「影が形を求める夜」
夜の風は、本来もっと軽やかなはずだった。
海沿いの草原を渡る風は涼しく、潮の匂いと月の光を運ぶ――それが、この世界の“普通”の夜だ。
けれど今夜の風は、どこかが違っていた。
重い。
どこか湿っている。
そして、風の“流れ”が妙に淀んでいる。
ユウトは焚き火のそばでそっと目を閉じ、風を読む。
(……また流れが乱れてる。昼間よりも強くなってる……)
第三の影。
形を持つ前の段階――“胎動”。
ここ数日の風の乱れは、それが確実に進行している証拠だった。
ピリィがユウトの膝に乗ってきて、心配そうに震える。
『ぷるぅ……ユウト、また嫌な風ですぅ……。風が……泣いてるみたいですぅ……』
「……うん。風が“誰かに触られてる”感覚がある。影が……何かを探してる」
『ぷる? 誰を探してるですぅ?』
「……俺だと思う」
そう答えると、ピリィが大きく震えた。
『だって、第三の影は“風の根っこ”を食べたいんですよね……?
じゃあユウトの風って……一番の獲物じゃないですぅ!!』
「まあ……うん。そうなんだけどさ」
どこか他人事のように言うユウトに、ピリィが涙目で体を膨らませる。
『ぷるるるるっ!! ユウトが喰われたら森の風も海の風も全部消えちゃうですぅ!
ピリィ困るですぅ! 湿気すごくなるですぅ!』
「湿気の問題なのかお前は……」
少し笑ったが、胸の奥には不安が張り付いたままだった。
(……たしかに第三の影の“本命”は俺だ)
風の源流に近い者――風の勇者。
影が形を得るには“宿主”が必要で、その条件を満たすのはユウトだ。
しかし――。
ユウトは焚き火から少し離れ、夜空へ目を向けた。
(……今の俺は“狙われやすい対象”じゃない)
理由は明確だ。
影との決戦、沈語の渦、言葉の海――
この数か月で、ユウトの風は何度も極限まで使われ、いまは“枯れかけた井戸”のように消耗している。
影が求めるのは“満ちた風”。
器として機能する者。
今のユウトは、風を補充していない。
影が取り憑くには“旨味が少ない”。
(だから今は……“仮の宿り場”を探してるんだ)
そして、思い当たる人物が一人いる。
「……レオン」
海辺の遠く。
別行動中の彼が向かったであろう方向へユウトは目を細める。
沈語の影の後遺症で、レオンの“声の穴”はまだ完全には塞がっていない。
その“隙間”は、影にしてみれば絶好の侵入口。
(……影が本当に形を求めるなら、まずレオンに触れる。
でも最終目標は俺だ)
それが、風が示す答えだった。
ピリィも同じ方向を見つめる。
『ぷるる……レオンさんのところ……風が変ですぅ。ちょっとだけザワザワしてるですぅ……』
「わかってる。……風の“芯”が震えてる」
ユウトは立ち上がり、夜風を胸いっぱい吸い込む。
風は弱い。
頼りない。
いつもよりずっと“薄い”。
(……でも、この薄さは“影が近い”って証拠だ)
海が静かだ。
波の音が小さくなる。
夜の虫の声が遠のく。
世界の“音”が、第三の影を避けるように沈んでいく。
まるで――
影に触れた場所から、世界がひっそりと息を止めているようだった。
ピリィが震えながら呟く。
『ユウト……風が……あっちに呼ばれてるですぅ……
なんか“おいでおいで”されてる感じですぅ……』
「それは呼ばれるんじゃなくて“食われる合図”だからな」
『ぷるぁぁぁ!? 怖いですぅ!!』
ユウトは肩をすくめながらも、拳を握った。
(レオンに取り憑こうとしてる……でも、レオンはまだ耐えてる)
決定的な感覚だった。
第三の影はまだ“器”を決めていない。
大きな理由がある。
(レオンでも俺でも……まだ“形”になれない)
影は焦っている。
だからこそ、夜の風がここまで荒れ始めている。
形がほしい。
体がほしい。
声がほしい。
“影ではない何か”になりたい。
その“渇望”が夜空を満たしている。
ユウトは静かに言った。
「……影は、間違いなく“形を求めて動き始めてる”。
でも、まだ生まれきれない。
レオンも喰われてないし……俺もまだ狙われてない」
だから――今だけは平穏だ。
しかし、夜の風が警告を運んできた。
(明日か……。
影が“形を得る夜”は……近い)
ユウトは月を見上げた。
雲がゆっくり流れ、月の光が揺れている。
ピリィが小さく囁く。
『ユウト……影さん、どうしてそんなに“形”をほしがるですぅ……?』
ユウトは答えを探しながら夜空を見つめた。
「……わからない。
でも、沈黙の影も沈語の影も“孤独”を抱えていた。
影ってのは……もともと“欠けた心”から生まれるもんなんだろうな」
沈黙の影はリュミエルの心の沈み。
沈語の影は世界の言葉のずれ。
第三の影は――まだ正体が見えない。
ただひとつだけ確かに感じる。
(あれは……“何かになりたがってる”。
影ではなく……存在したいって。
でも、影だから“形のない自分”を理解できないんだ)
だから“風”に寄ってくる。
だから“声”を求める。
だから“レオンの隙間”に触れようとしている。
影は“形”になろうとして、もがいているのだ。
そしてその“胎動”は――
今夜が最も強かった。
ユウトは息を吐いた。
「……明日、動く。
レオンのところへ行こう。
影が形を得る前に止める」
ピリィが胸を張って頷いた。
『ぷるりっ!! ピリィ、ぜったい守るですぅ! ユウトとレオンさん、両方守るですぅ!』
「お前は頼もしいな……」
夜の風が流れた。
弱いが、確かにユウトたちを包む優しい風だ。
その風の奥に――薄い、薄い“影の気配”が、微かに混ざっていた。
まるで耳元でささやくように。
……ま……て。
……ま……も……う……す……こ……し……。
影の胎動は、もうそこまで来ていた。




