「迷いの時間」
夕方の町は、昼よりも静かだった。
人の数は減っていない。店も開いている。笑い声もある。けれど、その笑い声は「今日を終わらせるための音」に近い。息を吸って吐くのと同じで、笑っておかないと沈んでしまう、そんな空気。
ユウトは石畳を歩きながら、風の“引っかかり”を確かめた。
(……札の匂い、まだある)
甘い眠気みたいな匂い。
迷いを預けた時にだけ残る、軽い諦めの残り香。
「ユウト、まず何を聞く」
レオンが隣で低く言う。平静を装っているが、瞳が鋭い。町そのものが盾になる戦い――一番、彼が嫌うタイプだ。
「札を引いた奴の“その後”だ」
ユウトは即答した。
「引いた瞬間が救いに見えても、夜に反動が来る。そこを拾わないと、運命売りに勝てねぇ」
ピリィが肩にぺたりと張りついて、ぷるんと頷く。
『女子会の力で拾ってくるですぅ!』
『“その後”はだいたい、女子会に落ちてくるですぅ!』
「女子会、万能かよ」
『万能ですぅ! あとお菓子も万能ですぅ!』
「後半は黙っとけ」
ゴルドは後ろで、やたら大きい足音を立てないよう努力しているのが分かる。努力はしている。結果は、半分くらい失敗している。
『筋肉、静かに歩くの苦手だ……』
「今さら気づくな」
リュミエルは、町の上空――目に見えない“線”の流れを、胸の前でそっと指先を揺らしながら追っていた。
【迷いが……集まっていく場所があります】
【夜になれば、もっと濃くなります】
【……あの広場の奥、路地の突き当たり】
「やっぱり中心は広場か」
ユウトは目を細める。
(今夜、あそこに“貯蔵庫”が開く)
運命売りは言った。
札は迷いを吸って、次へ渡す、と。
つまり――この町の迷いは循環しているようで、どこかに溜め込まれている。
溜め込まれた迷いは、いずれ“形になる”。
その瞬間を抑えればいい。
だが、強引に壊せば、人の心が一気に崩れる。
(壊さずに終わらせる)
その条件が、今回の難易度を跳ね上げていた。
ユウトたちは一旦、町の広場から少し外れた小さな露店通りに散った。
情報を拾うために。
ユウトは、果物を並べる店の前で立ち止まった。
店主の男は愛想笑いをしているが、手元の皮むきが異様に速い。落ち着かない証拠だ。
「なぁ、昨日ここで札引いた奴、いるか?」
男は一瞬だけ手を止めた。
「……旅の人かい。勇者って噂の」
「いるよ。ここらじゃみんな一度は引く」
「悪いもんじゃない。助かってるんだ」
「助かった“直後”はな」
ユウトは果物を一つ手に取って、代金を置いた。
「夜、眠れてるか?」
男の目が泳ぐ。
「……眠れる、よ。眠れるとも」
「ただ……夢が、ね」
「どんな」
男は、笑いながら言おうとして、笑えずに吐き出した。
「夢の中で、札が鳴るんだ」
「カラ、カラって」
「俺が何かを決めようとするたび、誰かが後ろから箱を揺らす」
「……で、目が覚めたら、決めたはずのことが全部“自分のもの”じゃなくなってる気がする」
ユウトは黙って聞いた。
それは“救い”じゃない。
責任の置き場所を奪われた結果の、薄い喪失だ。
「そのままにしてると、もっと薄くなる」
ユウトが言うと、男は怯えたように見た。
「……薄く?」
「自分が。人生が」
男は唇を噛んだ。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
ユウトは即答しなかった。
簡単な答えを出したら、それもまた“運命”になる。
「小さいのから選べ」
そう言って、果物を少しだけ掲げた。
「今日、これを食うか食わないか」
「今夜、酒を飲むか飲まないか」
「帰り道を右にするか左にするか」
男はぽかんとしてから、苦笑した。
「そんなことで……」
「そんなことが、戻す一歩だ」
男はしばらく考えて――小さく頷いた。
「……じゃあ、今日は帰り道、左にする」
「いつも右だったから」
「いいじゃん」
ユウトがそう言った瞬間、風がほんの少し軽くなる。
誰かが、確かに自分で選んだ。
それだけで、札の“眠気”は薄れる。
ユウトは頷いて歩き出した。
(積み重ねだな)
その頃、ピリィは露店通りの端で、すでに女子会を開いていた。
