「迷いの夜更かし」
夜が、完全に町を包んだ。
灯りは点いている。人の声もある。だがその声は低く、長く、どこか疲れていた。泣いたあとに残る静けさ。叫び疲れた喉が、もう大声を出せない時の空気。
広場では、まだ何人かが膝を抱えて座り込んでいる。泣き止めない者もいる。だが、誰一人として眠ってはいなかった。
それが、今夜の成果だった。
ユウトは、広場の中央から少し外れた石段に腰を下ろし、深く息を吐いた。蒼風は、まだ薄く町に残っている。風が消えないのは、町が“選ぶ途中”にある証拠だ。
「……終わった、とは言えねぇな」
小さく呟くと、隣に立っていたレオンが応じた。
「始まった、と言うべきだろう」
「だな」
二人の視線の先には、泣きながらも誰かと話している町人の姿があった。選択を返された人間は、しばらく混乱する。痛みも戻る。だが、その痛みは“自分のもの”だ。
リュミエルが、静かに歩み寄ってくる。
【……迷いの流れが、変わりました】
【完全に断てたわけではありませんが】
【少なくとも、今夜この町は“貯蔵庫”ではなくなりました】
「上出来だろ」
ユウトは肩をすくめた。
「一晩で全部正せたら、勇者の仕事じゃなくなる」
ピリィが、広場の端で町の子どもに抱きつかれて困っていた。
「ピリィちゃん……」
「また迷ったら、話していい?」
『もちろんですぅ!』
『でも、ピリィは一緒に悩むだけですぅ!』
『決めるのは……自分ですぅ!』
「……言うようになったな」
レオンがぽつりと言う。
「ユウトの影響だ」
「やめろ、照れる」
ゴルドが、少し離れた場所で腕を組みながら周囲を警戒している。
『……眠気、来ない』
『今日は……いい夜だな』
「筋肉が哲学を語るな」
だが、ユウトは内心で頷いていた。
(確かに、今日は……いい夜だ)
泣き声がある。
怒りもある。
後悔もある。
でも、眠らされていない。
それだけで、この町は一歩前に進んだ。
ユウトは、石畳に残る蒼い線へ視線を落とす。老婆――運命売りが消えた“逃げ道”。ただの足跡じゃない。歪みが、意図的に残した抜け道だ。
(誘導する歪み)
(人を眠らせ、責任を外へ逃がす存在)
「……追う」
ユウトが言うと、レオンが即座に応じた。
「明朝だな。今夜は無理だ」
「ああ。今追えば、町を置き去りにする」
リュミエルも頷いた。
【今夜は、この町の“回復”が優先です】
【選択を返された直後は、心が脆い】
ユウトは立ち上がり、広場にいる人々へ向き直った。
「今夜は、無理に決めなくていい」
突然の声に、何人かが顔を上げる。
「でもな」
「“決めない”って決めるなら、それは自分で決めろ」
「札も、運命も、他人も関係ない」
沈黙。
だが、否定はなかった。
「明日も迷う」
「明後日も迷う」
「それでいい」
ユウトは、ゆっくりと言葉を置く。
「迷いは、消すもんじゃない」
「持ったまま、歩くもんだ」
その言葉に、誰かが小さく泣いた。
その泣き声は、眠りへ落ちる音じゃない。
前を向くために、息を吸う音だった。
夜が、少しだけ進む。
町の灯りが落ち着き、広場の人々も家路につき始めた。全員が立てるわけじゃない。だが、誰かが誰かを支えている。預けるのではなく、並んで。
それを見届けてから、ユウトたちは宿へ戻った。
部屋に入ると、張り詰めていた空気が一気に抜ける。
「……疲れた」
ユウトがベッドに倒れ込むと、ピリィが胸の上に落ちてきた。
『お疲れですぅ!』
『今日のユウト、すごくユウトでしたぁ!』
「意味分からん褒め方すんな」
レオンは椅子に腰を下ろし、剣を壁に立てかける。
「だが……正しいやり方だったと思う」
「珍しいな。素直だ」
「町を壊さずに歪みを止めた」
「……俺一人じゃ、できなかった」
ユウトは天井を見ながら言った。
「俺もだ」
リュミエルは窓際に立ち、夜風を受けながら静かに目を閉じている。
【……今日の歪みは、“第四の影”の延長です】
【でも、確実に……性質が変わっています】
「どう違う」
【第四の影は、“判断”でした】
【こちらは……“委ね”です】
【判断を放棄し、責任を外へ置くための歪み】
ユウトは眉を寄せる。
「つまり……」
