「影、笑う」前編➖沈黙の胎動➖
――風が止んだ。
森がざわめきをやめ、世界がまるで一枚の絵画になったようだった。
木々は揺れず、鳥の羽ばたきも消え、ユウトの呼吸だけが静かに響く。
「……まただな。」
彼は肩の上のピリィに声をかけた。
『ぷるぅ……ユウト、風が息してないですぅ……』
『筋肉の声も聞こえん! 世界が沈黙しておる!』
「お前の筋肉に声帯ついてないから!」
ユウトは笑ってみせたが、背中を冷たいものが走っていた。
(この沈黙、間違いない――影が動いてる。)
この現象は、今に始まったことではない。
ずっと昔から、ゆっくりと世界を蝕んでいたもの。
この世界が創られたとき――
“創界神”が宇宙の法を定め、その運行を任せたのが、風の女神リュミエルだった。
彼女は光を循環させ、風で命をつなぐ役割を持っていた。
だが、光が生まれれば、同時に影も生まれる。
彼女の中に宿った“沈黙の核”は、長い時間を経て意志を持ち、
今、世界を静寂に閉ざそうとしていた。
⸻
「……ん~、またデータがズレてるぅ……」
天界の白い雲の上。
リュミエルは端末の前で頬杖をついていた。
金色の髪がふわりと流れ、透き通るような光が画面を照らす。
【観測ログ:音の波形異常 発生率上昇中】
【原因:不明 要報告】
「不明って……えぇ~? また報告書? 上司、怒るんだもん……」
彼女は小さく肩をすくめた。
この“世界維持班”の中でも、リュミエルはいつも問題児扱いだった。
だが、その明るさと人間味が、彼女の唯一の強さでもあった。
創界神直属の上位管理者から、こう言われたことがある。
『君の仕事は風を見守ることだ。
それ以外は、手を出しすぎないように。わかったね?』
けれどリュミエルは、つい地上の出来事に首を突っ込んでしまう。
――そして今日も。
彼女の背後、光の床に落ちた影が、ゆっくりと蠢いていた。
長い髪。人の形。
それは、彼女自身の輪郭を映した“沈黙”の影。
けれど彼女はまだ、何も気づかず、陽気に鼻歌を歌っていた。
⸻
「ユウトよ。」
大地の奥から、地を震わせるような声が響く。
竜王の声だ。
マグマの熱気が吹き上がり、遠くの地平に炎の影が見える。
「……竜王さん。」
「感じたか。沈黙の波が再び動いた。」
ユウトはうなずいた。
「風が止まった。リュミエルの力が暴走してる……?」
「違う。暴れているのは“影”だ。神が光を持つ限り、闇はそこに潜む。」
竜王の瞳が赤く燃える。
彼の声には、怒りでも恐れでもない――ただ“確信”があった。
「お前がこの世界に来るより前から、
影はこの地に息を潜めていた。
沈黙は神の副作用だ。」
ユウトは、唇を噛んだ。
「……リュミエルは、そのことを知らない。」
「神もまた、完璧ではない。」
竜王の炎が高く舞い上がる。
赤い空の下で、ユウトの心に風が流れた。
「竜王さん、行こう。風を取り戻す。」
「よかろう。ならば、神の影を見届けろ。」
⸻
空が裂けた。
光の幕がはじけ、静寂の向こうから影が現れる。
白銀の髪。
金ではなく、光を失った金。
その髪が風に揺れるたび、世界が一瞬だけ暗くなる。
「……久しいわね、竜王。……そして、あなたがユウトね。」
その声に、ユウトの背筋が凍る。
声の響きはリュミエルにそっくり――けれど、暖かさがなかった。
「……お前が、“沈黙”か。」
「沈黙ではなく、還元。
世界が騒ぎすぎたから、少し休ませてあげるの。」
『ぷる……なんか……空気が重いですぅ……』
『俺の筋肉が、喋るのをやめた!?』
「お前の筋肉に意思はないっての!」
ユウトの冗談も、空に吸い込まれるように消えた。
影のリュミエルが一歩進むごとに、音がひとつずつ奪われていく。
「この世界は、私が眠るために作られたの。
リュミエルが無理をしすぎた結果……私は形を得た。」
「……彼女の一部、ってことか。」
「そう。私は彼女の“静けさ”。
あなたのような“風”とは正反対の存在。」
⸻
竜王が咆哮した。
「我が名は炎の王。沈黙よ、我を覆うこと叶わぬ!」
その一声で、空が震えた。
マグマが吹き上がり、空気が赤く染まる。
だが、影のリュミエルは指先を軽く動かすだけで、炎の音を奪った。
轟音が、霧のように消えた。
「ここは私の領域。音も風も、存在も――すべて沈む。」
「ならば、我が炎で焼き尽くそう。」
竜王が翼を広げ、炎の奔流を放つ。
影がそれを手で受け止める。
――音がない。爆発すら、音を持たなかった。
その衝撃でユウトは吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。
「ぐっ……竜王さんっ!」
「下がれ、風の異端! この戦いは“神々の領域”だ!」
ユウトは立ち上がる。
「そんなの知るか! 俺は風だ! 風は、沈黙にだって吹くんだ!」
「……ふふ。面白い。」
影のリュミエルが微笑む。
その微笑みは、美しくも、どこまでも冷たい。
⸻
空が白く、地が黒く染まる。
炎と風、そして沈黙が絡み合い、世界が軋む。
影のリュミエルの手が竜王の胸に触れた。
次の瞬間、炎が凍りつく。
竜王が膝をつく。
「……沈黙の力、ここまでとは……」
「神は眠る時が来たの。
そして人も、声を閉じる時。」
ユウトが叫ぶ。
「そんな勝手な終わり、認めねぇよ!」
「なら、抗ってみなさい。風の異端。」
影が手を伸ばした。
世界が真白に塗りつぶされる。
――風が、完全に止まった。