早い。展開が早い。
「ピリィちゃん、昨日もいたよね?」
「今日は札、引くの?」
「怖いけど、引いたら楽になるって……」
ピリィは胸を張る。
『引かないですぅ!』
『ピリィは……自分で選ぶですぅ!』
「え……でも、選ぶのって怖いよ」
「失敗したらどうするの」
ピリィはぷるんと震えた。
『失敗しても……そのあとに、おしゃべりするですぅ!』
『泣いてもいいですぅ!』
『でも、札に泣かされるのはダメですぅ!』
村娘……いや町娘たちが、顔を見合わせて笑ってしまう。
「なにそれ、可愛いけど、ちょっと強い」
「……ねえ、勇者様たちっていつもそうなの?」
「泣きそうでも、前に行くの?」
ピリィは、少しだけ目を細めた。
『ユウトは……怖いって言うですぅ』
『怖いって言って、でも行くですぅ』
『だから、ピリィも行けるですぅ』
その言葉に、何人かの娘の目の奥が少しだけ潤んだ。
“運命”に預けたかったのは、弱さじゃない。
一人で抱える怖さだった。
そしてレオンは、町の掲示板前で古い貼り紙を剥がしながら情報を拾っていた。
“運命売り”の噂は、この町だけのものじゃない。
「……各地で似た話があるな」
剥がした紙の下に、薄い文字で書かれたメモがあった。
“迷いの札/夜だけ/引いた者は眠る”
“広場の奥/箱の音/老婆”
レオンの眉が深くなる。
(同一個体か、模倣犯か)
(……いや、匂いが同じなら“枝”だ)
第四の影が消えたあとに生まれた枝。
“判断”の次は、“委ね”。
人の顔をして、甘い言葉で寄り添う歪み。
レオンは、言葉を吐き捨てるように呟いた。
「……厄介だな」
そしてゴルドは、路地の入口で“眠気”が漂う場所を見張っていた。
筋肉は壁。本人はそれを本気で信じている。
路地の奥から、ふわり、と薄い空気が流れてくる。
眠りに誘うような、優しい匂い。
『……来たか』
ゴルドは腕を組み、仁王立ちする。
通りかかった子どもが「うわ、でっか……」と呟いて逃げた。
『泣くな! 守りだ! 守り!!』
余計泣いた。
夕方が、夜へ沈む。
町の灯りが一つ、また一つと点く。
人々の会話が減り、足音が増える。
眠る前の静けさ。
そして――迷いの時間。
ユウトたちは広場へ戻った。
集合は早い。準備も揃った。
「情報は?」
ユウトが問うと、レオンが短く答える。
「各地で似た現象」
「この町が“実験場”の可能性がある」
「ピリィは?」
『引いた人ほど、夜に泣くですぅ!』
『でもみんな、“泣いたのは自分のせいじゃない”って言われると安心するですぅ』
『……安心して、そのまま寝るですぅ』
「最悪だな」
ユウトが言うと、リュミエルが静かに頷いた。
【責任を手放す安心は、一時だけです】
【その後に来るのは……自分が自分でなくなる怖さ】
ゴルドが拳を鳴らす。
『殴っていいか!?』
「まだだ」
ユウトは即答する。
「殴れる相手が“歪み”なら殴る。でも今日は“町”が主役だ」
ゴルドが真顔になる。
『……町は殴れない』
『分かった……筋肉、我慢する……』
「偉い」
「たぶん明日には忘れるがな」
レオンが平然と刺す。
そして――広場の奥、路地の突き当たり。
カラ、カラ。
木箱の音が鳴った。
眠気の匂いが、町全体に薄く広がる。
人々が、吸い寄せられるように集まっていく。
昨日の後悔を抱えた目。今日の疲れを引きずった肩。
そこへ“運命”が差し出される。
老婆が、そこにいた。
「迷ったらね、札を引きなさい」
「今夜も、眠れるわよ」
人々の顔が、ほっと緩む。
その瞬間に、ユウトの風がざらりと鳴った。
(……吸ってる)
迷いが、空気から抜けていく。
代わりに、薄い“空白”が増える。
ユウトは前に出た。
昨夜とは違う。
今日は、準備してきた。
「運命売り」
老婆がにこりと笑う。
「また来たのね、勇者」
「来るって言っただろ」
「札、返してもらう」
老婆は箱を揺らす。
カラ、カラ。
「返す? 返したらどうなるの」
「この町の人は泣くわ」
「壊れるかもしれないわ」
「壊れないように返す」
ユウトは言い切った。
「少しずつだ」
「戻す間、俺たちが支える」
老婆が目を細める。
