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【異世界恋愛】短編

窓辺で交わした永遠の約束 ~病弱な令嬢と若き画家が描く、儚き愛の行方~

作者: ぱる子

 侯爵家の令嬢として生を受けたレティシア・ラグランジュは、生まれながらにしてその身体が弱かった。血色のよい頬や活力みなぎる笑顔とは縁遠く、遠出をすればすぐに熱を出して寝込んでしまう。周囲の医師たちは「長い散歩や無理な外出は控えるように」と、幼い頃から彼女に言い渡していた。それでも貴族の令嬢としての立場がある以上、最低限の社交行事には顔を出さなければならない。しかし、華やかな舞踏会の喧騒や(ほの)暗い夜会の空気は、レティシアの体をじわじわと(むしば)む。いつしか彼女の心は、部屋の窓辺にそっと身を預け、外の世界を夢想することでしか自由を感じられなくなっていた。


 そんなレティシアの唯一の楽しみは「芸術」だった。もともと繊細で感受性が豊かな性格も手伝い、幼い頃から色とりどりの絵画に魅せられ、絵筆を握ることが生きがいの一端になっていたのである。彼女の部屋には、有名無名を問わずさまざまな画家の絵が飾られており、その数は屋敷中でも随一だった。「公爵家でもないのに、ずいぶんと絵画に投資しているね」と侍女たちに冷やかされるほど、レティシアは絵を愛していたのだ。


 レティシアの父、ラグランジュ侯爵はそんな娘の嗜好(しこう)を見守りつつ、できる限りの支援を惜しまなかった。彼女が風邪をこじらせて寝込んだときも、快気祝いに新しい画集を贈るのが常であった。侯爵がいささか芸術分野に明るかったわけではない。しかし、病弱な娘の楽しみを奪わないようにと、当主として、そして父親としてできるだけ多くの美術品を取り寄せてはレティシアに与えていた。


 そうして彼女が十七歳になったある初夏の日。ラグランジュ侯爵は都の美術協会と協同で、美術展を開くことを決める。先代の時代から受け継がれてきた侯爵家の美術コレクションを一般に公開しながら、新進気鋭の若い画家を招き、その才能を世間に知らしめる機会を与えようという趣旨であった。レティシアも密かにその日を心待ちにしていた。というのも、彼女にとって外部の美術展へ出向くのはほとんど叶わない。体調への不安から長時間の外出が困難であったからだ。だが、自分たちの邸内で開催されるのであれば、これ以上ない好機だった。


 美術展の日が近づくに連れ、邸のあちらこちらで準備が進められた。豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアが輝くホールには侯爵家が誇る珠玉の名画が並び、余裕のある一角には、若手画家の作品が展示されることになっている。そして当日。天気は雲ひとつない快晴。レティシアは軽めのドレスを選び、病で衰えがちな自分の身体を気遣いながらも、胸に高鳴る期待を抱いてホールへと足を運ぶ。


 華やかに着飾った貴婦人たち、学識ある老紳士や若い貴族たちが口々に絵画の評価を交わし、あるいは社交に花を咲かせる中、レティシアは広間の隅で静かに作品を眺めていた。時折、友人や使用人が「調子はどうか」と声をかけるが、「ええ、大丈夫よ」と微笑んでやり過ごす。そうして一巡して満足したころ、ホールの奥にまだ自分が見ていない絵が展示されているのに気づいた。


 人だかりの中心に飾られていたその絵は、激しくも(もろ)く、どこか寂しげな光が差し込む風景画。真っ直ぐに伸びる水平線と、海辺に打ち寄せる波が深い青と銀の織り成すコントラストを描き出している。近づいて見ても、その筆致は繊細かつ大胆。日差しの当たる部分はまるで光がこぼれ落ちるように鮮烈で、陰影の部分には人の心の奥をえぐるような湿り気が感じられた。レティシアは、その不思議な空気感に強く惹きつけられ、思わず足を止める。そして絵の右下にサインされていた名をそっと口にした。


「シルヴァン・ジュネ……この画家が描いたのですね」


 その名前を聞いたのは、実は初めてだった。周囲の人々も見慣れない名らしく、色めき立っている。若手画家の一人という話だが、すでに堂々とした絵を描き上げるだけの力量がある。その才能に感嘆しながら、レティシアはさらに近づこうとした。すると、その背後で息をのむような静寂が生まれた。目をやると、人々が示す視線の先に、一人の青年が立っていた。少し伸びた明るい栗色の髪が肩にかかり、涼やかな印象の碧眼を持つ。年齢は二十歳そこそこだろうか。華やかな装いの貴族とは異なり、やや地味だが質の良さそうなシャツとベスト姿で、とても落ち着いた雰囲気を醸している。


