世界は変わっていないのに
太陽がまっすぐ降り注ぐ午後だった。
空はどこまでも青く、雲がひとつもなかった。アスファルトの上には陽炎のような揺れが見えて、足元からふわっとした熱が上がってくる。
うだるような、というよりは「もう、溶ける」と言いたくなる暑さ。
少女は帽子のつばをぐいっと下げながら、汗ばんだ手のひらでおでこを拭った。
タオルを持ってくるのを忘れたことを、今さらながらに悔やむ。
もう何分、いや何十分歩いているだろう。
最初はただ「ちょっとそこまで」という気持ちだったのに、どんどん遠くまで来てしまった。
田舎道はひたすら続く。
畑の横を通り、あぜ道を抜けて、舗装された細い道に出る。
車も人も通らない。蝉の鳴き声だけが頭の上でずっと響いていて、まるで空から降ってくる雨のようだった。
最初はうるさいと思っていたその音も、今はもう遠くの風景の一部になっていた。
「あつい……」
少女は誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
風が少しだけ吹いたけれど、それは熱を運んでくるだけで、心地よさには程遠かった。
喉も渇いていたけれど、家に帰るにはもう少しかかる。
ペットボトルも持っていない。
ポケットには飴玉ひとつだけ。もう少しで溶けてしまいそうだった。
ふと、目の前に一本の大きな木が立っているのが見えた。
この道を何度も通っているのに、こんなに立派だったかと思うほど、今はその木が大きく、力強く見えた。
まるで、誰かがそっとここに置いておいてくれた避難所のようだった。
少女は、歩幅を早めることもできないまま、ゆっくりとその木の下へ近づいていった。
木陰は、確かにそこにあった。
空気が少しだけ冷たく、薄暗く、音も少し静かに感じられた。
しゃがみこむようにして、草の上に腰を下ろす。
背中にはランドセルの代わりに、小さな布のバッグ。
草がちくちくしたけれど、それさえも今は心地よかった。
「ふぅ……」
口に出した息が、まるで体中の疲れを一緒に外へ連れて行ってくれるようだった。
そのとき、少女の手の横に、一本の細い枝が落ちているのに気づいた。
まっすぐではないけれど、握りやすそうな長さと太さだった。
なんとなく、それを拾ってみた。
手のひらに枝のざらつきが当たる。
ほんの少し、冷たかった。
さっきまで熱かった世界の中で、はじめて感じた「冷たさ」だった。
それは氷のような強い冷たさではなく、木が日陰でゆっくり冷やしておいてくれたような、やさしい冷たさだった。
その感触が、不思議と心を落ち着けてくれた。
枝を持ったまま、少女は空を見上げた。
葉っぱの隙間から差し込む光が、やわらかく揺れていた。
木陰の音、葉の擦れる音、遠くで飛んでいる虫の羽音。
そして、蝉の鳴き声。
あんなにうるさくて、耳をふさぎたくなるほどだったのに、今はまるで、夏の風景を描いている音楽のように聞こえた。
風に混ざって、リズムのように蝉の声が届く。
草の匂いと、土の匂いと、汗をかいた自分の肌の匂い。
そのすべてが混ざって、「ああ、今夏の中にいるんだ」と思わせてくれた。
枝を両手で握る。まだ、冷たい。
その冷たさは、どこか「生きている証」のようにも感じた。
何もしていないのに、幸せだった。
ただ座って、枝を握って、風を感じて、音を聞いているだけ。
それだけで、今ここにいることが嬉しかった。
少女はそっと、枝を横に置いた。
また誰かが、いつか同じようにここで座るかもしれない。
そのときにこの枝が冷たかったら、ちょっといいな、と思った。
立ち上がる。
少しだけ、体が軽くなった気がした。
風は相変わらず熱かったけれど、どこか涼しさも含んでいるように感じられた。
また歩き出す。
今度はゆっくり、わざと音を立てながら。
蝉の鳴き声が、まるでその足音に合わせて合奏しているように思えた。
世界は何も変わっていないのに、
たった少し休んだだけで、こんなにも優しくなるんだ──
そんなことを思いながら、
少女はまた、歩き始めた。