「運命売りの老婆」
夜明けの光は、町の石畳をやけに正直に照らした。
昨夜まで“それっぽく平和”に見えていた通りは、朝になると少しだけ疲れて見える。店の看板は同じ、行き交う人の数も同じ。けれど、目の奥が眠れていない人が多い。笑顔の端っこが固い。大丈夫だと口にしながら、手が落ち着かない。
選ばないことで守ってきた静けさが、いよいよ“返済”を求めてきている。
宿の食堂で、ユウトは固いパンを噛みながら窓の外を見ていた。湯気の立つスープはうまい。昨日までなら「うめぇ……」で終わっていた。だが今は、味の奥にある微かな苦味に気づく。
(この町、変わるのに時間かかるな)
レオンが向かいで水を飲み、いつも通りの顔で言った。
「寝てないだろ」
「寝たよ。一応」
「一応、で済ませるな」
「お前最近そのセリフ好きだな」
「お前が最近“一応”を乱用するからだ」
ピリィがユウトの腕にぺたりと張り付いたまま、スープの匂いを嗅いでいる。湯気に当たって、ぷるぷるが少しだけゆるくなる。
『ユウト、顔が“夜更かしした男子高校生”ですぅ……』
「俺の精神年齢を下げるな」
『だって昨日のユウト、夜の広場で格好つけてたですぅ!』
「格好つけてねぇよ。話してただけだ」
『格好つけてたですぅ! リュミエルも、ちょっと“きゅん”ってしてたですぅ!』
「してねぇ」
リュミエルが、咳払いのように小さく息をこぼした。
【……してません】
やたら即答が速い。
レオンが無言でユウトを見る。
「……ほらな」
「ほらなじゃねぇ」
ゴルドはというと、朝からパンを十個目に突入していた。村を出てからずっと胃袋だけはブレない。
『選択は腹に来る!! 腹は裏切らない!!』
「お前の哲学を増やすな」
ユウトがスプーンを置くと、リュミエルが小さく背筋を伸ばした。
【ユウトさん……昨夜の件ですが】
【“選択を預かる”ような歪みが、他にもあるかもしれません】
【影が消えた後の世界は……いま、揺れやすい】
「分かってる」
ユウトは頷いた。
「だから、ここで“戻す”をやるより、“進みながら回収する”が正解だろ」
レオンも同意するように言う。
「この町の問題は“戦って倒す”類じゃない。時間と、本人の覚悟が必要だ」
ピリィがむっとする。
『でも、昨日みたいに泣いてる人が増えたら……イヤですぅ』
「増える」
ユウトはあっさり言って、ピリィが口を尖らせた瞬間に続けた。
「でも、増えたぶん“選べるようになる人”も増える。泣いた後に立てるやつは強い」
『……ユウト、たまに大人ぶるですぅ』
「お前がたまに急に賢くなるから、バランス取ってる」
『意味わかんないですぅ!!』
そのやり取りの途中で、宿の扉が開いた。
冷えた朝の空気と一緒に、白いローブの男が入ってくる。フードは被っていない。昨日よりも顔色が悪いのに、目だけは少しだけ“起きている”。
エイリクだった。
宿の客たちが、ちらりと見る。すぐ目を逸らす者、露骨に眉をひそめる者、何もなかったふりをして手を震わせる者。頼っていたはずなのに、頼ったことを恥じているような空気。
エイリクはまっすぐユウトの席まで歩いてきて、立ち止まった。
「……朝から失礼します」
「別に。パン食う?」
「……遠慮します」
ゴルドが真顔で差し出したパンを、エイリクが反射で避けた。
『筋肉パンは万能だぞ?』
「万能じゃないです」
レオンが小さくため息をつく。ユウトはエイリクの目を見た。
「出るんだろ」
「はい」
エイリクは頷き、少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「預かった選択を返すには、私はここにいるべきではない」
「……私がいる限り、人は“また預けたく”なる」
ユウトは肩をすくめた。
「自覚あるなら上等だ」
エイリクは苦く笑った。
「上等、ではありません」
「私は臆病です。自分の罪と、向き合うのが怖い」
ユウトは少しだけ目を細める。
「怖いなら怖いって言えばいい。昨日、言ったばっかだろ」
その言葉に、エイリクの肩がわずかに落ちた。呼吸が深くなる。
「……それでも、行きます」
リュミエルが静かに頭を下げた。
【……あなたが“返す”と決めたことは、世界にとって大きいです】
エイリクは驚いた顔をした。
「女神が、私を肯定するのですか」
【肯定ではありません】