「絵を気に入っていただけましたか?」


 青年は低く優しい声で尋ねる。まっすぐに向けられた眼差しは純粋かつ、自信と儚さが入り混じっているように見える。レティシアはその声に不意を突かれ、思わず胸がどきりとした。先ほどまで高ぶっていたはずの心拍が、さらに大きく跳ねるのを感じる。


「ええ、とても素晴らしい絵ですね。まるで、海に魂が宿っているかのようで……こんな風に描けるなんて、あなたは一体……」

「シルヴァン・ジュネと申します。未熟者ですが、こうして皆様に作品を見ていただける機会を得ました」


 会釈する彼の姿勢には、どこか繊細な雰囲気が漂う。周りで彼を見守る人々は、彼を評して「天才若手画家」「期待の新星」などとささやいているようだ。シルヴァンは視線を巡らせて、彼の作品に感嘆の声を上げる貴婦人たちを確認すると、そっと息を吐いた。その横顔には、歓びとも戸惑いともつかぬ複雑なものが混ざり合っている。ひとしきり視線を交わしたあと、彼はまるで何かを確かめるように、再びレティシアへと向き直った。


「あなたは……この絵のどの部分を、特に気に入ってくださったのですか?」


 いきなりの問いに驚きながらも、レティシアは素直に胸の内を口にする。


「光と影の対比がとても印象的で……それでいて、どこか切なさを感じました。海の果てに何か大切なものがあると信じているような――そんな思いを、勝手に重ねてしまったのかもしれません」


 シルヴァンは、その言葉を聞いて目を細めた。普段、画家は作品のどこをどう見てほしいかなど、誰かに説明するものではない。だが、彼女が語る感想には、真っ直ぐなまなざしがある。自分の絵が人の心を揺さぶった。しかも、その揺れ方が自分が意図したものに近しい――そう感じたのだろう。彼の瞳の奥が、(かす)かに(うる)んだようにすら見えた。


「ありがとうございます。そう、確かにこの絵には『何か』を捉えたいと思う気持ちを込めて描きました」

「何か…とは?」

「……亡くなった兄がずっと探していたもの、かもしれません」


 そこまで言いかけて、シルヴァンは口を閉じる。レティシアはそれ以上問い詰めるのをはばかり、ただうなずいて微笑んだ。


 このささやかな出会いが、レティシアの運命を大きく変えることになる。



 それから数日が経ったある日、レティシアのもとに届いた一通の手紙があった。差出人はシルヴァン・ジュネ。美術展の折に侯爵家の関係者から宛先を聞いたのだろう。宛名の文字はやや緊張した跡が見られたが、丁寧に書かれていた。


「侯爵令嬢レティシア・ラグランジュ様――先日は私の(つたな)い作品に目を留めてくださり、ありがとうございました。あなたの言葉に救われた気がしてなりません。実は、次の作品の構想を練るにあたり、いくつかご相談したいことがあります。もしご許可をいただけるなら、改めてお目にかかれないでしょうか――」


 当初、レティシアは少しだけ心が揺れた。彼は若い画家とはいえ、身分の差は大きい。相手の性格も素性もよく知らない。屋敷の外で会うとなれば、周囲の目もあるだろう。だが、それ以上に彼女は「もう一度、彼の描く絵の魂に触れてみたい」という強い思いに駆られる。恐らく、彼女がこれほど早くに芸術家と心を通わせたいと望んだのは初めてのことだった。父であるラグランジュ侯爵に相談したところ、「公式の場で会うのであれば問題ない」との許可を得ることができた。


 そして、屋敷のサロンでお茶を用意し、レティシアが待っていると、少し緊張した面持ちのシルヴァンが姿を現した。背筋は伸びているが、どこか守るべきものを抱え込んでいるような危うさも見える。テーブルを挟んで向き合い、挨拶を交わしたあと、彼はまっすぐにレティシアを見つめて言葉を紡いだ。


「突然ご連絡してしまい、失礼しました。ですがあの美術展で、お嬢様……いえ、レティシア様がおっしゃってくださった感想が、あまりにも僕の胸に深く刻まれたものですから」


