠らされてはいない。
そして風は、静かに吹いていた。
正解を示す風ではない。
迷いを抱えたまま、歩かせる風が。
“選ばせる戦い”は、次の地平へ。
正しさが刃を持つ前に。
その影が、世界を覆う前に。
ユウトたちは、また歩き出す。
答えを与えるためではなく――
問いを、奪わせないために。
夜明けは、思ったよりも静かに訪れた。
鳥の声が、どこか遠慮がちに響く。朝日が差し込むには、まだ少し早い。空は薄く白み始めているが、夜の名残が町を抱いたままだ。
宿の部屋で、ユウトは目を開けていた。
眠っていない。
だが、横になっていた時間は確かにあった。
(……夢は、見なかったな)
夢を見る余裕がないのは、心が張り詰めている証拠だ。悪い兆候ではない。今は、それでいい。
隣のベッドでは、レオンがすでに起きて剣帯を締めている。音を立てない動き。昨日よりも、わずかに速い。
「早いな」
「お前が起きる気配がした」
「なんだそれ」
「長い付き合いだ」
ユウトは鼻で笑い、体を起こした。
床では、ピリィが丸くなっている。だが、完全に眠ってはいない。ユウトが動くと、ぷるんと形を変えた。
『……おはようですぅ』
『今日は、ちょっと重たい朝ですぅ』
「分かる」
ユウトは短く答えた。
ゴルドは、壁際で腕立て伏せをしていた。音は静かだが、床板がかすかに軋む。
『……夜明け前が』
『一番、筋肉が目覚める』
「意味分からん」
『……だが、嫌いじゃない』
リュミエルは、窓際に立ち、町を見下ろしていた。光の流れ、感情の揺らぎ、まだ残る残響を読み取っている。
【……町は、保っています】
「完全じゃないだろ」
【はい】
【ですが、今は“正しさ”が定着する余白がありません】
ユウトは、ゆっくりと息を吐いた。
「それでいい」
朝食は簡素だった。パンとスープ、干し肉少々。だが、味はしっかりしている。宿の主人が、無言で多めに用意してくれた。
別れの挨拶は、なかった。
必要な人には、もう言葉を渡した。
あとは、それぞれが選ぶだけだ。
町を出るとき、門の近くで数人の町人が立っていた。誰かが呼び止めるわけでもない。ただ、見送っている。
その中に、昨夜話した中年の男がいた。
目が合う。
男は、深くは頭を下げない。
代わりに、胸に拳を当て、短く頷いた。
ユウトも、同じように頷き返す。
(それでいい)
町を離れると、空気が変わった。
風が、開ける。
蒼風は、細く、だが確かに前方へ流れている。
「……次は、どこだ」
レオンが呟く。
リュミエルが、少し間を置いて答える。
【人が集まり】
【“正しさ”を共有したがる場所】
「市場か」
【それもあります】
【ですが……】
リュミエルは、視線を遠くへ向ける。
【次は、“物語”の形を取る可能性が高い】
「物語?」
ユウトが眉を寄せる。
【英雄譚】
【教訓】
【成功と失敗を、分かりやすく切り分けた話】
ユウトは、舌打ちしそうになるのを堪えた。
「……最悪だな」
「剣より、言葉の方が速い」
レオンが言う。
「しかも、真似しやすい」
「正解」
ユウトは、歩きながら言葉を重ねる。
「正しさが物語になると」
「人は、自分を登場人物だと思い込む」
「役割を演じ始める」
レオンが続ける。
「正しい役」
「間違った役」
ピリィが、少し不安そうに揺れた。
『それ、苦しいですぅ……』
『自分じゃなくなるですぅ』
「だから、止める」
ユウトは、即答した。
「役を演じさせる前に」
「余白を残す」
道は、なだらかな丘を越えていく。
その先に、幹線路が見えた。
人の往来が多い。
荷車、商人、旅人。
噂が集まる場所だ。
そして――
リュミエルが、立ち止まる。
【……来ています】
ユウトも感じた。
空気が、少しだけ歪んでいる。
だが、昨日のような重さはない。
もっと軽い。
もっと、忍び込むような感触。
(これは……)
道の脇に、簡易的な舞台が組まれていた。
木箱を積み、布を垂らしただけのもの。
そこに、一人の男が立っている。
吟遊詩人だ。
派手ではないが、声はよく通る。
「――さて、皆さん」
「今日は、ある町で起きた“正しい奇跡”の話をしよう」
ユウトの足が、止まった。
(……早いな)
男は、朗々と語る。
「迷える人々を救った、導き手の話だ」
「正しさを示し」
「人々を混乱から救った、優しい存在の物語」
人が、集まり始めている。
「だが――」
「そこに、疑問を投げかける者が現れた」
ユウトの胸が、ひやりとした。
「その者は言った」
「正しさは、重いものだと」
「迷いは、消すものではないと」
男は、少しだけ声を強める。
「だが、考えてほしい」
「迷い続けることは、本当に正しいのか?」
ざわ、と空気が揺れる。
(来た……)
これは、昨日の出来事を加工した物語だ。
しかも――意図的に。
「人は、疲れる」
「だからこそ、正しさが必要なのではないか?」
ピリィが、震えた。
『……違うですぅ』
『それ、選ばせてないですぅ』
「分かってる」
ユウトは、低く答えた。
だが――
ここで剣を抜けば、負けだ。
ここで論破すれば、別の正しさが生まれる。
必要なのは――
ユウトは、一歩前に出た。
「面白い話だな」
吟遊詩人が、視線を向ける。
「おや、旅人さん」
「気に入ってくれたかな?」
「少しだけな」
ユウトは、舞台の下から声を投げた。
「一つ、続きが足りない」
「続き?」
「そう」
ユウトは、静かに言った。
「その町の人間が」
「その後、どう選んだかの話だ」
吟遊詩人は、言葉に詰まる。
「……それは、重要ではない」
「重要だ」
ユウトは、はっきりと言った。
「正しさを与えられた話より」
「正しさを手放して、考え続けた話の方がな」
人々の視線が、揺れる。
「物語ってのは」
「終わりを決めた瞬間に、嘘になる」
ユウトは、指で地面を叩いた。
「だから、続きは――」
「聞く側が決めろ」
沈黙。
吟遊詩人は、笑った。
だが、その笑みは、硬い。
「……変わった旅人だ」
「よく言われる」
ユウトは、背を向ける。
「その物語」
「終わりを決めるな」
「迷いのまま、置いとけ」
歩き出す。
レオン、ピリィ、ゴルド、リュミエルが続く。
背後で、ざわめきが広がる。
否定も、同意も、混じっている。
だが――
誰も、答えを受け取っていない。
それでいい。
蒼風が、わずかに強まった。
【……今のは】
「うん」
ユウトは頷く。
「正しさに、余白を殴り込んだ」
レオンが、小さく笑う。
「乱暴なやり方だな」
「でも、一番効く」
ピリィが、嬉しそうに跳ねた。
『ユウト、かっこよかったですぅ!』
『正しさ、ふにゃっとしてましたぁ!』
「それで十分だ」
道は、まだ続く。
正しさは、形を変えて追ってくる。
物語に。
制度に。
善意に。
だが――
(奪わせない)
ユウトは、前を見据えた。
答えを与えない勇者。
正解を示さない戦い。
それでも、風は吹いている。
迷いを残したまま。
考える余地を抱えたまま。
“選ばせる戦い”は、もう後戻りしない。
正しさが刃になる前に。
その刃が、世界を切り分ける前に。
彼らは、歩き続ける。
問いを――
生きたまま、渡すために。