【“選んだ”という事実を、尊重しているだけです】
ユウトが横から補足する。
「それに、褒められたいなら筋肉に言え。あいつは何でも褒める」
『すごい!! 選択できる男は筋肉も増える!!』
「増えません」
ピリィがエイリクをじっと見て、ぷるんと小さく震えた。
『……ねぇ、エイリク』
『選択を返す時、きっと……ひどいこと言われるです』
『でも……逃げないですか?』
エイリクは少しだけ目を伏せて、それから小さく頷いた。
「逃げたくなるでしょうね」
「……そのたびに、昨日の夜の言葉を思い出します」
ユウトが眉を上げる。
「俺、なんか良いこと言ったっけ」
「言いましたよ」
エイリクは少しだけ笑う。
「“選ばないほうが残酷だ”と」
ユウトは「うわ、恥ず」と小声で呟いてパンをかじった。レオンが軽く咳払いで誤魔化した。
エイリクは背中の小さな袋を握り直し、最後にユウトへ視線を向けた。
「勇者ユウト」
「あなたが“風の勇者”で良かった」
「それ、今言う?」
「今だから言える」
エイリクは真っ直ぐに言い切った。
「あなたは人から選択を奪わない。怖さを知っているのに、選ぶ」
「……私が一番、できなかったことです」
ユウトはしばらく黙って、やがて軽く顎をしゃくった。
「なら、やれ。できなかったのを、今からやれ」
「……はい」
エイリクは踵を返し、宿を出ていった。朝の光に溶ける背中は、昨日より少しだけ重く見える。でも、その重さは逃げ腰の重さじゃない。
出ていったあと、食堂の空気がほんの少しだけ動いた。誰かが小さく息を吐く。誰かが椅子を引く音を立てる。誰かが、窓の外を見て目を擦る。
でも、まだ軽くならない。
(そりゃそうだよな)
ユウトが立ち上がり、荷物を肩にかけた。
「俺たちも出るぞ」
レオンが頷く。
「この町の後始末は、ここにいる者がやるしかない。……俺たちの役目は、別だ」
リュミエルが小さく目を伏せる。
【……でも】
【こういう歪みが増えると、世界の“選択”は武器になります】
【奪う者だけじゃなく……】
【“誘導する者”も、出てくる】
ユウトは歩き出しながら言った。
「誘導?」
【選べる、と言いながら】
【実際には“選ばされる”ように線を引く者です】
【……第四の影は“判断”でした】
【でもこれからは……もっと人の顔をした歪みが増えるかもしれません】
その瞬間、ユウトの風がわずかに引っかかった。
背中じゃない。前でもない。横。
“脇道”の方向から、薄い違和感が流れてくる。
(……来た)
宿を出たところで、町の外れへ向かう小道に人が集まっていた。昨夜の男とは別のざわめき。決められない悲鳴じゃない。もっと甘い。もっと穏やかな、諦めの匂い。
「なんだ?」
レオンが問う。ユウトは答えないまま足を速める。ピリィがぴたっと肩に張りつく。
『ユウト、あれ……“眠い匂い”がするですぅ』
「眠い匂い?」
『選ぶのやめた時の匂いですぅ……』
訳が分からないのに、妙に納得できるのが腹立つ。
人垣の向こうには、簡易の屋台みたいな台が置かれ、布が掛けられていた。そこに立つのはエイリクではない。背の低い老婆。顔はしわだらけで、目は柔らかい。手には小さな木箱。
老婆は人々へ穏やかに言っていた。
「迷ったらね、札を引きなさい」
「“運命の札”よ」
「選ばなくていい。札が選ぶから」
周囲の人々が、ほっとした顔をする。
ユウトの胸が、嫌に冷える。
(これだ)
奪う、と露骨に言わない。
預かる、とも言わない。
“運命”と言う。
責任の置き場所を、外へ移すための言葉。
老婆が木箱を揺らし、札の音を鳴らした。
「はい、次の方」
「あなたの人生の分かれ道、迷っていらっしゃるね」
若い女が前へ出る。指先が震えている。昨夜の後悔を抱えたまま朝を迎えた顔。そこへ“運命”が差し出される。
女の目が潤む。
「……お願いします」
「選べないんです」
老婆は頷いた。
「いいのよ、いいの」
「あなたのせいじゃない」
その言葉が、最悪だった。
ユウトは人垣を割って前へ出た。
「待て」
老婆が顔を上げる。
「おや……旅の方」
「札を引くのは止めろ」
ざわめきが広がる。「勇者だ」「昨日の」「あの子だ」みたいな声。老婆は驚いたふりもしない。むしろ慈しむように微笑む。
「あなたも迷っているのね」
「迷ってない」
ユウトは即答した。
「それ、ただの“選択放棄”の道具だ」