 レティシアは頬を染める。これまで、誰かにこんなにも真摯に向き合われたことがあっただろうか。相手は平民の生まれかもしれないが、その言葉は実直で優しく、そして誠実な情熱を帯びている。彼女は何かを弁解するように、小さく首を振りながら答えた。


「こちらこそ、お招きする形になってしまって……でも、お会いできて嬉しいです。シルヴァン様は、次の作品について相談をしたい、と手紙でおっしゃっていましたね?」

「はい。実は……これから描こうとしている作品には『人の内にある儚さ』を映し出したいと考えています。でも、僕にはまだ、うまく形にできる自信がなくて……。兄が描きたかったものを、僕が代わりに描き続けている……そんな気がするのですが、兄の病状が長引いていた頃、僕は彼と心を通わせきれていなかった。だから、もっと人の孤独や優しさを知りたいんです」

「あなたのお兄様は……絵を描く方だったのですか?」

「はい。僕よりずっと優れた才能を持っていました。けれど彼は長く病床にあって、ついに自分の描きたい世界を完成させられなかった。僕はただ、その意志を継ぎたいと思っているだけなんです。けれど、兄が何を本当に望んでいたのか、どんな心で絵を描いていたのか……僕自身、もどかしいんです」


 語る言葉のひとつひとつに、シルヴァンの繊細さがにじみ出ている。レティシアは胸の奥が苦しくなるほど、彼の抱える苦悩が伝わってきた。人は病によって多くの可能性を奪われる。それは何も貴族や平民の違いなく、命や夢に対する残酷さを突きつけてくる。レティシア自身、身体が弱く、外の世界を自由に歩めないもどかしさを痛感していたから、彼の言葉が人ごととは思えなかった。


「私も病弱な身ですけれど……絵を描いているときだけは、体が軽くなる気がします。ここには行けないかもしれない、あそこには行けないかもしれない……と諦めるより、色や形で自分の世界を広げるほうがずっと楽しい。私……もしよければ、あなたの絵の着想に少しでもお力になれないでしょうか。私もシルヴァン様の作品に、もっと触れてみたいんです」


 そう口にするレティシアの瞳は、それまでどこか沈んでいた光を放ち、(かす)かに輝いて見えた。シルヴァンは驚き、そしてどこか安堵するように笑みを浮かべる。


「……ありがとうございます。レティシア様。僕は、あなたの言葉を聞いていると、兄と話していた頃の自分に戻れるような、不思議な感覚があるんです。もしご迷惑でなければ、これからも時々、作品を見ていただけませんか?」

「はい、もちろん。私も楽しみにしています」


 こうして二人は、少しずつ交流を深めていくようになった。シルヴァンは細やかな花のスケッチや、穏やかな風景を切り取ったような絵を持参し、レティシアと語り合う。彼女は彼のために温かいハーブティーを用意し、絵筆についての感想や、色合いに関する考えを伝える。そこには身分の上下など感じさせない、純粋な芸術を通じての対話があった。



 しかし、そんな穏やかな日々にも、影は忍び寄る。最初は、レティシアの体調が少し崩れた程度だった。ある日、シルヴァンが屋敷を訪れようとしたところ、急に断りの手紙が届く。「申し訳ありません。レティシア様の体調が(かんば)しくないため、しばらくお会いすることは難しそうです――」。それでも数日後には小康状態に戻り、二人はまた話をすることができた。


 けれど秋に入るころから、レティシアは咳き込むことが増え、夜中に高熱を出すことも珍しくなくなった。医師の言葉によれば、「肺に負担をかけぬよう、無理な外出は控えるべきです」とのこと。彼女の周囲も、屋敷の庭を散歩する程度ならともかく、町へ出かけるなど到底許されるはずもない。ラグランジュ侯爵も娘を心配し、何人もの医師を呼び寄せては治療に専念させた。


 一方で、シルヴァンは新しい大作に取りかかろうとしていた。それは、一人の女性が窓辺にたたずむ姿を中心に据えた絵。どこか儚げで、しかし窓の外に広がる世界を熱望するような、そんな構図だった。彼は制作の途中、ふと気づく。この絵のモデルが誰なのか――それは明らかに、レティシアなのだと。