「支える? どうやって?」
ユウトは、指を折った。
「まず、札を引く前に“選択”をひとつさせる」
「札に頼る前に、自分で決める練習をする」
「札は最後の最後に置く。……でも、その札は“空っぽ”にする」
老婆が笑う。
「空っぽ?」
ユウトは蒼風を、ほんの小さく吹かせた。
風は優しい。頬を撫でる。眠気を叩く。起こす風。
「札が迷いを吸うなら、逆に吐かせる」
「溜め込んだ迷いを、箱から“返す”」
老婆の笑みが、初めて明確に薄くなった。
「……できると思っているのね」
「できるかどうかは後でいい」
「俺は“やる”って選ぶ」
その言葉に、広場の空気が少しだけ変わる。
人々が、ユウトを見る。
「勇者様……」
「……札、引かなくてもいいの?」
ユウトは答えない。
代わりに、問い返す。
「今夜、何に迷ってる」
一人の男が、震える声で言った。
「仕事を辞めるか、続けるか……」
ユウトは頷いた。
「じゃあ今、決めろ」
「え……」
「決められないなら、決めないって決めろ」
「……でも、その決めないは“札”じゃなく、お前の手で決めろ」
男の喉が鳴る。
周りの目が集まる。
逃げたくなる空気。
その時、ピリィがぷるんと前に出た。
『大丈夫ですぅ!』
『決めるって、カッコいいですぅ!』
『間違えたら……あとで泣いていいですぅ! ピリィが聞くですぅ!』
場が、少しだけ緩む。
笑いが混じる。
男は、息を吸って――言った。
「……今日は、辞めない」
「でも、辞める準備はする」
「明日、上司に話す」
ユウトは頷いた。
「それが“今のお前”の選択だ」
その瞬間、箱の中で札が、嫌な音を立てた。
カラ、ではない。
ギ、……と。
迷いを吸う流れが、乱れた。
“運命”へ渡るはずの迷いが、本人の胸に戻ったからだ。
老婆の目が鋭くなる。
「……やるわね」
ユウトは歩みを止めない。
「次」
「迷ってるやつ、来い」
人々の中から、ぽつぽつと声が上がり始める。
選ぶのが怖い。失敗が怖い。怒られるのが怖い。笑われるのが怖い。
全部、正直な怖さ。
ユウトはそのたびに、短く言う。
「怖いなら怖いって言え」
「泣くなら泣け」
「でも札に決めさせるな」
レオンが、群衆の後ろ側を睨みながら支える。
「押すな。焦るな」
「順番に話せ」
ゴルドが腕を広げて、眠気が広がるのを体で遮る。
『眠い奴は肩貸すぞ!! 起きろ!!』
「肩貸すな、抱え込むな」
ユウトがツッコむ。
『じゃあ……背中で支える!!』
「それも抱え込む側だろ」
それでも、ゴルドがいるだけで人が倒れない。
筋肉は壁。今日は割と合っている。
リュミエルは、箱へ伸びる“迷いの線”を見つけていた。
空気から箱へ吸い込まれる細い線を、指先で辿る。
【……箱の中に】
【“溜まり”があります】
【迷いが……沈殿して……生き物みたいに……】
ユウトは目を細めた。
「形になる前に吐かせる」
老婆が、箱を抱えて一歩後ろに下がる。
「やめなさい」
「あなたはこの町を壊す」
「壊さない」
ユウトが言い切った瞬間――箱の中から、声にならない声が漏れた。
“決められない”
“怖い”
“私のせいじゃない”
“誰か決めて”
それが、重なって、うねって――広場の地面の線が揺れ始める。
リュミエルが息を呑む。
【……来ます】
【迷いが……形になります】
地面から、薄い影が立ち上がる。
人の形をしているようで、していない。
顔はない。輪郭だけが揺れる。
ただ一つだけ確かなのは、“委ねたい”という衝動。
老婆が静かに言った。
「ほら」
「これが“空白”に落ちる怖さよ」
人々が悲鳴を上げかけた瞬間、ユウトは蒼風を強く吹かせなかった。
強く吹けば、影を吹き飛ばせる。
でもそれは、“影ごと迷いを消す”ことになる。
ユウトは、あえて弱い風を通した。
風は影を撫でる。
「……お前は、迷いだな」
影は揺れる。
答えはない。
でもユウトには分かる。
これは敵じゃない。
“溜め込まれた迷いの残骸”だ。
「消さねぇ」
ユウトは言った。
「返す」
老婆が目を見開く。
「返す? そんなことをしたら――」
「泣く」
「痛む」
「でも、立てる」
ユウトは、風を“分岐”させた。
