「第三の影を追う者」
夜の砂漠は静かだった。
昼間は焼けるような熱に満ちていた大地が、今は冷えた鉱石のように凍てつき、足音を吸い込み、世界はただ薄い月光だけを頼りに存在している。
レオン=グラディウスは、手にした剣を握り直した。
沈語の影――あの声を奪う影を追い詰め、風の勇者ユウトがそれを鎮めたあの日から、彼はずっと感じていた。
(まだ……終わっていない)
沈語の影が残した“燐光”が世界に薄く漂っている。
それは誰の声でもない。風でも音でもない。
ただ、意志だけが残っているような、得体の知れない影の鼓動。
(沈語の影が消えたあと……もう一つ、別の気配が残った。あれが、第三の影だ)
レオンは夜風にまぎれるその波を追っている。
影は言葉を喰らう沈語の影とも違う。
ましてやリュミエルの“沈黙”の影とも違う。
それはもっと古く、もっと原始的で、もっと“形を求めている”。
――まるで宿主を探すように。
(第三の影は、誰かに憑く気配を探している……)
ふらりと砂が揺れた。
レオンは振り返った。
砂の表面に、薄い黒が走る。
夜の闇とも違う、“音のない黒”がゆっくりと移動している。
「……そこか」
剣を抜いた瞬間、影は砂煙を上げて散るように遠ざかった。
追うようにレオンは走った。
砂を蹴り、月を追い越しそうな勢いで黒を追う。
影は逃げるのではない。
誘っている。
レオンを“どこか”に導こうとしている。
(俺を選ぶつもりか?)
一瞬、影が揺れた。
応えるように。
レオンは剣を握り締めたまま、影の誘導する方向――朽ちた廃寺へ足を踏み入れた。
石の柱は崩れ落ち、壁は半分以上が欠け、風の通り道になっている。
しかし――風の音がしない。
(……ここだけ、音がない)
嫌な汗が背筋を伝う。
沈語の影を追っていたときとも違う、重い沈黙が寺に満ちていた。
「第三の影……いるのか?」
応えるように、黒い靄がゆらりと舞い降りた。
(あのときの……声なき残滓)
靄が凝縮し、人の形に変わろうとする。
しかし未完成で崩れ――また集まり、形を探す。
「……姿を求めているのか」
すると影が、ひときわ大きく揺れた。
レオンの記憶の奥へ、何かが流れ込む。
砂漠、剣、光、そして――風。
レオンの胸に息吹く“もう一人の勇者の影”。
ユウト。
(なぜ……ユウトの記憶が……?)
影が何かを訴えている。
沈語の影とは違う。
沈黙の影とも違う。
これは――“誰にも聞かれなかった声”。
そしてレオンは気づいた。
第三の影は、
「勇者たちのすれ違い」「孤独」「葛藤」「言葉にできなかった想い」
――そのすべてが凝縮して生まれた“始まりの影”。
人の心からこぼれ落ちた、神でも魔物でもない、純粋な“影”。
影はレオンの足元にまとわりつきながら、かすかな思念を押しつけてくる。
(――姿……欲しい……
――形……欲しい……
――声……欲しい……)
そして、レオンだけに向けられた最後の願いが届く。
(――正義の形……お前の声を貸せ)
レオンは剣を握り直した。
「……正義、か。
俺も……迷っているのかもしれんな」
影が嬉しげに揺れる。
「だが、俺の正義は……俺の剣で決める。影の言いなりにはならない」
影は揺れた。
怒りでもなく、悲しみでもなく――混乱。
まだ未完成なのだ。
だからこそ、レオンは言う。
「俺がお前を追う。
お前が何を求め、どこへ行こうとしているのか……その先まで見届けてやる」
影が揺れ、廃寺の外へ吸い込まれるように飛び去った。
レオンは追って外へ出る。
空には雲がかかり、月の光は遮られた。
第三の影は夜空へ向かって伸び、薄い線になって消えていく。
「……まだ終わりではない、ということか」
レオンの胸には、
「影の願い」と
「影が求める新しい宿主への不穏な気配」
が確かに残っていた。
そしてその方向――
レオンが見つめた先には、
ユウトが旅する“海の方角”が伸びていた。
「影は……ユウトの方へ向かっているのか……?」
第三の影は風を求めていた。
風の勇者――ユウトへ。
それは、導くのか、壊すのか、救われたいのか。
まだわからない。
レオンは剣を構え直し、夜空へ言葉を投げた。
「――ユウト。俺はお前と再び並ぶために剣を抜く。
第三の影が、お前を選ぶ前にな」
夜風が揺れた。
それはユウトの“風”とどこか似た、静かで温かい流れだった。
レオンは歩き出す。
影を追うために。
ユウトと再び向き合うために。
そして――
世界のどこかで息を潜めている“最後の影”を終わらせるために。
⸻
砂漠の出口で、レオンは立ち止まった。
影の残滓が風に乗って流れていく。
その先にあるのは、海。
言葉の海――ユウトが向かった場所。
レオンは気づき始めていた。
第三の影は、
沈黙でも、沈語でもなく――
心が“言葉にならなかった瞬間”に生まれる影だと。
ユウトにもわずかな迷いはあるはずだ。
その迷いを影が食べれば……ユウトすら飲み込むかもしれない。
(それは……俺が止める)
レオンは胸の中で静かに呟いた。
「ユウト。
お前が影に飲まれることは、俺が許さない」
風が吹く。
影が一瞬だけ、薄く形を取った。
白銀の髪。
人のような、そうでないような姿。
沈語の影とも、沈黙の影とも違う。
その口が微かに動いたように見えた。
――ユ……ト……
レオンの目が鋭く光る。
「影。
お前は何を望む?」
影は消えた。
答えはまだ出ない。
しかし、影はユウトの名を呼んだ。
確かに。
レオンは剣を背に収め、歩き出す。
「なら……追うしかない。
ユウトを、守るために」
夜が明ける。
東の空が薄橙に染まり、風の音が戻る。
最後の影はまだ音を持たない。
その影が声を手に入れる前に――。
レオンは足を踏み出した。
風の勇者と第三の影の交わる場所へ向けて。
それが、
“最終対決”へ繋がる第一歩だった。




