「女神の心臓の破片」
白い空間が、ゆっくり“戦場”の形へ変わっていった。
さっきまで何もないキャンバスみたいだった床が、細い罫線のような“境界”を引かれていく。壁も天井も無いはずなのに、視界の端にだけ薄い枠線が現れて、世界の外側を囲い始めた。
第四の影――“判断”が、この場所を「整理された領域」に作り替えようとしている。
【選べ】
声は静かなのに、圧だけが重い。
【感情を抱えて進めば、世界は揺らぐ】
【痛みを抱えて進めば、女神は崩れる】
【ならば、切り捨てるべきだ】
【正しさのために】
ユウトは息を吐いた。
「……正しい、ねぇ」
蒼風が、足元でふわりと立ち上がる。嵐じゃない。今のユウトの風は、必要な分だけ吹く。必要な分だけ熱い。
「お前の言ってること、たぶん“理屈”としては通ってる」
第四の影が、わずかに揺れる。
【ならば従え】
「やだね」
即答だった。
リュミエルが隣で、思わず小さく「えっ」と声を漏らす。
【ユウトさん、即答すぎませんか……?】
「ここまで来て“従います”って言ったら、今までの俺の苦労が全部ギャグになるだろ」
【……確かに……】
リュミエルの声がほんの少しだけ明るくなり、欠けていた輪郭が一瞬だけ安定する。
それを見て、ユウトは笑った。
(ほら。こういうのだよ)
第四の影が空間を指先でなぞるように動かすと、白い床に黒い線が走った。まるで定規で引いたみたいに真っ直ぐで、冷たくて、融通のない線。
次の瞬間、その線が“刃”になる。
空気を切る音がしない。だけど、近づくだけで身体の輪郭が薄くなる圧がある。触れたら、削れる。存在ごと。
ユウトは半歩下がる代わりに、風を一段だけ強めた。
蒼風が刃の前に膜を作る。
ギ、ギギ……と嫌な軋みが響き、風の膜に黒線が食い込む。
【風は形を持たぬ。故に、切れる】
「だからさ」
ユウトは片手を軽く上げた。
「形を持たせるんじゃなくて――“選ぶ”んだよ」
蒼風がふっと分岐した。
刃を受け止める膜と、刃の“通り道”をずらす流れ。風が、ほんの数センチだけ刃の軌道を押し曲げる。真正面で止めない。横に逸らす。
黒線の刃はユウトの肩を掠め――掠めた“はず”なのに、削れない。
風が間に入り、刃が通る未来だけを、別の方向に流した。
リュミエルが目を見開く。
【今の……避けた……というより……世界の“結果”を変えた……?】
「選択って、そういうことだろ」
ユウトは軽く肩を回した。
「当たる未来を、当たらない未来にする。痛い未来を、痛くない未来にする。……全部は無理でも、今はできる」
第四の影の圧が増す。
【言葉遊びだ】
【選択は幻想】
【世界は正しく整理されるべきだ】
黒線が増えた。
今度は刃じゃない。枠だ。檻だ。ユウトとリュミエルの周囲に、四角い枠線が何重にも立ち上がっていく。線が“壁”になり、空間を区切り、逃げ道を奪う。
【選択肢を奪えば、迷いは消える】
【迷いが消えれば、痛みは消える】
ユウトの胸の奥が、嫌に静かになりかけた。
――楽になる。
痛みの海で抱え込んだものが、全部ふっと軽くなる気配がした。
(……ああ、これか)
これが第四の影の“魅力”だ。
苦しいものを、苦しいまま抱えなくていい。面倒なものを、面倒なまま抱えなくていい。全部、白紙に戻せばいい。
それは確かに“正しさ”に見える。
リュミエルが、かすかに震えた。
【ユウトさん……この檻……私の心の癖です……】
【何も感じないように、何も考えないように……自分で作った枠……】
ユウトは頷いた。
「知ってる」
リュミエルは泣きそうな声で言う。
【……私……また、ここに逃げたくなる……】
「逃げたくなっていい」
ユウトは、笑った。
「でも逃げるって決めるのは、俺たちじゃない。……逃げ“させる”って決めるのが、こいつなのがムカつく」
第四の影が低く響く。
【ムカつく、という感情は不要だ】
【不要な感情は切り捨てろ】
「その“不要”を決める権利、誰にあんだよ」
ユウトは一歩踏み出した。