 彼女と出会った当初、シルヴァンが「人の内にある儚さを映したい」と言っていたときには、まだ明確なイメージを持てていなかった。だがレティシアと交流するうち、彼女が見せる笑顔や、その奥に潜む切なさ……それが筆を導く。まるで亡き兄が描きたかった「人間の内面の美しさ」が、レティシアの姿を通じて形を成そうとしているようだった。


 そんな中、レティシアの病状が悪化し始めた。熱は下がらず、激しい咳が続く日々。床につききりの看護が必要になり、シルヴァンも屋敷への訪問を控えるように言われる。彼女の容態を気遣い、手紙を何度も出すものの、返事は短いものだった。「大丈夫。きっとすぐ良くなるわ」――けれど文章の端々からは、不安や苦しみがにじむ。


 シルヴァンは筆を握る手が(ふる)えるのを覚える。兄を失ったときの感覚が蘇る。自分には、誰かを救う術などないのか。兄の意志を継ぐなどと言いながら、結局は何もできずにまた大切な人を失ってしまうのか。そんな思いが渦巻く。しかし、その渦中でも彼は絵筆を放さなかった。むしろ、「描く」ことだけが、自分に残された唯一の道だと信じていたから。


「……絶対に、君を失いたくない」


 そうつぶやいた夜、シルヴァンは自宅のアトリエで一人、涙を流しながら絵を描き続けた。暗い部屋の中で、灯されたランプの明かりだけを頼りに。自分のすべてを注ぎ込むように、キャンバスへ色彩を乗せていく。亡き兄の夢と、自分自身の思い――それを同時に宿す作品を完成させたい。ただその一心で、筆を走らせた。



 冬が近づき、冷たい風が都を包み始めるころ。レティシアはようやく少しだけ体を動かせるまで回復したが、医師たちは安心できないと言う。再び悪化すれば取り返しがつかなくなるかもしれない、と。ラグランジュ侯爵も、その言葉を恐れていた。娘を守るため、彼は一日のほとんどを寝室で過ごさせ、侍女たちに万全の看護体制を取らせている。


 しかし、それは同時に、レティシアが絵を描く自由も、大切な人に会う機会も奪うことにつながった。窓の外の雪を見つめながら、彼女は弱々しく笑う。こんなに静かな冬は初めてだ、と。けれど、本当は心が震えるほどに寂しい。シルヴァンと話したい。彼の作品を見たい。彼が自分をモデルに描いているとしたら、一度でもいい、アトリエに行ってその絵を直に見てみたかった。


 そんな彼女の思いが伝わったのか、ある日、シルヴァンからの手紙が届いた。いや、手紙というより、小さな包みだった。中には、彼が途中まで描いたスケッチが数枚。窓辺に立つ少女、手に花を持つ少女、振り返る少女――すべてにレティシアの面影がある。そして手紙にはこうあった。


「――僕が何より描きたいのは、あなたが外の世界を見つめている姿です。その瞳に宿る光を、兄も本当は描きたかったのだと思います。あともう少しで、僕の絵は完成します。もしあなたがそれを見るために外出できる状態になったら、どうかアトリエにいらしてください。あなたの姿が、最後の仕上げに必要なんです――」


 その内容を読んだとき、レティシアの胸に熱いものが込み上げた。彼にとって、自分は大切な存在なのだろうか。それとも、ただのモデルにすぎないのか。そんな疑問は、彼女にとっては些細(ささい)なことだった。病の苦しさの中で、レティシアは思い知る。自分は、シルヴァンが描き出そうとしている世界が本当に見たいのだ、と。彼が自分に抱く思いの大きさに気づくと同時に、自分自身もまた、彼の心を求め始めていることを痛感する。


 それからさらに数日、レティシアは必死に養生に努めた。少しでも体調を整え、屋敷を出られるように。医師たちの苦い顔をよそに、彼女の意思は固かった。美しく厳しい冬の朝、ついにレティシアは「少しだけなら屋敷を出てもよい」との許可を取りつける。数人の侍女を伴い、馬車に乗り込む。向かう先は、シルヴァンのアトリエ。彼女は分かっていた。これが最初で最後の外出になるかもしれない、と。



 シルヴァンのアトリエは、小高い丘の上の古い屋敷の一室だった。扉を開けると、一面に薄い木目の床があり、壁にはキャンバスや下絵が所狭しと並んでいる。薄暗いが、奥の大きな窓からはやわらかな光が差し込んでいた。レティシアを迎えたシルヴァンは、驚きと嬉しさが入り混じった表情を浮かべる。


