「女神の心臓層・第二段階 痛みの海と“もう一人のユウト”
落ちているはずなのに、どこにも“底”がない。
光の穴を抜けたユウトは、しばらくなにもない空間を落下し続けた。
風の勇者であるはずの彼のまわりでさえ、風は吹かない。
(……ここが、女神の心臓層の“第二段階”か)
目を開けた瞬間、景色が反転した。
そこは——海だった。
ただし、普通の海ではない。
空も、水平線も、すべてが“色のない水面”で満たされている。
白銀と墨色が混ざり合ってできたような、冷たい海。
波は立たず、ただ静かに“痛みのような振動”だけが伝わってくる。
足元を見ると、自分が立っている場所さえはっきりしない。
海の上なのか、下なのか、そもそも立つという概念があるのかすら怪しい。
それでも——ユウトはそこに“立って”いた。
「……気持ち悪い感覚だな」
呟いた声が、ほとんど響かない。
代わりに、耳の奥をじわじわと満たしていくものがあった。
——泣き声。
——怒鳴り声。
——悔しさを押し殺した喉の震え。
——何も言わず、ただ諦めたときの静かな呼吸。
どれも、言葉になっていない。
でも、たしかに“感情だけ”が海の底からじわじわと滲んでくる。
(……これ、全部——)
【痛み、です】
リュミエルの声がした。
振り返ると、欠けた姿の女神が、少し離れた場所で同じように“立って”いた。
彼女の足元も水面も、輪郭があいまいだ。それでも存在しているとわかるのは、彼女の光がかすかに震えているからだ。
【ここは……私が世界に触れてから、ずっと蓄えてきた痛みの層】
ユウトは目を細めた。
「……世界の?」
【はい。
人の痛み。
モンスターの痛み。
消えていった命の叫び。
そして……私自身の】
リュミエルの視線が、海の底へと落ちる。
【本当は、全部抱きしめてあげたかった。
でも……受け止めきれなくて……少しずつ、ここへ沈めてしまった】
風が吹かないかわりに、胸がひやりとした。
(……リュミエル、お前……そんな場所まで……)
ユウトがなにか言おうとしたとき。
海が——揺れた。
さざ波の代わりに、無数の“ひび”が水面の上に走る。
ひびのひとつひとつに、淡い光景が映っていた。
誰かが泣いている横顔。
膝を抱えてうずくまっている子ども。
戦場に倒れた兵士。
モンスターに追われる人。
人間に討たれるモンスター。
その全てに、リュミエルの光が薄く触れている。
【見てしまった痛みを、私は消せませんでした】
リュミエルの声は淡々としているのに、かすかに震えていた。
【だからここに溜めた。
“女神が壊れないため”に】
ユウトは拳を握る。
「そんな……そんなの、誰だって壊れるに決まってるだろ」
彼女は自分を守るために痛みを捨てたのではない。
世界を見捨てないために、自分の壊れる場所を——この“心臓層”の奥に作った。
(それで、第四の影が生まれちまったのかよ)
嫌な予感が背筋を這った。
ユウトが前へ一歩踏み出すと、海面が裂けた。
水ではない。
これは“痛みの記憶”そのものだ。
裂け目から、黒と白の線が絡み合って伸び上がり、ひとつの“形”をつくりあげていく。
人の形。
肩幅、背丈、髪の長さ——
そして顔。
「……あ?」
そこに立っていたのは——ユウトだった。
いや、“もう一人のユウト”だった。
だが、これまでに見た「無貌の自分」や「怒りの自分」とは違う。
表情がある。
目には光が宿り、口元には笑みが浮かんでいる。
ただ、その笑みはどこか“薄い”。
貼りつけたような、形だけの笑顔だった。
もう一人のユウトが、軽く片手を上げる。
「やぁ」
声も、自分と同じだった。
ユウトは眉をひそめる。
「……今度はなんだよ、お前」
「自己紹介は省略でいいだろ?
第一段階で“形”のない俺を見た。
第二段階で“怒り”で燃えてる俺も見た。
じゃあ次に出てくるのは——」
もう一人のユウトは胸の前で手を広げ、あっけらかんと言った。
「“痛みを感じないふりをした俺”だよ」
胸の奥が、ズキ、と鳴った。
図星すぎて、反論の言葉が見つからない。
リュミエルが小さく身じろぎする。
【……ユウトさん……】
もう一人のユウト——“痛みを拒んだユウト”は、軽い口調のまま続ける。
「いやさ、ここまで来た自分を褒めてあげたい気持ちもあるんだよ?