【人が人である限り】
【何度でも生まれる可能性がある歪みです】
重い言葉だった。
剣で斬れば終わる敵じゃない。
倒しても、また別の形で現れる。
「……厄介だな」
レオンが低く呟く。
「だが、弱点も見えた」
「人が“選び直す”瞬間だろ」
ユウトが即答する。
「委ねは、選択が戻った瞬間に崩れる」
「だから、あいつは眠らせる」
ピリィが、ぷるんと震えた。
『眠らせるのは……ズルですぅ』
『だって、起きてる方が……ずっと勇気いるですぅ』
「正論やめろ」
ゴルドが腕を組んだまま、珍しく真面目な声で言った。
『……次は、もっと悪い』
『今日のは、まだ“優しい”』
全員が、黙った。
ゴルドの直感は、外れない。
リュミエルが、静かに続ける。
【今日の運命売りは】
【“委ねたい心”に寄り添うふりをしていました】
【ですが……】
【次に現れる歪みは、もっと強く“正しさ”を語るでしょう】
「……選べ、と強制するタイプか」
レオンが吐き捨てる。
「ある意味、今日より厄介だ」
ユウトは、胸の奥で赤い欠片の鼓動を感じていた。世界の中心が、確かに警鐘を鳴らしている。
(歪みは、進化する)
(でも……俺たちも、進む)
ユウトは起き上がり、拳を軽く握った。
「明日の朝、追跡開始だ」
「逃げ道の印、まだ生きてる」
レオンが頷く。
「準備は俺がする」
ピリィが、胸を張る。
『ピリィは……町の人にお別れ言ってくるですぅ!』
『ちゃんと、“自分で選んだ”って言えるようにですぅ!』
「それ大事だな」
ゴルドが、拳を鳴らす。
『筋肉も準備する!!』
「何を」
『……いっぱい食う!!』
「いつも通りじゃねぇか」
小さな笑いが、部屋に落ちた。
だが、その笑いの奥で、全員が理解していた。
これは通過点だ。
“委ね”の歪みは、まだ終わっていない。
むしろ――本体へ繋がる糸を掴んだだけだ。
夜が深まる。
町は、まだ不完全だが眠っている。
眠らされていない眠り。
明日を迎えるための休息。
ユウトは、窓の外を見た。
遠く、蒼い線が夜の闇に溶けながら、確かに“先”を示している。
(次は……追う)
(逃がさない)
剣でも、拳でもない。
“選ばせる戦い”の、次の段階へ。
風は、静かに吹いていた。
迷いを消さずに、前へ進ませる風が。
夜が、ゆっくりとほどけていった。
完全な静寂ではない。どこかの家で扉が閉まる音、遠くで咳払いをする気配、犬が一度だけ短く吠える声。町はまだ起きている部分を残したまま、しかし確かに“休息”へ向かっていた。
ユウトは、窓辺に立ったまま、しばらく外を眺めていた。
蒼い線――運命売りが残した逃げ道の痕跡は、夜の闇に溶けながらも、完全には消えていない。目を凝らさなければ見えないほど細く、それでいて確実に「向こう」を指している。
(……あれは、誘導の跡だ)
ただ逃げたのではない。
“追わせる前提”で残した線。
それが意味するのは一つ。
「……罠だな」
ぽつりと漏れた言葉に、レオンが振り向いた。
「だろうな」
彼はすでに剣の手入れを終え、布で刃を包んでいた。音を立てない、慣れた動きだ。
「だが、追わなければ話は進まない」
「分かってる」
ユウトは頷いた。
「罠だって分かってて踏むのも、選択だからな」
その言葉に、レオンが一瞬だけ目を細める。
「……お前、本当にそういうところだな」
「どういうところだよ」
「怖いことを、怖いまま引き受けるところだ」
ユウトは苦笑した。
「怖いって言えるだけ、マシだろ」
ベッドの上で、ピリィがぷるんと身を揺らした。
『ユウト、怖いのに行くの、やめないですぅ?』
「やめたら、もっと怖くなる」
『……そうでしたぁ』
ピリィは納得したように、ぺたりと丸くなる。
ゴルドは壁にもたれかかり、目を閉じている。寝ているようで、寝ていない。筋肉が“待ち”の状態に入っている時の姿勢だ。
『……明日、強いか』
「たぶんな」
『……なら、もっと食う』
「そこじゃねぇだろ」
小さなやり取りのあと、部屋に再び静けさが戻った。
リュミエルは、窓の外ではなく、ユウトの背中を見ていた。赤い欠片――世界の核層が、今も微かに脈打っている。
【ユウトさん】
