「影、笑う」後編➖沈黙の決戦➖
「……竜王さん!」
ユウトの叫びは空気に消えた。声が届かない。音が存在しない。風が死んでいた。
竜王は膝をついていた。沈黙の波に触れた翼が、白く崩れて消えていく。存在そのものを削り取るような、音のない侵食。
「動くな……」
竜王の声は頭の中に直接響いた。
「この沈黙は“世界の終端”だ。音を失えば、存在も失われる。」
「そんなの、ふざけんな……!」
ユウトは歯を食いしばり、前に出た。ピリィが震えながらついてくる。
『ユウト……ダメですぅ……この空気、ピリィまで消えちゃうですぅ……』
「離れるな。俺から絶対離れるな。」
白銀の髪が揺れる。影のリュミエルが、ゆっくりと歩み寄ってくる。足音もない。
「……あなたは本当に頑張る子ね。もう、十分に風を吹かせたでしょう?」
その声だけが、沈黙の中で鮮明に響いた。
「俺が止めなきゃ、世界が消える!」
「消えないわ。静まるだけ。」
「それを“消える”って言うんだよ!」
影は微笑んだ。白い肌、金を失った髪、闇の瞳。美しく、痛々しい。
「リュミエルは、疲れたの。ずっと、誰かのために風を吹かせ続けた。だから、私が代わりに沈黙を与えるの。」
「それが優しさだって言うのか?」
「ええ。休ませてあげたいだけ。」
「……違う。お前、それ“逃げ”だよ。」
影の瞳が揺れた。
「逃げ?」
「そうだ。誰かの痛みを消すために全部無にするなんて、そんなの間違ってる。リュミエルはそんな女神じゃない!」
沈黙が波打つ。影が手を上げた。空が白く砕ける。
音が、記憶が、形を失う。
「じゃあ、証明してみせて。リュミエルを知っているあなたが、風で私を止められるかどうか。」
世界が閉じた。
ユウトは立っていた。足の感覚が消えかけていた。息をするたび、肺の音すら吸い取られる。
それでも――。
「ピリィ!」
『ぷるっ!? な、なんですぅ!?』
「俺の声、聞こえるか!」
『聞こえるですぅ……でも、かすかに……!』
「十分だ!」
ユウトは目を閉じた。意識を沈め、心を広げる。
沈黙の海の底に――無数の“心”のさざ波が見えた。
モンスターたちの声。かつて助けたスライムたち、森の魔物たち、洞窟の獣たち。
彼らが、ユウトの呼びかけに応えていた。
(聞こえるか……! 俺の声が、風が、まだ生きてるか!)
『勇者……風が、まだ吹いてる……』『またあの人だ……』『沈黙の中でも、風がある……!』
世界の底から、無数の“声”が湧き上がる。
ピリィの体が青く光り始めた。
『ユウト! みんなの声がピリィに入ってくるですぅ! すっごい、あったかいですぅ!』
「それでいい! 全部、風に乗せろ!」
ユウトの身体から風が溢れた。音を奪った沈黙の中に、“声”の震えが戻っていく。
世界が揺れた。影のリュミエルが目を細める。
「……それが、あなたの“声”?」
「そうだ。風は俺ひとりじゃ吹けない。みんなの声があって、初めて風になるんだ!」
影の瞳が微かに揺れた。
「……うるさい。」
影が手を振る。沈黙の刃が走る。
風の壁が切り裂かれ、ユウトの身体に黒い傷が走った。血が流れない。音がない。
ピリィが叫ぶ。『ユウトぉぉ! ダメぇぇ!!』
ユウトは笑った。
「まだ……終わってねぇ!」
背後で竜王の炎が再び燃え上がる。
「風の異端よ、今だ……!」
竜王の声は荒く、かすれていた。だがその炎は、確かに世界を照らしていた。
炎と風が交わる。沈黙の中心で光が生まれる。
「行くぞ、竜王さん!」
「吠えろ、風の勇者ッ!」
ユウトが叫び、竜王が咆哮した。
光と炎の奔流が沈黙を貫く。影のリュミエルが両手でそれを受け止め、歯を食いしばる。
「無駄よ……私は、リュミエルの心そのもの……!」
「だったら、思い出せよ……! お前が守りたかった風を!」
ユウトの声が響いた瞬間、沈黙の膜が裂けた。
影の瞳が震えた。そこに、涙が一粒だけこぼれた。
「……そんな言葉……もう……忘れてたのに。」
影の髪がほどけ、光が差し込む。
「私は……あの子の“恐れ”なのよ。
誰かを救えなかったらどうしようっていう、臆病な心。」
「そんなの、誰にでもある!」
「神にも?」
「神だからこそ、だ!」
沈黙が震えた。影が息を詰まらせ、空を仰ぐ。
「……あなたって、ほんと……リュミエルが好きそうな人ね。」
「本人に言えよ、それ。」
「……伝えとくわ。」
白銀の光が舞い上がった。
影の身体がゆっくりと透明になり、風に溶けていく。
「ユウト……ありがと。沈黙の中に、ちゃんと風があった。」
「リュミエルの中に帰るんだろ。」
「ええ。……彼女を、よろしくね。」
光が消える。風が吹いた。沈黙が崩れ、世界が音を取り戻す。
竜王が膝をつき、息を吐いた。
「……終わったか。」
「ああ。」
「ふん。神も愚かだが、人間も同じだな。」
「お互い様ですよ、竜王さん。」
竜王が笑う。
「よく言う。だが、悪くない風だ。」
ピリィがユウトに飛びつく。
『ユウトぉぉ! 生きてたぁぁ!!』
「……お前、泣いてんの?」
『泣いてないですぅ! ただ、目からゼリーが……!』
「それ、泣いてるって言うんだよ。」
ユウトは笑い、空を見上げた。
金色の光が広がり、柔らかな声が降ってきた。
『ユウトさん……ありがとう。』
「リュミエル……戻ったんだな。」
『ええ。あなたの風が、私を呼び戻してくれました。
でも……少し恥ずかしいですね。あんな姿を見られたなんて。』
「いや、まあ……ちょっと怖かったけどな。」
『ふふっ。次はちゃんと、お茶でもしましょう? 今度はバグなしで。』
「頼むよ、ほんとに。」
空の光が消え、風が穏やかに吹いた。
ピリィがユウトの肩で丸くなり、ゴルドが空を見上げて言う。
『結局、筋肉は何もしてないが、達成感だけはある!』
「その自信だけは尊敬するよ。」
竜王が立ち上がった。
「風の勇者よ。沈黙は去ったが、影は完全には消えていない。
神がいる限り、影もまた在る。」
「わかってる。けど、また吹けばいいだろ。」
「……その言葉、覚えておこう。」
炎の王は空に還っていった。
風が吹く。
ユウトは空を見上げ、そっと目を閉じた。
「沈黙は終わらない。でも――」
風が頬を撫でた。
「風も、止まらない。」
ピリィがくすりと笑う。
『ぷるぅ……ユウト、かっこよかったですぅ。』
「今ごろ言うな。」
『えへへ、風が気持ちいいですぅ。』
世界に、音が戻った。
それは誰の祈りでもない、ただの風の音だった。
――風が笑った。