「よく来てくれました……体調は大丈夫ですか?」

「ええ、少し無理を言ってしまいましたが、大丈夫。あなたの作品が見たかったの」


 微笑む彼女の頬は、外気にさらされてほんのり赤い。だが、その呼吸は浅く、体力が続かないことを物語っている。それでもレティシアはまっすぐシルヴァンを見つめ、「あなたの絵を見せてください」と告げた。その声を聞き、シルヴァンは意を決したように、アトリエの奥に立てかけてあるキャンバスを取り出す。その表面を覆う布をそっと外すと、そこに描かれていたのは、まさにレティシアの姿だった。


 ――窓辺に立ち、遠くを見つめる少女。その瞳には、強い光が宿っている。外の世界に希望を求めているのか、それとも今いる場所に別れを告げようとしているのか。背景は淡い色彩でまとめられ、少女の姿を際立たせている。見れば見るほど、そこにはレティシア自身の苦しみや願いが投影されているようだった。


「これが……私……?」

「はい。あなたが見せてくれた優しさと儚さ、強さと弱さ……すべてを描きたかったんです。僕は、兄の夢を継ぐとはこういうことなんだと、あなたと出会って初めて思ったんです。兄は病に倒れながらも、最後まで『人の魂の輝き』を描きたがっていた。僕は何度もそれが何なのか分からなかった。でも、あなたの生きる姿を見ているうちに、きっとこういうことだろうと感じたんです」


 シルヴァンの声が(ふる)える。レティシアはそっとキャンバスに手を伸ばした。その表面を触れるわけにはいかないが、その近くに指を添える。その絵に映し出されているのは、ありのままの自分――病弱で、でも絵を愛し、外の世界を眺めることしかできない自分。でも、その中に、一筋の希望と愛しさが宿っているのを感じる。自分は決して一人ではなかったのだと、思わず涙が零れ落ちそうになる。


「綺麗……とても綺麗な絵……こんな風に、私を見てくれたのですね」


 そう言った瞬間、レティシアの胸の奥から込み上げる感情が一気に溢れ出した。彼女は口元を押さえて、細かく(ふる)える呼吸を抑えようとする。シルヴァンは彼女の背にそっと手を当て、支えるように抱き寄せる。


「無理しないで……ゆっくり呼吸を」

「ごめんなさい……少しだけ……苦しいの……でも、シルヴァン様に会えて、こんな素晴らしい絵を見せてもらえて……私は幸せ……」


 その言葉に、シルヴァンは目を(うる)ませる。自分の描いた絵が、ここまで彼女の心に届いた。それが胸に迫り、同時に恐怖がこみ上げる。彼女がまるで、最後の別れを告げているかのようにも聞こえるからだ。兄のときと同じ無力感が押し寄せてくる。しかし、彼は拳をぎゅっと握った。まだ、諦めたくはない。


「レティシア様……あなたを救いたい。僕に、できることはないんでしょうか」

「……あなたは、もう十分、私を救ってくれたわ。私の中にある弱さや不安を、絵でこんなにも美しく昇華してくれるなんて。私……こんなに愛されてると思わなかった」


 その言葉に、シルヴァンははっとする。愛されている――と彼女は言った。つまり、それは彼女自身がシルヴァンの想いを受け止め、それを愛だと感じた、ということ。彼は無我夢中で、レティシアをそっと抱きしめた。体温が伝わる。彼女の身体は氷のように冷たい。


 やがて、レティシアは(ふる)える声で絞り出す。


「シルヴァン様……お願いがあります。この絵を、最後まで描き上げてください。私は……このまま、あなたの手で、永遠に生かされていたい。もし、私がこの先、病に負けたとしても、あなたの絵の中でなら、ずっと息づいていられるでしょう?」

「そんな……僕は、あなたを失いたくない! 生きて、また絵を見てほしい……!」

「でも、私に残された時間は、そう長くない気がするの……。ごめんなさい、そんな辛いことを言って。けれど、だからこそ、あなたの絵が希望なの」


 彼女のか細い声が、静かなアトリエに木霊(こだま)する。シルヴァンは涙を(こら)えながら、そっと彼女の手を握りしめた。冬の陽射しが窓から差し込み、二人を照らす。柔らかな光の中で、レティシアの瞳はすべてを受け入れるように優しく揺れていた。



