「沈黙の空、竜王の視線」
地底を流れるマグマの川が、赤くうねる。
岩肌を焦がすような熱気の中、ひとりの王が瞼を開いた。
――竜王。
その瞳は、炎よりも深く、静かな悲しみを宿していた。
周囲の空間に、声なき声が流れ込む。
女神リュミエルの祈りにも似た、かすかな風の残響。
「……また、彼が風を動かしたのか。」
竜王は指先をわずかに動かす。
マグマの上に浮かぶ映像――そこには旅を続ける青年、ユウトの姿があった。
傍らで、スライムのピリィがぷるぷると跳ね、ゴルドが筋肉を輝かせながら歩いている。
竜王はその光景に、ほんの一瞬だけ微笑した。
「弱き勇者。
それでも、風を汚さずに保てるとはな。」
炎の奥、巫女ゼフィールが跪いている。
「陛下、ユウトは“影”の真実に辿り着いています。
彼は、リュミエル様の影――沈黙の本質を知っております。」
「……ああ、知っているとも。」
竜王の声が、ゆらりと空気を震わせた。
「そして、彼は知っている。
女神自身がそれを知らぬことも。」
ゼフィールの瞳が驚愕に揺れる。
「それでは……彼は神の罪を知る者に?」
「罪ではない。あれは“悲しみ”だ。
リュミエルはこの世界を愛しすぎた。
その心が、沈黙という影を産んだ。」
マグマが再び噴き上がる。
竜王はゆっくりと立ち上がり、熱に包まれながら呟いた。
「彼が“真実”を知る最後の人間になる。
だからこそ、私は見届けねばならぬ。」
⸻
岩壁に囲まれた谷を、三人の影が進む。
風がない。
ただ、沈黙が重くのしかかる。
『ぷる……ユウト。なんだか、静かすぎるですぅ。』
「……ああ。風が止まると、音まで死ぬな。」
『筋肉のきしむ音さえ響かぬとは……恐ろしい沈黙だ。』
「恐ろしいのは、この沈黙が“生きている”ことだ。」
ユウトの声は低い。
足元の砂が、かすかに“呼吸”するように動いていた。
彼は知っていた。
この沈黙こそが――女神リュミエルの影。
(彼女は、知らないんだ。
この沈黙が、自分の心の底から流れ出していることを。)
リュミエル。
無邪気に笑うあの女神。
人も魔も分け隔てなく愛し、風に祈りを乗せた存在。
その優しさが、いつしか“痛み”を拒絶する心へと変わった。
(……だから、彼女の影は生まれた。
苦しみを消すために、言葉を奪った。)
ピリィが心配そうに見上げる。
『ユウト……難しい顔ですぅ。お腹痛いですか?』
「違うよ。ちょっと、女神のことを考えてた。」
『リュミエルさま? この前のお茶会で、すごく明るかったですぅ。』
「ああ……明るすぎるくらいだったな。」
ユウトは小さく笑った。
あの笑顔の裏に、本人さえ知らぬ影が潜んでいる。
それを知る者は、彼と竜王だけ。
⸻
その頃、リュミエルは天の座で小鳥に餌をやっていた。
「みんな、お腹すいたのね~。ほら、パン屑だよ!」
その声は、世界に残る数少ない“明るい音”だった。
けれど周囲の天界の風は、どこか歪んでいる。
鳥たちの囀りが途中で途切れ、空がひび割れるように沈黙していた。
「……あれ? なんか静かだなぁ。」
彼女は首をかしげ、空を見上げる。
けれど、その理由を理解できない。
なぜなら“沈黙”は、自分の心の中にあるから。
「まぁいいか。今度ユウトさんと会ったら、またお茶でもしよう。」
リュミエルは笑顔を浮かべた。
その背後の光が、一瞬だけ黒く揺らいだことに、誰も気づかなかった。
⸻
黒い塔の中。
沈黙に包まれた空間で、ひとりの青年が膝をついていた。
レオン。
ユウトと同じ世界から来た、もう一人の勇者。
『……レオン。沈黙を恐れるな。
それは安らぎ。嘘も争いもない、理想の世界だ。』
耳元で囁く声。
それは“影”だった。
「……ユウト、お前はまだ、喋り続けているのか。
そんなものは……ただの苦しみの連鎖だ。」
レオンは目を開く。
瞳の奥には光が消え、深い静寂が宿っていた。
『あなたこそ、選ばれし“沈黙の勇者”。
女神の影に祝福された者。』
塔の上部で、黒い風が渦を巻く。
影が、次の器を選び始めていた。
⸻
再び、マグマの地。
竜王は炎を背に、目を閉じた。
「リュミエル……お前はまだ知らぬのだな。
その笑顔の奥で、お前自身が世界を沈めていることを。」
ゼフィールが低く問う。
「では、ユウトはどうなさいますか?」
「……彼は知りすぎている。
真実を抱いたまま、なお笑おうとしている。」
竜王は炎の中に、青い風の残響を見る。
そこに映るのは、笑うユウト。
「最弱の勇者。
だが、彼の笑顔こそが――この世界がまだ“生きている”証だ。」
竜王は静かに息を吐いた。
マグマが光り、火花が弾ける。
「……風はまだ死んでいない。
だが、影は近い。
次に吹く風が“沈黙”か“歌”か――それを決めるのは、あの少年だ。」
⸻
夜。
ユウトたちは焚き火を囲み、穏やかに食事をとっていた。
『ぷる♡ 今日のスープ、うまうまですぅ!』
『筋肉も満足だ! 味とは力だ!』
「……はは。そうかもな。」
ユウトは空を見上げる。
沈黙に侵されつつある世界で、それでも小さく風が流れていた。
(リュミエル……。
君は知らないんだろうな。
でも、それでも俺は――君の笑顔を守りたい。)
彼の心の中で、風が揺れた。
その風こそ、まだ誰も知らぬ“希望”だった。