檻の線が迫る。足元が狭まり、空間が圧縮されていく。息が詰まる。風が薄くなる。
それでもユウトは止まらない。
「俺が決める。リュミエルが決める。……仲間が決める」
胸の奥で、蒼風が燃える。
怒りも、恐怖も、痛みも、ぜんぶ“ここにある”と認めたばかりだ。今さら捨てるわけがない。
ユウトは両手を広げた。
蒼風が檻の線に触れ、ひとつひとつを撫でるように通り抜けていく。
押し返さない。壊さない。……選び直す。
線は檻だったはずなのに、次の瞬間には“道”になった。
四角い枠が、扉に変わる。狭めるための境界が、通すための境界に切り替わる。
リュミエルが息を呑む。
【……そんな……線の意味を……変えた……】
「線ってのはさ、使い方次第だろ」
ユウトは少しだけ肩をすくめる。
「境界は守るためにもあるし、閉じるためにもある。お前が作った枠は、たぶん“壊れないため”の枠だった。……だったら俺が、そこに“生きるため”の出口を作る」
第四の影の沈黙が、ほんの一瞬だけ増えた。
【……危険だ】
【女神を取り戻せば、再び世界は揺らぐ】
【再び痛みが増える】
【再び欠ける】
【その時、お前は責任を取れるのか】
リュミエルの肩がびくりと跳ねた。
ユウトはその問いに、ちゃんと呼吸を置いた。
「……取るよ」
言い切ってから、付け加える。
「ただし“俺ひとりで”じゃない」
リュミエルが顔を上げる。
【……え……?】
ユウトはにやっと笑った。
「俺が全部背負ったら、また痛みを後回しにして潰れる。……だから、分担する」
リュミエルはぽかんとする。
【ぶ、分担……?】
「そう。女神も勇者も、仕事量おかしいんだよ」
ユウトは指を折り始めた。
「世界の痛みを見る係:リュミエル。だけど一人で抱えない。抱えそうになったら俺に言う」
「殴ってでも止める係:俺」
「『ユウト、無茶するなです!』って毎日言う係:ピリィ」
「『お前は馬鹿か』って冷静にツッコむ係:レオン」
「『筋肉は全てを解決する』って言って余計ややこしくする係:ゴルド」
【最後、いりません】
リュミエルが思わず即ツッコミして、ユウトは吹き出した。
「だろ? でもあいつ、ああ見えて場が沈むと暴れるから助かる」
リュミエルの輪郭が、また少しだけ濃くなる。
第四の影が、冷たく言う。
【他者に頼るのは不安定だ】
【不確実性は世界を壊す】
「不確実だから面白いんだろ」
ユウトの蒼風が、さらに一段強く吹いた。
その風は“線”を消さない。切り捨てない。いまここにある線の上に、別の線を重ねていく。
“上書き”。
白い空間に、蒼い風の軌跡が残り始めた。翼のような曲線。道のような曲線。人の心みたいに、真っ直ぐじゃない線。
第四の影が初めて、明確に“敵意”を濃くした。
【ならば排除する】
【選択は誤りを増やす】
【誤りは欠落を生む】
【欠落は痛みを生む】
【痛みは女神を壊す】
黒い楔が、空間の中央で“割れる”。
無数の小さな楔が生まれ、雨のように落ちてくる。一本一本が「判断」そのもの。落ちた場所の“意味”を固定していく。
床に刺さった楔の周囲が、瞬間的に無機質な線だけの世界へ戻る。色が消える。風が薄くなる。
ユウトは歯を食いしばった。
「……やっぱ本体戦、性格悪いな」
【正しい、と言え】
「言うかよ!」
ユウトは風を巻き上げる。
蒼風が渦になり、落ちてくる楔を受け止める。受け止めた瞬間、風の渦が“固まる”感覚が走った。判断の楔が、風に意味を固定しようとする。
(まずい……風が、縛られる)
リュミエルが震える声で言う。
【ユウトさん……この攻撃……“決めつけ”です……】
【触れると……可能性が削れて……】
【“あなたはこうあるべき”って形に……】
「……あー、嫌いなやつだわ」
ユウトは深呼吸した。
痛い。怖い。ムカつく。全部ある。だからこそ――選ぶ。
ユウトは渦を一度ほどいた。
落ちてくる楔を全部防ぐのをやめる。代わりに――
「リュミエル。俺の風、信じろ」
【……はい!】