広場にいる人々へ、細い風の糸を繋ぐ。
選択を口にした者。怖いと言えた者。小さくでも決めた者。
その“自分の声”が残っている人に、風が届く。
「おい」
ユウトは影に向かって言う。
「迷いを、持ち主に返す」
「一気じゃない。今、選べた分だけ返す」
リュミエルが理解して、光の線を重ねた。
【……迷いを“抱え直す”だけの器ができた人に】
【少しずつ……戻す……】
ピリィが叫ぶ。
『みんな、怖いって言っていいですぅ!!』
『泣いていいですぅ!!』
『でも、寝ないで起きてるですぅ!!』
レオンが短く命じる。
「目を逸らすな」
「逃げたいなら逃げたいと言え」
「……それでいい」
ゴルドが豪快に頷く。
『筋肉も怖い!! でも立つ!!』
「お前は黙って立ってろ」
その瞬間、影が“ほどけた”。
形が崩れる。
迷いが細い線になって、空へ散るのではなく――人々へ戻っていく。
「……うっ」
男が膝をつく。
胸を押さえる。
「……怖い」
「俺、逃げたかった……」
泣き声が上がる。
だが、その泣き声は“眠気”じゃない。
生きてる声だ。
老婆が箱を抱えたまま、震えるように言った。
「……あなた」
「本当に、壊さないつもりなのね」
「当たり前だろ」
ユウトは息を吐く。
「壊すのは簡単だ」
「難しいのは……戻すことだ」
老婆は、初めて焦りを見せた。
箱を揺らす。
カラ、カラ、カラ。
眠気が濃くなる。
周囲の人々が、また目をぼんやりさせる。
(来た……強制睡眠)
だがユウトは、風を強めない。
強風で起こしたら、今度は反動で倒れる。
代わりに――ユウトは“問い”を投げた。
「今夜の一個だけ、選べ!」
広場に響く声。
眠気に沈む直前の心に刺さる声。
「札を引くか、引かないか」
「今ここで、決めろ!」
ざわめき。
怖い。
怖いけど――
誰かが、震えながら言った。
「……引かない」
それに続いて、別の声。
「引かない」
「……怖いけど、引かない」
声が重なる。
選択が重なる。
その瞬間、箱の中の札の音が――止まった。
カラ、が鳴らない。
吸えない。
迷いが、預けられない。
老婆の顔が、初めて“老婆ではない”揺れ方をした。
目の奥が冷える。
笑みが、仮面みたいに浮く。
「……ふふ」
「いいわ」
「今夜は、ここまで」
老婆の輪郭が、薄くなる。
人混みの隙間へ溶けるように消える――だけど、今度はユウトが逃がさない。
蒼風が、ひと筋だけ走った。
傷つけない風。
“道”を作る風。
老婆が消える先の空間に、細い蒼い線が残る。
「……逃げ道に印を付けた」
レオンが息を吐く。
「追えるのか」
「追う」
ユウトは短く答えた。
「でも今夜は、ここで終わらせる」
広場に残った人々は、泣いていた。
怒っている者もいた。
肩を落としている者もいた。
それでも――目は開いている。
眠っていない。
リュミエルが胸に手を当てて、静かに言った。
【……迷いは消えません】
【でも、迷いを“自分のもの”に戻せば】
【世界は……前に進めます】
ピリィがぷるぷるしながら、泣いている人の前にぺたりと寄る。
『泣いていいですぅ!』
『でも、明日も選べるですぅ!』
ゴルドが、どこか誇らしげに言う。
『筋肉、今日は殴らなかった!!』
「そこを誇るな」
ユウトは、広場の石畳に残った“蒼い線”を見下ろした。
老婆――運命売りが逃げた先へ続く、細い道。
(逃げ道に印)
(誘導する歪み)
(……次は、もっと深い)
レオンが、ユウトの横に立つ。
「追うなら、朝だな」
「ああ」
ユウトは頷いた。
「でも、その前に」
「この町の人に“明日の選択”を残す」
ユウトは広場の人々へ向き直った。
「札はもう要らない」
「迷ったら、話せ」
「泣いていい」
「怖いって言っていい」
風が吹く。
夜の風。
眠らせる風じゃない。
起こす風。
そしてその風の中で、ユウトは確信していた。
この戦いは、剣じゃない。
魔法でもない。
“委ねたくなる弱さ”に寄り添うふりをする歪みを、
壊さずに、終わらせる戦いだ。
今夜は、第一手。
次は――追跡。
蒼風は、静かに前を指した。
迷いを抱えたままでも、進める方向を。