「ん?」
【あなたは……】
【“委ね”の歪みを、どう終わらせるつもりですか】
少し、間があった。
ユウトはすぐに答えなかった。
剣で斬るわけじゃない。
説得で済む相手でもない。
だからこそ、考える。
「……あいつは、人の弱さを否定しない」
「否定しない代わりに、そこに居座る」
リュミエルが、静かに頷く。
【はい】
【だから、正論では崩れません】
「だろうな」
ユウトは、蒼い線から視線を外し、天井を見上げた。
「だから……あいつには“成功例”を潰す」
【成功例?】
「ああ」
ユウトは言葉を選ぶ。
「委ねることで楽になれた、救われた、って体験」
「それが一度でも本物だと、人は縋る」
「だから、あいつは“成功したように見せる”」
レオンが、静かに続ける。
「ならば――委ねなくても立てた、という成功例を重ねるしかない」
「そういうこと」
ユウトは頷いた。
「時間がかかる」
「派手じゃない」
「でも……それしかない」
リュミエルは、しばらく沈黙してから、ゆっくりと息を吐いた。
【……勇者の戦い方では、ありませんね】
「勇者って言葉、便利すぎるんだよ」
ユウトは笑った。
「俺は、剣で解決できない問題を後回しにしないだけだ」
その言葉に、リュミエルの表情が、ほんの少し柔らぐ。
【……世界は】
【そういう勇者を、待っていたのかもしれません】
夜は、さらに深まる。
だが、眠りは浅い。
全員が、明日を意識している。
その時――
ユウトの胸の奥で、風が鳴った。
強風ではない。
ざらりとした、不快な揺れ。
(……来た)
同時に、リュミエルが顔を上げる。
【ユウトさん】
【逃げ道の線が……動いています】
「動いてる?」
レオンが立ち上がる。
「追跡を警戒して、場所を変えているのか」
「いや……違う」
ユウトは目を閉じた。
線が動く感覚。
それは、逃げる動きじゃない。
“誘っている”。
「……あいつ、わざと近づいてきてる」
ゴルドが、目を開けた。
『来るか』
「ああ」
ユウトは短く答えた。
「町の外じゃない」
「……町の中だ」
ピリィが、ぴくっと震える。
『また……眠らせに来るですぅ?』
「たぶんな」
「でも、今度は違う」
ユウトは、ゆっくりと息を吸った。
「今夜は“札”じゃない」
「今夜は……“言葉”だ」
まるで、それを合図にしたかのように――
遠くで、鐘の音が鳴った。
町の中央にある、小さな礼拝堂。
普段は使われていない、古い建物。
ゴーン……ゴーン……
規則正しい音。
眠りを誘う音ではない。
“集まれ”と告げる音だ。
リュミエルが、青ざめる。
【……あれは】
【“正しさ”を集める合図です】
レオンが、歯を噛みしめる。
「……来たな」
ユウトは、迷わなかった。
「行くぞ」
「今夜で終わらせるつもりか?」
レオンの問いに、ユウトは首を振る。
「終わらせるんじゃない」
「……正体を掴む」
宿を出ると、夜風が肌を打った。
町の人々が、ゆっくりと礼拝堂へ向かって歩いている。泣き疲れた顔、考え込む顔、決意を固めた顔。
だが――そこには、さっきまでとは違う匂いが混じっていた。
眠気ではない。
諦めでもない。
“正しさに縋りたい匂い”。
ピリィが、小さく呟く。
『……これ、怖いですぅ』
「分かる」
ユウトは答えた。
「委ねより、正しさの方が……人は壊れやすい」
礼拝堂の扉は、開いていた。
中から、穏やかな声が響く。
「迷った人たちよ」
「今夜は、正しい道を示しましょう」
老婆の声ではない。
若い。
柔らかく、澄んでいる。
だが――ユウトの風は、即座に拒絶した。
(……同じ匂いだ)
違う仮面。
同じ歪み。
レオンが低く言う。
「来るぞ」
ユウトは、一歩踏み出した。
今夜の敵は、“運命”を名乗らない。
“正しさ”を名乗る。
そしてそれは――
これまでで、最も厄介な歪みだった。
夜の鐘が、最後の一打を鳴らす。
ゴーン――
その音が消えた瞬間。
礼拝堂の中で、何かが“始まった”。
ユウトは、確信していた。
これは、もう町一つの問題じゃない。
“選ばせる戦い”は、次の段階へ入ったのだ。
風は、静かに。
だが確実に――
前よりも重く、吹いていた。