ユウトは彼女の欠けた手を、強く握った。
蒼風が二人の間を通り、一本の“線”になる。
次の瞬間、ユウトは落ちてくる楔の“隙間”へと風を滑り込ませた。全部を止めない。全部を避けない。刺さる場所を、選ばせない。
楔が落ちる未来の“候補”を、風で散らす。
落ちる場所が確定できず、楔が空中で一瞬だけ迷う。
その迷いが生まれた瞬間――
ユウトは踏み込んだ。
「蒼風選断――《アジュール・セレクト》!」
蒼風が一本の刃のように走り、迷った楔をまとめて薙いだ。
破壊ではない。
楔の“判断”を、別の判断に上書きする。
「落ちる」ではなく「通り過ぎる」へ。
楔の雨は勢いを失い、ふわりと白い空間の奥へ消えていく。
第四の影が、きしりと音を立てた。
【……風が、“判断”を拒むか】
「拒むんじゃない」
ユウトは言い返す。
「“判断”を、俺が引き受ける」
リュミエルが息を呑む。
【ユウトさん……それは……】
「責任ってやつだ」
ユウトは笑った。
「女神の仕事、半分持つって言っただろ」
その瞬間、白い空間の奥――何もないはずの中心に、淡い鼓動が戻った。
ドクン。
さっきより近い。
そして見えた。
白い床の下から、ほんの小さな“赤い光”が滲むように浮かび上がってくる。赤というより、温度。生きている熱。
リュミエルが震える。
【……あれ……】
【あれが……“心臓の欠片”……】
第四の影が声を低くした。
【触れるな】
【それを取り戻せば、世界は再び痛む】
【女神は再び壊れる】
【そして、お前も壊れる】
ユウトは赤い光を見つめた。
胸が痛んだ。
“また壊れる”という言葉が、本当に現実になる未来が見える。自分が背負いきれず、また逃げたくなる未来が見える。
でも――
「壊れるかもしれない」
ユウトは、正直に言った。
「また怖くなるかもしれない。痛いのも嫌だ。……でも」
蒼風が、ゆっくり赤い光に近づいていく。
「壊れるのが怖いからって、最初から何もしなかったら――それこそ死んでるのと一緒だろ」
第四の影が、最後の圧をかける。
【女神を取り戻せば、世界は“選択”を強いられる】
【争いも、痛みも、増える】
【正しさを捨てるのか】
ユウトは足を止めず、振り返って言った。
「正しさは捨てない」
第四の影の核が揺れる。
「でも、お前の正しさだけにしない」
それがユウトの答えだった。
リュミエルは唇を噛み、ユウトの手を握り返した。
【……ユウトさん】
【私……怖いです】
【でも……もう一人で背負わないって、決めます】
「それでいい」
ユウトは赤い光へ手を伸ばす。
触れた瞬間――
熱が、胸に流れ込んできた。
リュミエルの“心臓”の欠片。
世界を描く力の中心であり、同時に世界の痛みを受け止めてしまう中心。
光がユウトの掌に脈打ち、蒼風と共鳴した。
ドクン、ドクン。
白い空間に、色が滲む。
真っ白だった床に、淡い色が戻り始める。輪郭が強くなる。世界が“描き直される準備”を始める。
その変化に、第四の影が大きく軋んだ。
【……やはり……】
【女神の心臓は、危険だ】
【ならば――女神ごと切り離す】
黒い楔が、一本に収束する。
今度は雨じゃない。槍だ。一直線の“判断”。
狙いはユウトではなく――リュミエルの欠けた輪郭、その中心。
リュミエルが息を呑む。
【……っ!】
ユウトは反射で前に出た。
「させるか!」
蒼風が盾になる。
だが槍は、風を“正しく”貫こうとする。風を風として扱わない。ただの線として固定し、一直線に割る。
ユウトの腕が痺れた。
(くそ……! これ、受け止めきれねぇ!)
その時、リュミエルが震える声で――でも、はっきり言った。
【ユウトさん……私も……選びます!】
彼女の欠けた身体から、細い光の線が伸びる。
それは、かつて世界を描いた“筆跡”の一部。失ったはずの力の残り。
光の線はユウトの蒼風に絡み、一本の“二重線”になった。
ユウトの風だけじゃない。リュミエルの意志が重なる。
槍がぶつかる。
ギィィィ――ッ!!