怒りとちゃんと向き合った。
怖かった自分も抱きしめた。
それは本当に偉い」
拍手の真似をしながら、彼は笑う。
「でもさぁ、それ、本当に全部か?」
ユウトは無意識に息を詰めた。
痛みを拒んだユウトは、海のあちこちに浮かぶ“ひび割れの光景”を指さす。
「これ、見えるだろ?」
どこかの村で、誰かが泣いている。
勇者に救われなかった人々。
間に合わなかった救援。
モンスター同士の争いの中で、踏みつぶされた小さな影。
「お前、全部見えてるのに——気づかないふりしてないか?」
ユウトは歯を食いしばる。
「……見てるよ。だから今ここにいる」
「“だからここにいる”のは、きっと本当だ。
でもさ——」
痛みのユウトは指で自分の胸を軽く突いた。
「ここ、完全には痛がってないだろ?」
胸に、鈍い痛みが走った。
まるで心臓を指先でつままれたような不快感。
「レオンが苦しんだとき。
ピリィが泣きそうになったとき。
ゴルドが笑いながら無茶してるとき。
村で、誰かを守れなかったとき。
影との戦いで、お前が助けられなかったモンスターの声を聞いてしまったとき」
痛みのユウトは、ひとつひとつ数えるように言葉を重ねる。
「お前、それ全部——“あとで思い出して落ち込めばいいや”って先送りにしただろ」
ユウトはなにも言えなくなった。
図星すぎて、腹が立つ。
でも、怒りをぶつける相手は自分自身だ。
リュミエルが小さな声で呟く。
【ユウトさんは……いつもそうでした】
ユウトは顔を向けた。
リュミエルは申し訳なさそうに目を伏せながら続ける。
【私が……あなたに“無理をさせている”とわかっていても……
あなたは笑ってごまかして、痛みを後回しにして……
“あとでちゃんと考える”と言って……】
「……で、その“あとで”は、永遠に来ない」
痛みのユウトが、あっさりと補足した。
「だからさ——俺はここにいるんだよ」
彼はユウトの目の前まで歩いてきて、真正面から見据える。
今まで出てきたどの“自分”よりも、距離が近い。
「“女神を救う”なんて、大層なこと言ってるけどさ。
自分の痛みもちゃんと抱きしめられてないやつが、誰かの痛み全部拾えると思う?」
ユウトは息を吐いた。
(……正直、思ってた)
「……思ってたよ。
誰かの痛みを優先して、自分のは後回しにすればいいって」
「そう。
それ、優しさなんかじゃないよ、“逃げ”だよ」
痛みのユウトは静かに言う。
その声には怒りも嘲りもなく、ただ事実を告げる冷たさがあった。
「自分が痛いのが怖い。
傷ついてるって認めるのが怖い。
だから、“誰かのため”って言葉で包んで、
本当は自分を守ってるだけ」
ユウトの胸の奥で、何かがギシギシときしんだ。
(そんなつもりじゃ——)
本当に、そんなつもりだけじゃなかったのか。
誰かを守りたくて、女神を救いたくて、戦ってきたのは本当だ。
でも、その裏側に——
「自分の痛みを見ないですむ便利な言い訳」としての「誰かのため」が混じっていなかったと言い切れるだろうか。
リュミエルが、静かに頭を下げる。
【……ごめんなさい。
私も、あなたの“そういうところ”に甘えていました】
「リュミエル——」
【あなたが“痛くないふり”をしてくれることで、
私は自分の罪悪感から少しだけ逃げられた。
世界を壊してしまったことから目を逸らせた。
あなたは、私の逃げ場でもあった……】
その告白は、女神としてではなく——ただ一人の存在としての弱さだった。
ユウトは、息を吸い込んだ。
痛い。
胸が、痛い。
でも——
「……そうやって言ってくれるなら、まだ救いがあるな」
痛みを拒んだユウトが、少しだけ目を見開いた。
「ユウト?」
ユウトはゆっくり笑った。
「ズルしてたのは認めるよ。
自分の痛みを見たくないから、“誰かのため”って言葉に隠れてた。
でもさ——」
彼は胸に手を当てる。
「こうして今、“それが痛い”ってちゃんと思えてるなら。
今この瞬間からなら、まだ間に合うだろ」
海の底から、無数のざわめきが押し寄せてくる。
過去に救えなかった命の声。
取りこぼした叫び。
見捨てたつもりはないのに、結果として見捨ててしまった痛み。
全部が、ユウトの胸に突き刺さる。
(痛い。
苦しい。