老婆はゆっくり首を振る。
「違うわ。これは救いよ」
「あなたは強いから選べる。でも、この子たちは弱いの」
「弱い者に選択は毒になる」
その言葉に、ユウトの風がピリッと鳴った。レオンが半歩前へ出ようとするのを、ユウトは手で制した。
「弱いから、助ける」
「でもその助け方が間違ってる」
老婆の目が細くなる。
「間違い? 何が?」
「争いは減った」
「喧嘩も減った」
「失敗も減った」
「この町の人は、ずっと眠れるようになった」
ピリィが震えながら言う。
『眠れたら……いいんですか?』
『起きた時に……自分がどこにもいなくても……?』
老婆は、ふっと笑う。
「可愛い子ね」
「難しいことは大人に任せなさい」
「任せるな」
ユウトが切った。
「任せるなら“人”に任せろ。札に任せるな」
老婆は柔らかい顔のまま、言葉だけ鋭くする。
「なら、あなたが責任を取れるの?」
「この子が選んで失敗して泣いたら」
「あなたが抱えてあげられるの?」
ユウトは、少しだけ呼吸を置いた。
「抱えない」
周囲がざわつく。
「え?」
老婆が一瞬だけ表情を止めた。
ユウトは続ける。
「抱えてやらない」
「泣くのは本人だ。悔しがるのも本人だ」
「……でも、立つ時は隣にいる」
「転んだ後に、また選べるようにする」
それは、簡単な答えじゃない。
だからこそ、言葉にした瞬間に風が強くなる。
リュミエルが一歩前へ出た。以前の欠けた輪郭はない。だからこそ、言葉が真っ直ぐ届く。
【運命に見せかけた“逃げ道”は】
【人の心を、ゆっくり削ります】
【それは、優しさではありません】
老婆はリュミエルを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「……女神がそれを言うのね」
【言います】
【私は一度、逃げ道を作って】
【世界を歪ませました】
【だから、もう繰り返しません】
老婆の指が木箱の縁を撫でた。
「なら、あなたたちは知らない」
「歪みが生んだ“空白”に落ちる怖さを」
ユウトの背筋が冷えた。さっきの風の引っかかりが、今度は“底”を持って響く。
(空白……?)
老婆は笑ったまま言う。
「札はね、ただの紙じゃないの」
「“選べない心”の残り香で作った札よ」
「引いた者から、迷いを吸って……次の者に渡す」
「この町の迷いが増えた? ええ、増えるでしょうね」
「だって、ここは“迷いの貯蔵庫”になるのだから」
ゴルドが拳を鳴らした。
『……つまり悪い奴だな!! 殴れるか!?』
「最後だそれ!」
ユウトがツッコみつつ、目は老婆から逸らさない。
「お前……誰だ」
老婆は小さく肩をすくめた。
「名は大事じゃないわ」
「ただの“運命売り”よ」
その言葉が、嘘だと風が言っている。
――この匂いは、もっと深い。
第四の影の“判断”と同じ根を持ち、でも別の枝として伸びたもの。
人の心の弱さに寄り添うふりをして、そこへ巣を作る歪み。
ユウトは一歩踏み出した。
「札、全部渡せ」
老婆は笑い、木箱を抱え込む。
「取れるならね」
その瞬間、周囲の空気がふわりと薄くなった。
人垣の人々の目が、ぼんやりする。肩が落ちる。呼吸が揃う。まるで眠る前みたいに。
ピリィが叫んだ。
『だめですぅ!! みんな、ぼーっとしてるですぅ!!』
レオンが剣を抜きかけ、ユウトが低く言った。
「抜くな。ここで脅したら、余計に“運命”にすがる」
レオンが歯を食いしばって止まる。
ユウトは、蒼風をほんの少しだけ吹かせた。強風じゃない。眠気を払う程度の、朝の風。頬を叩く風。
それだけで、人々の目が少しだけ戻る。
「……え、今……」
「俺、なにしてた……」
老婆の笑みが薄くなる。
「風の勇者……厄介ね」
ユウトは言った。
「ここで暴く」
「お前の“札”が、迷いを吸って貯め込んでるってな」
老婆は、ため息のように肩を落とした。
「暴けばいいわ」
「でもその瞬間、みんなは自分の迷いを直視する」
「耐えられると思う?」
「あなたの“正しさ”で、壊れる人が出るかもしれないわよ」
その脅しは、痛いところを突く。
“選択を奪う優しさ”の次は、“選択を突きつける正義”だ。
どちらも人を壊す。
ユウトは、赤い欠片の鼓動を胸の奥に感じた。あれはリュミエルの心臓。世界を描く中心。痛みを受け止める中心。
(選ぶってのは、こういうことだよな)
