「正しさが人を縛る夜」
礼拝堂の中は、思ったよりも明るかった。
古い建物だ。壁にはひびが入り、床の石もところどころ欠けている。だが、天井から吊るされた数本のランプが、柔らかな光を落としているせいで、どこか“守られている場所”のような錯覚を与えていた。
その錯覚こそが、罠だ。
長椅子には、すでに町の人々が座っていた。全員ではない。だが、確実に“迷い疲れた者”が選ばれている。泣き腫らした目、考えすぎて固くなった表情、そして――期待。
「正しい答えが、ここにあるはずだ」
そう信じたい顔が、並んでいた。
祭壇の前に立つ人物は、若い女だった。
白い法衣。
長い髪。
年の頃は二十代前半だろうか。
老婆のような歪みはない。威圧も、怪しさもない。ただ、ひどく“整っている”。
「集まってくれて、ありがとうございます」
声は澄んでいた。
よく通り、耳に心地よい。
「今夜は、皆さんが迷わなくていいように」
「正しい選択を、分かち合うための場です」
ユウトは、礼拝堂の後方で足を止めた。
風が、嫌がっている。
蒼風が、肌の内側でざわつく。これは戦闘前の高揚とは違う。もっと、生理的な拒絶に近い。
(……同じだ)
運命売りと。
第四の影と。
根は、同じ。
「なぁ、レオン」
「分かってる」
レオンは低く答えた。
「剣を抜く相手じゃない」
ピリィは、ユウトの肩の上で、ぴったりと張り付いている。
『……空気が、息苦しいですぅ』
「正解だ」
ユウトは小さく言った。
「ここは、“考えなくていい空気”になってる」
祭壇の女は、ゆっくりと視線を巡らせる。
そして――ユウトたちを見つけた。
一瞬、ほんの一瞬だけ。
目が細くなる。
だが、すぐに微笑んだ。
「……初めての方も、いらっしゃるようですね」
その声に、何人かの町人が振り返る。
「大丈夫です」
「ここは、誰でも歓迎される場所」
歓迎。
その言葉に、ユウトは一歩、前に出た。
「へぇ」
場の空気が、わずかに揺れる。
「歓迎ってのは、選択肢がある時に言う言葉だ」
女の視線が、ユウトを捉える。
「あなたは……?」
「通りすがりの勇者だ」
ざわ、と小さなざわめきが起きる。
だが女は、動じない。
「勇者様でしたか」
「それは心強い」
その言葉は、称賛ではない。
利用の響きを持っていた。
「では、なおさら」
「ここで一緒に、正しさを確認しましょう」
ユウトは、首を傾げる。
「正しさ?」
「ええ」
女は頷いた。
「人は迷います」
「間違えます」
「だからこそ、指針が必要なのです」
ゆっくりと、歩きながら続ける。
「努力すれば報われるべき」
「悪い行いには罰があるべき」
「正しい者が、正しく評価されるべき」
町人たちが、小さく頷く。
当たり前の言葉。
否定しづらい言葉。
「ですが、現実は違う」
「だから人は苦しむ」
女は、そこで一拍置いた。
「――ならば」
「“正しさ”を共有すればいいのです」
ユウトの背筋を、冷たいものが走った。
(来た)
「共有、ね」
ユウトは、笑った。
「それ、誰が決める?」
女は、即答する。
「ここに集った、私たちです」
「多数決か?」
「合意です」
「違いが出たら?」
女は、少しだけ声を落とす。
「……正しい方へ、導きます」
その瞬間。
蒼風が、明確に逆立った。
(ああ、やっぱりだ)
レオンが、一歩前に出る。
「導く、という言葉は便利だな」
女は、レオンを見る。
「剣を持つ方ですね」
「あなたのような方こそ、正しさを必要とする」
「違う」
レオンは、はっきりと言った。
「俺は、迷いながら斬ってきた」
「正しさを確信したことは、一度もない」
礼拝堂が、静まり返る。
女は、少しだけ眉を寄せた。
「それは……不安では?」
「不安だ」
レオンは、即答した。
「だが、その不安を誰かに預けたくはない」
その言葉に、何人かの町人が息を呑む。
ピリィが、ユウトの肩からぴょんと跳ねた。
『ピリィも、不安ですぅ!』
『でも、不安なまま選ぶの、嫌いじゃないですぅ!』
「……スライム、ですか」
女の声に、ほんのわずかな苛立ちが混じる。
「感情論は、時に人を誤らせます」
「感情を切った正しさは、人を壊す」
ユウトが、静かに言った。
「……あんた、名前は?」
女は、胸に手を当てた。
「私は、“導き手”です」
「名前を捨ててる時点で、答え出てるな」
その瞬間。
空気が、張り詰めた。
女の背後――祭壇の影が、わずかに歪む。
光が、きれいすぎる。
整いすぎている。
「正しさを示すことが、そんなに悪いことですか?」
女の声が、少しだけ低くなる。
「迷うより、楽でしょう」
「苦しむより、正しい方がいいでしょう」
「楽で、正しい」
ユウトは、一歩ずつ、前へ出た。
「それが重なる時ほど、人は考えなくなる」
「考えなくていいことも、あるのです」
「違う」
ユウトは、はっきりと言った。
「考えなくていいんじゃない」
「考える“資格”を奪ってるだけだ」
礼拝堂の空気が、ざわつく。
女の微笑みが、消えた。
「……あなたは、危険です」
「よく言われる」
「人を迷わせる」
「迷いを返してるだけだ」
その瞬間。
祭壇の影が、はっきりと“形”を持った。
光でできた影。
白く、眩しく、輪郭だけが黒い。
それは――影だった。
第三でも、第四でもない。
“正しさ”の影。
【……確認】
【これが、次の歪み】
リュミエルの声が、ユウトの胸に響く。
女――導き手は、静かに言った。
「選びなさい」
「ここに残るか」
「それとも、混沌に戻るか」
町人たちの視線が、揺れる。
ユウトは、剣に手をかけなかった。
代わりに、言った。
「なぁ、全員に聞く」
全員が、ユウトを見る。
「ここに来て」
「少しでも、楽になったやつはいるか?」
沈黙。
「正しいって言葉を聞いて」
「胸が軽くなったやつは?」
誰も、答えない。
「……そうだよな」
ユウトは、息を吐いた。
「正しさは、重い」
「だから、委ねたくなる」
影が、ざわりと揺れる。
「でもな」
ユウトは、指を鳴らした。
「重いものを、勝手に背負わせるな」
蒼風が、礼拝堂を吹き抜けた。
光が、乱れる。
影が、軋む。
だが、まだ壊れない。
これは――斬る戦いじゃない。
「今日は、終わらせない」
ユウトは、影を真っ直ぐに見た。
「でも、名前は付けた」
「お前は――“正しさの影”だ」
影が、歪んだ。
女の声が、重なる。
「……次は、逃げ場はありません」
「上等だ」
ユウトは、背を向ける。
「その時は、もっと“選ばせて”やる」
礼拝堂を出ると、夜風が冷たかった。
だが、息はしやすい。
ピリィが、胸を張る。
『ユウト、怖かったですぅ!』
『でも……スッキリしましたぁ!』
「それでいい」
レオンが、静かに言う。
「次は……世界規模だな」
「だろうな」
ユウトは、遠くを見る。
蒼い線は、さらに先へ延びていた。
正しさは、まだ形を持っただけ。
本体は、これからだ。
だが――
(見えた)
“選ばせる戦い”は、確実に次の段階へ進んだ。
夜は、まだ終わらない。
だが、風は――
確かに、前へ吹いていた。