 それから数日後、レティシアは再び高熱を出して倒れた。アトリエから屋敷に戻るまでの短い外出が、思いのほか体力を消耗させてしまったのだ。侯爵家の医師は総出で対応するが、一向に回復の兆しは見られない。ラグランジュ侯爵は夜を徹して娘のそばに付き添い、病床で荒い呼吸をする娘の手を握り続ける。侍女たちの涙混じりの祈りが響く。


 そんな中、シルヴァンは最後の仕上げを行っていた。アトリエの奥、完成間近のキャンバスの前で、眠ることなく筆を動かす。彼には分かっていた。時間がもう残されていないのだと。もし明日、もし明後日……最悪の報せが届いてしまったら。だからこそ、今描かなくてはならない。彼女に捧げる絵を、最後まで完成させるのだと。


 やがて、キャンバスの少女が微笑んだように見えた。それは幻覚かもしれない。だが、シルヴァンには確かな手応えがあった。これが自分の精一杯の答えだ――と。彼は(ふる)える腕で筆を置き、ゆっくりと息を吐く。冬の冷たさに身を切られながら、夜明けを迎えようとしている空を見上げる。そして決意を固めた。彼女のもとへ、この絵を届けようと。



 レティシアの寝室。薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、彼女の白い顔を浮かび上がらせる。医師はもう、どうすることもできないと首を振っている。あまりにも強い熱と衰弱が、彼女の身体を(むしば)んでいるのだ。ラグランジュ侯爵は娘にわずかに残る意識を見届けようと、その手を離さない。


 そこへシルヴァンが現れた。侍女や医師たちが驚きと困惑の表情を浮かべる中、ラグランジュ侯爵は目だけで問いかける。彼女を刺激するのは危険かもしれない、と。しかし、シルヴァンは静かに首を振る。侯爵は娘の手を握りながら、かすかにうなずいた。


 シルヴァンが抱えていたのは、布で覆われたキャンバス。彼はレティシアのベッド脇にそれを立てかけ、そっと布を外す。そこには、あの窓辺に立つ少女が、瑞々しい表情でこちらを見つめる姿が描かれていた。完成を迎えたその絵には、柔らかい光が満ち、悲しみも切なさもすべて包み込むような温もりがある。まるで、彼女自身がそこに存在しているかのように。


「レティシア……」


 弱々しい意識の底から、彼女はシルヴァンの声を感じ取る。まぶたを重く開き、目の焦点を合わせようとする。すると、ぼんやりとにじむ視界の中で、あの絵が見えた。自分が窓辺に立っている。あの日、抱いた想いがすべて凝縮されているように感じる。頬に一筋の涙が伝い、唇がかすかに(ふる)えた。


「……私、ここに、いるのね」


 ほとんど声にならない声。けれどシルヴァンはそれを聞き逃さなかった。彼は彼女の枕元に腰を下ろし、両手でそっと彼女の手を包む。


「あなたは、ずっとここにいます。僕の絵の中で、外の世界を見つめ続ける。だけど……僕は、あなたに生きていてほしい。僕のエゴかもしれない。でも、一緒に生きていきたいんだ」


 言葉を紡ぐたびに涙がこぼれ落ちる。レティシアは、その涙を指先でぬぐってやりたいと思ったが、もう腕を動かすことがままならない。それでも、彼女の唇は(かす)かに動き、何かを伝えようとしている。


「シルヴァン様……こんなに想ってくれて、ありがとう。私も……私もあなたと……」


 それ以上、言葉にならなかった。レティシアの瞳はうっすらと閉じられ、その呼吸は弱く、儚い。シルヴァンが必死に名を呼んでも、彼女はもう意識を取り戻しそうにない。苦しげな呼吸の合間に、ほんの少しだけ唇が(ふる)え、「ありがとう」と伝えた気がした。そして、静かに長い息を吐くようにして、彼女の時間は止まった。



 ――風が、冷たい。外の雪がしんしんと降り積もる中、ラグランジュ侯爵家の人々は深い悲しみに包まれていた。レティシアの葬儀は限られた近親者だけで静かに執り行われ、彼女の愛した絵画に囲まれて、哀しみと祈りの言葉が捧げられる。シルヴァンは葬儀の場には立ち会わなかった。彼は誰よりもレティシアを愛していたのに、それだけに耐えきれない想いを抱えていたのだ。


