「始まりの真実」
扉の向こうは、音が“遅れて”届く場所だった。
一歩踏み出した瞬間、ユウトは自分の心臓の鼓動を一拍ぶん置き去りにした感覚を覚えた。遅れて、ドクン、と胸が鳴る。赤い欠片が掌で応え、蒼風が薄く伸びる。
そこにあったのは――世界の途中だった。
完成していない交差点。
信号機は色を持たず、車は影の輪郭だけで止まり、アスファルトは白い下書き線のまま途切れている。雨の匂いだけがある。冷たい夜気。見覚えがある。いや、“覚えていると思い込んでいた”場所だ。
「……ここ……」
ユウトが言いかけた言葉を、リュミエルが先に継いだ。
【……あなたが、来る前の世界】
声は、いつもより小さい。
交差点の中央に、もう一人のユウトが立っていた。制服姿。ヘッドホン。スマホを見ている。信号を見ていない。——だが、彼はまだ“事故に遭っていない”。
時間が、止まっている。
第四の影が、扉の縁から滲むように現れた。
【ここが“欠けた始まり”】【お前が見た始まりは、ここから“都合の悪い部分”が削られている】
ユウトは息を呑んだ。
「……削られた?」
【そうだ】
【お前は“事故に遭って転生した勇者”として理解している】
【だが、その理解は半分だ】
第四の影が、指先で空間をなぞる。下書きの世界に、別の線が重なる。
事故の直前。
車が来る。
ブレーキ音。
——だが、その直前に。
歩道の端で、子どもが転び、車道に飛び出している線。
ユウトの喉が、鳴った。
「……そんな……」
【記憶を、よく見ろ】
時間が、わずかに動く。
スマホを見ていた“もう一人のユウト”が顔を上げる。視線が子どもに向く。瞬間、躊躇はない。走り出す。突き飛ばす。子どもは歩道へ転がり、車は——
止まらない。
衝撃の“直前”で、世界が再び止まる。
静寂。
リュミエルが、震える声で言った。
【……私は……この瞬間を……消しました】
ユウトが振り返る。
「……リュミエル?」
【あなたが“選んだ”ことを……重すぎると思った】
【だから……“事故に巻き込まれた”という形に……塗り替えた】
【あなたが……自分を責めなくて済むように……】
胸の奥で、痛みが膨らむ。
あの時、選んだのは——自分だ。
第四の影が続ける。
【女神は“選択”を恐れた】
【世界を守るために、彼の選択を消し、判断に置き換えた】
【それが、最初の歪み】
【そして、私の誕生】
ユウトは、立ち尽くした。
(……俺は……)
事故に遭った“被害者”ではなかった。
救おうとして、飛び出した“当事者”だった。
逃げ道はない。
英雄でもない。
ただの選択だ。
リュミエルが、泣きそうに言った。
【……ごめんなさい……】
【あなたが……自分を壊さないように……】
【私は……真実を……欠けさせました……】
ユウトは、しばらく黙っていた。
胸の奥で、痛みが脈打つ。
でも——逃げない。
「……子どもは?」
第四の影が答える。
【生きている】
【その後の人生も、続いた】
【お前の選択が、結果を生んだ】
ユウトは、ゆっくり息を吐いた。
「……なら、いい」
リュミエルが、はっとする。
【……え……?】
「後悔は……ある」
「怖かった。今でも」
「でも……あの時、見捨てる選択はできなかった」
ユウトは、止まった時間の中の“自分”を見つめた。
「それが俺だ」
第四の影が、わずかに揺れる。
【……それでも言えるのか】
【選択は、痛みを生む】
【お前は、選択の結果で死んだ】
「死んだ、は違う」
ユウトは赤い欠片を胸に当てた。
「終わった、だ」
「それで……ここから始まった」
蒼風が、交差点に吹く。
下書きの線に、色が差す。
止まっていた世界が、ゆっくりと“次のコマ”へ進む。
リュミエルの輪郭が、震えながらも確かになる。
【……ユウトさん……】
【あなたは……私が恐れて、消した“答え”でした】
第四の影が、低く唸る。
【女神は判断を誤った】
【だから私は必要だった】
【選択を消し、世界を保つために】
「違う」
ユウトは一歩、踏み出した。
「必要だったのは、“消すこと”じゃない」
「選んだ結果を、引き受けることだ」
第四の影の核が、軋む。
【引き受ければ、世界は不安定になる】
「それでも、進む」
ユウトは、リュミエルの手を取った。
「なあ、リュミエル」
「俺の始まりを、消さなくていい」
「痛みも、選択も、全部込みで……この世界を続けよう」
リュミエルは、涙を浮かべて頷いた。
【……はい】
【今度は……隠しません】
その瞬間——
赤い心臓の欠片が、強く鼓動した。
ドクン。
世界の中心から、光が走る。
下書きだった交差点が、完成する。
時間が、動き出す。
“もう一人のユウト”が、子どもを突き飛ばし、——そして、光に包まれた。
事故の瞬間は、消えない。
だが、“選択”は消えない。
第四の影が、崩れ始める。
【……選択を、受け入れるというのか……】
【女神も……勇者も……】
「受け入れる」
ユウトは即答した。
「間違えるかもしれない」
「痛むかもしれない」
「それでも——選ぶ」
蒼風が、第四の影を包む。
切り裂かない。
消さない。
“判断”の楔が、ゆっくり溶けていく。
【……私は……】
【選択を恐れた女神の……影……】
「役目、終わりだ」
ユウトは静かに言った。
「これからは……一緒に選ぶ」
影は、抵抗をやめた。
白と黒の線がほどけ、世界の余白へ還っていく。
そして——
リュミエルの胸に、赤い光が戻った。
心臓が、元の場所へ。
ドクン。
ドクン。
彼女の輪郭が、はっきりと形を持つ。
【……ユウトさん】
【私……生きて、描いていいんですね】
「もちろん」
ユウトは笑った。
「ただし条件がある」
【……条件?】
「無理したら、止める」
「抱えきれなかったら、言う」
「選ぶときは……一人で選ばない」
リュミエルは、少し照れたように微笑んだ。
【……はい】
世界が、静かに再構築されていく。
遠くで——
雷が鳴った。
筋肉が吠えた。
小さなスライムの声が、はっきり届いた。
『ユウトーーー!! 戻ってくるですーーー!!』
ユウトは、風を感じた。
(……帰ろう)
選択は、終わらない。
でも、それでいい。
風は、迷わず前へ吹く。
——世界は、続く。