世界が悲鳴を上げるような音。
だが――二重線は折れない。
押し返せないなら、逸らす。
ユウトとリュミエルが同時に“選ぶ”。
槍が貫く未来を、横にずらす未来へ。
黒い槍はユウトの肩を掠め、白い空間の外側へ突き抜けて消えた。
ユウトは息を吐き、肩を押さえる。
「……痛い。普通に痛い」
リュミエルが青ざめる。
【ご、ごめんなさい! 私が……!】
「謝るなって。今のは最高の連携だろ」
ユウトは痛みに顔をしかめながら、わざと軽く言った。
「……ていうかリュミエル、今の“選びます”って言い方、妙にカッコよかったぞ」
【ほ、本当ですか……?】
「本当。……ただし、次はもうちょい可愛く言ってもいい」
【ど、どういう基準ですか!?】
一瞬だけ、空気が緩む。
その隙を、第四の影は見逃さなかった。
【……感情は隙になる】
【隙は欠落になる】
【欠落は――】
「うるせぇよ!」
ユウトは蒼風を爆ぜさせた。
赤い心臓の欠片がユウトの掌で鼓動し、蒼風に熱を与える。
風が、ただの蒼じゃなくなる。
蒼の中に、あたたかい色が混じる。
“生きている風”。
ユウトは前を向いた。
「お前がどんだけ正しいこと言っても、俺は選ぶ」
第四の影の輪郭が揺らぐ。
【選べば、必ず痛む】
「痛むのは、もう知ってる」
ユウトは一歩踏み出す。
「痛いのが嫌だからって、何もしないのは――俺には無理だ」
リュミエルが隣に立つ。
欠けた輪郭のまま。でも、さっきより確かに“ここにいる”。
【ユウトさん】
【私……もう一度、世界を描く勇気がほしい】
「あるだろ。今ここに」
ユウトは赤い欠片を胸の前に掲げた。
「心臓、取り戻した。次は――これを“戻す”だけだ」
第四の影の声が低く沈む。
【……まだだ】
【心臓を戻せば、最後の欠片が目覚める】
【女神の“最初の罪”が】
【そして――お前の“始まりの記憶の欠け”が】
ユウトの目が細くなる。
「……俺の欠け?」
第四の影が、ゆっくり笑ったように揺れた。
【見せてやろう】
【お前が核層で見た“始まり”】
【あれは、まだ完成していない】
白い空間が、再び歪み始める。
足元のキャンバスに、勝手に線が走り出す。
交通事故の交差点。
女神の光。
バグったスキル。
――その“隣”に、まだ描かれていない余白。
ユウトの背筋が冷たくなる。
(……何がある)
リュミエルが小さく震える。
【……ユウトさん】
【そこは……私が……一番、隠していたところ……】
ユウトは赤い欠片を握りしめた。
風が、熱を帯びる。
「隠してたなら、今見りゃいい」
リュミエルの瞳が揺れる。
【……怖いです】
「俺もだ」
ユウトは笑って、でも目は逸らさなかった。
「でも、怖いまま行く。そう決めた」
第四の影が告げる。
【次で終わる】
【女神の心臓層――最終の扉を開け】
【“欠けた始まり”を見届けろ】
白い空間の奥に、もうひとつの扉が現れる。
今度は白銀ではない。
赤い鼓動の線と、黒い楔の線が絡み合った、矛盾の扉。
ユウトは一歩、前へ出た。
リュミエルも、隣に並ぶ。
欠けたままの手で、ユウトの袖をぎゅっと掴むようにして。
【ユウトさん……】
【もし、私が……すごく嫌なことをしていたら……】
「その時は」
ユウトは即答した。
「ちゃんと怒る。ちゃんと痛がる。ちゃんと泣く」
リュミエルが目を見開く。
ユウトは続けた。
「それでも、一緒に直す」
リュミエルの輪郭が、ふっと揺れて、少しだけ強く光った。
【……はい】
蒼風が扉に触れる。
赤い心臓の欠片が鼓動する。
そして――扉が、開き始めた。
遠く、どこか“境界の外”のさらに外側で。
レオンの雷が、微かに鳴った気がした。
ゴルドの吠え声が、かすかに響いた気がした。
ピリィの「ユウトー!」という声が、胸の奥で跳ねた気がした。
全部、確証はない。
でもユウトは確信していた。
(……繋がってる)
風は、繋ぐために吹く。
世界が欠けた日も。
痛みの海も。
判断の楔も。
その全部の向こうへ――選択の風を通すために。
ユウトは扉の中へ踏み出す。
「行くぞ、リュミエル」
【……はい、ユウトさん】
次に待つのは、“欠けた始まり”の核心。
女神の真実の、最後の一枚。
そして第四の影の本当の核が――ここで決まる。
風はもう、迷わない。
ただ、痛みごと前へ進むだけだ。