 まるで、自分の命さえ奪われたような喪失感。その闇の中で、彼は思い出す。最後に彼女が微かに口にした「ありがとう」という言葉。それが幻聴だったとしても、彼にはそれが唯一の支えだった。彼女の笑顔が、自分を救ってくれた。兄の夢と共に、彼女は自分の中で生き続ける。それを胸に刻み、彼は再び筆を握る。


 数日後、ラグランジュ侯爵はある贈り物を受け取った。送り主はシルヴァン・ジュネ。開けると、そこには例の絵――レティシアが窓辺に立つ姿が描かれたキャンバスが収められていた。そして短い手紙が添えられている。


「ラグランジュ侯爵様。レティシア様への想いを込めたこの絵を、お納めください。僕が描いた絵の中で、彼女はずっと生きています。どうか、彼女の大切にしていた芸術と共に、いつまでもその輝きを保っていただきたいと思います。――シルヴァン・ジュネ」


 手紙を読み終えた侯爵は、深く目を閉じ、目頭を押さえる。彼女が愛した芸術、彼女が想いを寄せた画家の描いた作品。その中で、娘は微笑んでいる。それは一片の救いでもあり、同時に深い悲しみを思い起こさせるものでもあった。だが、侯爵はやがて静かな声で、「ありがとう、シルヴァン・ジュネ……」と、つぶやいた。



 春が来るころ。厳しい冬の冷気が少しずつ和らぎ、空に淡い陽射しが広がる。シルヴァンは山道を抜け、静かな海へと向かっていた。かつて海の絵を描いてから数か月。再び海を見たくなったのは、レティシアが外を思い焦がれていた姿を思い出したからかもしれない。海辺にたどり着くと、彼は一枚の小さなスケッチブックを開く。


 そこには、レティシアが笑顔で空を見上げる姿が描かれていた。まだ荒削りな下書きのようだが、彼の想いがふんだんに込められている。海に向かってそっと語りかける。


「レティシア、君はまだ、僕の中で生きてるよ。僕はこれからも描き続ける。兄が描きたかった『人間の魂の輝き』を、そして君の強くて優しい心を……ずっと、描き続けるから」


 答えはない。波の音が静かに返ってくるだけだ。しかし、彼にはそれが不思議と温かく感じられた。二度と会えないはずの人を、今も愛している。その想いが、筆を持つ彼の手を(ふる)わせる。けれど、その震えはもう悲しみだけではない。希望や覚悟、そのすべてが彼の腕に宿り、新たな色彩を生み出そうとしている。レティシアが絵の中で微笑んでくれたから――彼は一人ではないのだ。


 遠く水平線を見つめるシルヴァンの瞳には、確かに涙が光っていた。それは失われたものを嘆く涙であり、同時に未来へ歩み出すための涙。レティシアが(のこ)してくれた、見えない力が彼の背中を押すように、海風が髪を撫でていく。


 やがて彼は、静かにスケッチブックを閉じる。潮騒(しおさい)の音が、その胸に哀しくも優しい調べを刻んでいた。レティシアと交わした日々、彼女に注いだ愛、そして彼女から受け取ったすべて――それらを抱きしめながら、彼は歩き出す。兄の夢と、自分自身の新たなる創作の道を重ね合わせて。それは決して簡単な道ではないだろう。けれど、彼が絵筆を握るかぎり、レティシアもまた、彼と共に生き続ける。


 ――そのとき、雲間から淡い光が差し、海面を照らした。まるで、祝福のように。まるで、レティシアが「あなたの絵を、ずっと見守っているわ」と微笑みかけているかのように。


 止め処なく(あふ)れる涙を拭わず、シルヴァンは唇を噛んで笑った。彼女がくれた言葉、彼女が教えてくれた喜びと切なさ。そのすべてが、これからの彼の筆先を導くだろう。海の向こうへと伸びる水平線は、どこまでも続いている。いつか、その彼方で、きっとまた巡り会える。そう信じて、彼は一歩ずつ前へと進む。


 これが、若き画家シルヴァン・ジュネと、病弱な侯爵令嬢レティシア・ラグランジュの物語。永遠に触れられないふたりの運命が、絵の中で重なり合った、儚くも美しい愛の軌跡――


 彼女はもういない。だが、彼女はいつまでも、シルヴァンの描くキャンバスの中で生き続ける。穏やかな光を帯びた窓辺から遠くを見つめ、その瞳に揺らめく確かな輝きは、永遠に消えることはない。


 ――愛を描き続けるかぎり。彼の人生は、きっと、彼女とともにある。


(完)

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