これ、全部——俺が見たくなかったものだ)
それでも——
ユウトは拳を握りしめ、前を向いた。
「痛いのは、嫌だ。
辛いのも、面倒くさいのも、全部嫌だ。
それでも——」
顔を上げる。
「リュミエルを救いたいのは、本当だ。
レオンやピリィやゴルドと、笑って旅したいのも本当だ。
この世界にちゃんと風を吹かせたいのも、本当だ」
痛みのユウトは、じっと見つめてくる。
その目は、「それならどうする?」と問いかけていた。
ユウトは、胸の奥の痛みに向かって言った。
「だから——逃げるのをやめる」
海が、大きく揺れた。
痛みのユウトが、少しだけ微笑む。
「それ、簡単に言うけど……実際にはどうするつもり?」
「簡単だよ」
ユウトは一歩、痛みのユウトの方へ踏み出した。
「“痛い”ってちゃんと言う。
痛いのは嫌だって、ちゃんと認める。
それでも進むって、決める」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が刺すように痛んだ。
でも不思議と——足はすこしも震えない。
痛みのユウトは目を細め、ふっと笑う。
「……やっと、言ったな」
「お前も、俺だからな」
ユウトは手を伸ばした。
「一緒に行こうぜ、“痛い俺”」
痛みのユウトは、その手を見つめて——
ゆっくりと、握り返した。
同時に、世界が砕ける。
白と黒の海が、蒼い風に吹き飛ばされていく。
無数の叫びが、痛みが、涙が——風の中に溶けていく。
それは消えてしまったわけではない。
ただ、“ユウトの中に座る場所”を得ただけだ。
痛みのユウトの姿は、光になって溶けた。
胸の奥に、ひとつ熱いものが沈んでいく。
(ああ——これが、“痛みを抱えたまま進む”ってことか)
風が、変わった。
以前の蒼風よりも、すこし重い。
でもその重さは、不快ではない。
それは、責任の重さであり、覚悟の重さであり——
それでも前に進みたいという、強さの重さだった。
リュミエルが、目の前で震えながら言う。
【ユウトさん……あなたは……本当に……】
「誤解するなよ」
ユウトは軽く笑った。
「俺は聖人になったわけじゃない。
痛いのはこれからも嫌だし、きっとまた後回しにしたくなる。
でも——そのたびに今日のことを思い出す」
胸を軽く叩く。
「ここに、全部溜まってるってな」
リュミエルの目から、ひとしずく光が零れた。
それは涙だった。
【……そんな風に言われたら……
私も、あなたの痛みから逃げられませんね】
「逃げなくていい」
ユウトは正面から女神を見る。
「一緒に痛がろうぜ。
お前が世界の痛みを見たときは、俺も一緒に痛がる。
俺が誰かを救えなかったときは、お前も一緒に悔しがれ」
【……はい】
リュミエルは微笑んだ。
欠けた輪郭が、少しだけ濃くなった気がした。
そのとき——
巨大な心臓光球の奥から、重い音が響いた。
ドクン。
世界そのものが脈打つような振動。
視界の奥に、“門”が見えた。
ひび割れた、白銀の門。
その中央には、黒い楔のようなものが突き刺さっている。
第四の影の声が、遠くから響いた。
【……よくここまで来たな、風の勇者】
ユウトは門を見据える。
「これが、“女神の心臓の核”への扉か」
【あの門を開けたとき——
お前は本当の意味で、この世界の“線”に触れることになる】
リュミエルがユウトの隣に立つ。
【ユウトさん……その扉の先には……
私が一番、見たくなかった記憶があります】
「だろうな」
ユウトは風を纏い、ゆっくり歩き出した。
「でも、行くんだろ?」
リュミエルは一瞬だけ目を閉じ——
そして、しっかりと開いた。
【はい。
あなたと一緒なら——見られます】
その言葉に、ユウトの胸の風がさらに強く吹いた。
(痛みも、恐怖も、罪悪感も——全部ひっくるめて)
(それでも、この世界を救いたい)
(それでも——この女神を取り戻したい)
門の前に立つ。
ユウトは、振り返らなかった。
ただ前だけを見て、扉に手をかけた。
「行くぞ、リュミエル」
【……はい、ユウトさん】
白銀の門が、軋むような音を立てて開く。
その先に待つのは——
女神を取り戻すための、最後の心臓試練。
風が吹き、世界が震え、
ユウトは一歩を踏み出した。




