「記憶の風、眠る遺跡」後編 ➖神の恐れ、風の真実➖
風が止まった。
遺跡の奥に広がる静寂は、まるで世界が息を潜めているようだった。
影の残滓が消えたあとも、ユウトの胸の中にはあの声が残っていた。
『……彼女に、真実を告げるな……光が壊れる……』
その言葉が、耳の奥で何度も反響する。
ピリィが心配そうにユウトの袖を引いた。
『ユウト……帰りましょう? 風、泣いてますぅ……。』
「いや、もう少しだけ。この奥に……まだ何かある。」
『おい、まじかよ。さっきのアレで充分ヤベぇ感じだったぞ。』
「わかってる。でも、今はもう“沈黙の風”じゃない。風が俺に……“見てほしい”って言ってる。」
彼は一歩踏み出す。
足元の砂が風に舞い、古びた通路の奥へ誘うように流れた。
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奥へ進むごとに、壁の紋様が淡く光り始める。
それはまるで、風が過去を再生するようだった。
『……わたしたちは、風の記録。
女神の言葉を覚えている。
彼女がまだ“恐れ”を知らなかった頃の、歌を……。』
光の波が広がり、視界が反転する。
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――白い神殿。
空に浮かぶような場所で、リュミエルが祈っていた。
彼女は微笑み、風を撫でる。
『今日も穏やかねぇ。世界が笑ってるみたい。』
その横に、ひとりの小さな風の精が浮かんでいた。
女神がまだ「神」である前、風と心を交わしていた頃の姿だ。
『……リュミエル。もし、人が言葉で争ったら、どうしますか?』
『うーん……その時は、もっと優しい言葉を風に混ぜればいいの。
ほら、風は誰にも止められないでしょう? きっと届くわ!』
笑う彼女を見て、風の精は静かに揺れた。
けれど、次の瞬間、空の色が少しだけ濁った。
『……それでも、誰かが誰かを傷つけたら?』
『……そんなこと、あるのかな。』
リュミエルは困ったように微笑んだ。
だが、その“困惑”が、世界に最初の“恐れ”を落とした。
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映像が途切れ、ユウトははっと目を開いた。
頭の中に残響が残る。
「……最初の“恐れ”……それが、影の始まりか……。」
ピリィが涙目で近づく。
『ユウト……リュミエルさま、悪くないですぅよね……?』
「悪くない。誰でもそうだ。
……優しすぎる人ほど、怖がるんだ。“誰かを傷つけること”を。」
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さらに奥。
石でできた祭壇の上に、金色の羽根が一枚置かれていた。
触れた瞬間、ユウトのスキルが暴発した。
空が裂け、視界が白に染まる。
再び、風が記憶を見せた。
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そこは、沈黙の直前の世界。
人々が言葉を武器に変え、神を呪い、互いを傷つけていた。
祈りは消え、風は怒りと嘆きで満ちている。
『……リュミエルさま、もう、止めてください!』
『風よ……どうして、人は言葉で傷つけるの……?
そんなために、私は声を与えたんじゃないのに……!』
リュミエルが涙を流す。
その瞬間、風がひび割れ、世界から音が奪われていった。
『……もう、いらない。声も、言葉も。
みんな黙れば、誰も泣かない。』
彼女の“恐れ”が形を持ち、黒い影となって生まれた。
それが――“言葉を奪う者”だった。
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ユウトは息を呑み、足元を見た。
風が震え、さざ波のように声を放つ。
『……けれど彼女は知らない。
自分の恐れが、別の存在になったことを。
彼女は今も、風を信じて笑っている。』
「……そうか……リュミエルは、自分が影を生んだことすら知らないんだ……。」
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外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。
風が心地よく流れ、遠くの雲を撫でていく。
ユウトは岩に腰を下ろし、風を見上げる。
ピリィが隣で静かに座った。
『ユウト……さっきの、全部見えたんですか?』
「ああ。……リュミエルが世界に言葉を与えた。
でも、人がそれを憎しみに使った。
だから、彼女は“言葉を失わせる風”を作ってしまった。」
『ぷる……かわいそうですぅ……。そんなの、優しさが悪いみたいですぅ……。』
『神様でも、優しさが裏目に出ることあるんだな……。』
「……ああ。でも、それを知るのは俺たちだけでいい。
リュミエル本人に伝えたら……きっと壊れる。」
風が頬を撫でる。
それはまるで、「その通り」と囁くようだった。
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そのとき、頭の中に明るい声が響いた。
『勇者さま〜! 今日も世界は平和ですか〜? 元気してますかっ?♡』
ユウトは反射的に苦笑した。
『ぷる♡ あ、リュミエルさまの声ですぅ!』
『おー、聞こえてきたな。あの能天気ボイス。』
「……ああ。
何も知らずに笑ってる方が、今はいい。
でも……その笑顔の裏に眠るものは、俺が風に返す。」
ユウトは空を見上げ、そっと呟いた。
「……お前が恐れた“沈黙”を、もう一度“歌”に変えてやるよ。」
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夜。
遺跡から離れた丘の上で、焚き火の炎が揺れていた。
ユウトは剣を膝に置き、風の音に耳を傾ける。
『……ねぇ、ユウト。』
「ん?」
『風って、どんな気持ちで世界を見てるんでしょうね。』
「さぁな。でも、たぶん……“全部、覚えてる”。
人が笑った声も、泣いた声も、
神が恐れた時の沈黙も。」
『ぷる……だから“記憶の風”なんですねぇ。』
『……風は忘れねぇ。筋肉痛も忘れねぇ。』
『ゴルドさん、それ違いますぅ!』
笑い声が、風に溶けていく。
ユウトは目を閉じ、心の中でリュミエルの声を思い出した。
『ねぇ勇者さま、あなたの旅は、もう少しで“答え”に辿り着く気がしますっ♡』
「……ああ。
でも、その“答え”をお前が知らないままでいいとは思えない。
……いつか、伝える。
“沈黙”は罪じゃない、“優しさ”の証だって。」
風が頬を撫でる。
まるで、“ありがとう”と囁いたように感じた。
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ユウトは立ち上がり、風に向かって微笑んだ。
「行こう。まだ“言葉を奪う者”の本体が残ってる。
あいつを止めなきゃ、リュミエルの風は完全に戻らない。」
『ぷる♡ 了解ですぅ! 次はぜったい勝ちますぅ!』
『筋肉、全開だ!』
笑いながら、三人は夜の風の中へと歩き出した。
星が瞬き、風が歌う。
その歌は、どこかで眠る女神の夢へと、静かに届いていた。




