「風はまだ語り始める」
海岸沿いの道を歩きながら、ユウトは何度も風の流れを確かめていた。
空には穏やかな風が吹き、雲の影がゆっくりと大地を流れていく。
けれどその風の“芯”の部分――どこかが、微妙に狂っているように感じた。
「あれだな……どこが悪いってわけじゃないけど、味が薄いスープみたいな風だな」
『ぷる? 風に味なんてあるんですぅ?』
「いや、あるだろ普通に。匂いと感触で味って決まるんだよ」
『ぷるぅぅ……ユウト変わったですぅ……風を食べる人になったですぅ……』
『風の味か……我が筋肉はまだその境地に達していない……!』
「お前の筋肉は黙っとけ」
しかし冗談に聞こえるこの“味の違和感”は、ユウトにとっては無視できない感覚だった。
これまで彼は、影の沈黙、沈語の渦、言葉を喰らう波――
ありとあらゆる異変を“風のざわつき”から感じ取ってきた。
その風の流れに、明確に ひっかかり がある。
(……また、何かが始まってる)
影の残滓――第三の影の存在が確定したわけではない。
だが世界のどこかで、また“静けさ”が蠢き、形を作ろうとしている気配があった。
「どこか行きたい場所とかあるですぅ?」とピリィが尋ねた。
「いや、正直言って“風の向くほうへ”って感じだな」
『それは無計画ですぅ!』
「でも俺の風って、変な方向にだけ案内するんだよな……」
『それ、ユウトのせいじゃなくてリュミエルさんのせいでは……?』
「あり得るな」
ピリィとユウトが冗談を言い合っていると、
ふいに遠くから“悲鳴にも似た叫び”が聞こえてきた。
『ぷるっ!? 今のなんですぅ!?』
「……風が運んできた声だな。誰か困ってるな」
ユウトは風を読み取る。
“言葉”としては聞こえないが、モンスターの感情が風と混ざって震えていた。
(……迷ってる? いや、怯えてる……?)
その感情は非常に不安定で、まるで何かに追われているように乱れている。
「行くぞ!」
『ぷるーっ!』
『筋肉も前進であるッ!』
三人は声のした方へ駆け出した。
⸻
森の奥へ進むと、ふいに空気の流れがねじれた。
風の方向が急に変わり、木々の葉が逆に揺れ始める。
「風が……巻き戻ってる……?」
足元の落ち葉が逆向きに転がり、遠くの鳥の鳴き声が“逆再生”されたような奇妙な響きを持って届く。
『ぷるる……怖いですぅ……』
「……第三の影か?」
ユウトは呼吸を整え、さらに奥へ。
やがて開けた場所に出ると、その中心に――小さなモンスターが倒れていた。
丸く、ふわふわした毛玉のような、森に住む弱いモンスター「モコル」。
だが、その体は微かに震え、周囲の空気を吸い込むような“ひきつれ”を起こしていた。
『ぷる!? モコルさんですぅ! どうしたんですぅ!?』
「……心読んでみる」
ユウトは目を閉じ――モコルの心の声に触れた。
(……くる……きこえる……こえが……きえ……)
「“声が消える”……?」
(……ひと……ひとじゃない……ひと……かげ……うしろ……)
ユウトは反射的にモコルの背後を向く。
そこに“何もなかった”。
しかし風が――震えていた。
空気が“ゆらり”と捩れ、影でも光でもない“輪郭だけの揺らぎ”が木々の間に漂っている。
(来ている――第三の影が)
背筋に冷たいものが走る。
影は形を持っていない。ただ“揺れ”だけが存在している。
「……まだ具現化はしてない。でも、近い」
『ぷるる……ユウト……怖いですぅ……これ、沈語の影より怖いですぅ……』
「たぶん、質が違う」
沈語の影は“言葉と言霊”を喰らう影だった。
だが、目の前にいるこれは――
(……存在の“輪郭”を喰ってる……?)
ユウトが風を通すと、揺らぎは一瞬形を変えた。
人のようでもあり、獣のようでもあり――
何かの“原型”なのに“正体ではない”。
『ぷるー……ゆらゆらしてて気持ち悪いですぅ……』
「ピリィ、下がれ……!」
だが揺らぎはすぐに霧散した。
風の流れが正常に戻り、森の空気が少しずつ落ち着く。
『消えたですぅ……?』
「追えねぇ……これは厄介だな」
影は“まだ生まれていない”。
だから形を持たず、風を掴むことすらできない。
かろうじて追えるのは、風に残る“違和感”だけ。
(……第三の影が形を持ち始めた。
まだ生まれる前――胎児みたいな状態か?)
モコルは震えながらユウトにしがみついた。
その小さな心は、影に触れた恐怖でいっぱいだった。
(……こわ……ひと……けはい……しろ……ぎん……)
「……白銀?」
ユウトは息を呑む。
「待て……白銀って、それ……影リュミエルの色じゃん」
沈黙の影を浄化した時、光となってリュミエルに戻った“白銀の影”。
そこに、まだ“残滓”があったというのか?
第三の影とは
“白銀の影”の残した心の欠片――
その可能性が、一気に浮上した。
(……リュミエルは知らない……これは完全な“別個”の影……)
『ユウト、どうするですぅ……?』
「決まってる。追う」
ユウトは立ち上がり、風を感じ取る。
森の奥から、薄い薄い“白銀の香り”――
リュミエルの気配にも似て、でもまったく異質な“影の気配”が流れていた。
「これ……レオンの方へ向かってねぇか……?」
第三の影は“宿主”を求める。
その条件は――
•信念がぶれた者
•心の沈黙を抱えた者
•使命と孤独の間で揺らぐ者
レオン・グラディウス。
ユウトと同時に召喚されたもう一人の勇者。
影の沈黙で“言葉を奪われ”、心に深い亀裂が走っているはず。
「まずい……あいつ狙われてる……!」
ユウトが走り出そうとした瞬間、風が強く吹いた。
風の中で、ふわりと金色の粒が揺れた。
リュミエルの声が、ほんの少しだけ聞こえた気がした。
『……ユウトさん……気をつけて……
それは……私の影じゃ、ありません……
“声の根”が……崩れ……はじめて……』
そして風が途切れ、金色の粒は消えた。
「リュミエル……?」
ユウトは深く息を吸う。
(……よし、わかった。行くぞ)
第三の影を追い、レオンの元へ向かう。
『ユウト、いそぐですぅ! あの影、レオンさんに行ったら……ヤバいですぅ!』
『筋肉は準備万端であるッ! レオン、待っておれ!』
ユウトは風を切って走り出す。
第三の影が生まれる前に――そしてレオンが沈む前に――
風が届かなくなる前に。
風が揺れた。
その向こうへ、影が逃げていく。
ユウトはその後を、必死で追いかけた。