ユウトは一度、視線を人々へ向けた。怯えた顔、眠気に逃げたい顔、迷いで固まっている顔。全部、他人事じゃない。
そして老婆へ戻す。
「壊れるかもしれない」
ユウトは正直に言った。
「でも、壊れないようにする手はある」
老婆が目を細める。
「ほう」
ユウトは手を広げた。
「返せ」
「札を回収して、迷いを“返す”」
「一気に戻すな。少しずつ戻す」
「その代わり、俺たちが町に残る」
レオンが目を見開く。
「ユウト」
「分かってる。面倒だ」
ユウトは即答してから付け足した。
「でも、これが“後始末”だろ」
リュミエルが小さく頷いた。
【……はい】
【一気に正すと、また誰かが壊れます】
【ゆっくり、選べるように戻すべきです】
ピリィがぷるんと震えながらも胸を張る。
『ピリィもやるですぅ!!』
『相談係ですぅ!!』
「お前、相談の内容が九割ユウト中心になるだろ」
『それは……仕方ないですぅ!!』
ゴルドが腕を組む。
『俺は筋肉相談係だな!!』
「相談のハードルが上がるだけだ」
老婆は黙ってユウトたちを見ていた。しばらくして、にこりと笑う。
「面白い提案ね」
「でも――できると思っているのが、勇者らしいわ」
そう言って、木箱を抱えたまま一歩後ろへ下がった。
「今夜、また来なさい」
「札は“夜”に一番よく鳴る」
「そこで、あなたが選びなさい」
「この町を救うか、壊すか」
そして老婆の姿が、人垣の隙間へ溶けるように消えた。逃げ足が速い。妙に慣れている。
残されたのは、眠気に引きずられかけた空気と、木箱の中で擦れる札の音の“残響”だけ。
ユウトは息を吐いた。
「……やっぱり、次の歪みだな」
レオンが低く言う。
「敵だ。だが、相手は“町そのもの”を盾にする」
リュミエルが静かに呟いた。
【“運命”という言葉は、甘い毒です】
【第四の影が“判断”なら……】
【これは“委ね”の歪み】
ピリィがユウトの肩にぴたりと張り付く。
『ユウト……今日の夜、また格好つけるですぅ?』
「格好つけねぇ」
即答してから、ユウトは苦笑した。
「……でも、選ぶ」
「今夜、町を壊さずに札を止める方法を」
ゴルドが拳を鳴らす。
『よし!! 作戦会議だ!!』
「筋肉会議は却下」
「だが、必要だ」
レオンが珍しく同意した。
「情報が足りない。札が迷いを吸って“貯蔵庫”になるなら、溜まった迷いが形になる瞬間があるはずだ」
ユウトは頷いた。
「夜だな」
風が、町の通りを抜ける。
軽くない。重い。
けれど、その重さは“止まる重さ”じゃない。
進むための重さだ。
ユウトは空を見上げた。
(第四の影を終わらせても、歪みは残る)
(でも、だからこそ……俺たちが選ぶ意味がある)
夕方までにできることは多い。
町の人の話を聞く。昨夜の後悔を、今日の選択に変える。札に頼らずに決められる小さな選択を積み重ねさせる。
そして夜――“運命売り”の本番。
ユウトは手を叩いた。
「よし、動くぞ」
「レオン、情報収集」
「ピリィ、相談係……いや、町娘と仲良くなって来い。人の空気を集めろ」
『了解ですぅ!! 女子会の力、見せるですぅ!!』
「ゴルドは……」
『筋肉で威圧!!』
「やめろ! 子ども泣く!」
レオンが静かに言う。
「ゴルドは“護衛”だ。路地で変な眠気が広がったら、体で止めろ」
『任せろ!! 筋肉は壁!!』
リュミエルが小さく微笑む。
【では私は……“札の線”を探ります】
【人の迷いの流れが、どこへ吸い込まれているか……】
ユウトは頷いた。
「頼む」
そして最後に、自分に言う。
「俺は……選ぶ係だな」
ピリィがぷるんと震えながら笑った。
『ユウトはいつも選ぶ係ですぅ!』
『でも今日は……一人じゃないですぅ!』
「……だな」
町の中へ歩き出すと、石畳の上に夕方の影が伸びた。
迷いは消えない。
運命の札も、甘い逃げ道も、簡単にはなくならない。
でも――
風は、確かに前へ吹いていた。
今夜、ユウトたちは試される。
剣の強さじゃない。
理屈の強さでもない。
“誰かに委ねたくなる弱さ”を前にして、
それでも自分の足で立つ選択を、どう支えるか。
そして、その選択を悪用する歪みを――
どう“壊さず”に終わらせるか。
日が落ちる。
町のどこかで、木箱の中の札が鳴った気がした。
カラ、カラ、と。
まるで、夜を待ちきれないみたいに。




