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がん、と頭に響く衝撃。不自然な視界の揺れと霧がかかったように回らない思考、沈み込むような眠気。辺りのざわめきと酒の匂い、揺れる視界が気持ち悪い。ので一旦目を閉じた。
頭を打ったのだろうか。そこそこ強めに。
朦朧とする頭を懸命に回すも、思い出せない。頭打って記憶が飛んだか?たしか俺は会社を出て、電車に乗って帰ろうとしていて、それから……。
「……リン様!」
「…リン様をお助けしろ!」
「誰も近づけさせるな!」
「…医者を!はやく!」
取り囲むような声が一層大きく、近く、多くなる。
さっきから頭に響く声だ。誰だリン様。
なにもわからないが、野次馬の数が多いことだけわかった。食い物やら酒の匂いもする。どこかの居酒屋か?帰りに一杯ひっかけようと思ったのだったか。
適当なことを思いながら、喧騒を切り離すように、努めて静かに呼吸をする。…よし。少し目眩が治ってきた。ゆっくりと目を開く。と、
「は?」
俺の口から出たのは間抜けな声だった。
居酒屋かな、今から飲みなおす元気あるかなと思って見たら、視界を埋めるようにこちらを覗き込む何人もの野次馬たちは皆一様に時代劇でしか見たことないようなコテコテの和服?だったのである。
「オウリン様!わかりますか!」
「オウリン様が目覚めたぞ!」
「アン先生を呼んでこい!」
そいつらがはっとしたように目を見開き、それから口々にそんなことを言う。
室内らしく、板貼りの床と同じく板らしい天井が見える。俺の周りには数人の男がいて、その向こうで誰かがバタバタと駆ける。妙に長い袖がばさばさと揺れる。そういうものを、回復しきっていない頭でぼんやりと眺めていた。あるいは呆気に取られていてそうするしかなかったのかもしれない。
和服というのともまた違う。それよりもっと古めかしいというか、ひらひらしているというか、中華っぽいというか…そうだ、漢服だ。前に見た中国の時代劇みたいなドラマでこんな服を着たやつらがいた。気がする。それよりはもう少し簡素だが、だいたいあんな感じだ。
そんな服に身を包んだ男たちが自分の格好に微塵の疑問も持たないような大真面目な顔でなんだか色々言ったりワチャワチャしてる様は面白いという域を超えて異様だった。
21世紀の日本でチャイナ服なんて今日日中華街の客引きかイベントくらいでしか見ない。
だが実際これは、俺の知っている日本の日常風景とあまりに違う。なんなんだ、これは。どこなんだ、ここは。
「ここは、どこだ」
多少収まったとはいえ未だぐわんぐわんに揺れる頭をどうにか回して、近くにいた適当なやつに聞いてみる。漢服はなんでかショックを受けたように目を見開いた。
「あ、あなたがそれを言うのか」
あなたが?
「仕方があるまい、頭を打たれたから」
「きっとまだ記憶が混乱してらっしゃるのだ」
漢服たちが囁き合う。
「どこなんだ」
「こ、ここは…」
尚も問えば、漢服の一人が口を開きかけ、
その瞬間、バチッと音の聞こえそうな、電流の走ったような鋭い敵意が肌を刺す。弾かれたように立ち上がった。
なんだ。どいつだ。どこにいる。漢服じゃない。もっと鋭利で危険で上等ななにか。
「首領!」
慌てたように何か言っている漢服を無視して、見回す。見回す。垣根のように囲む漢服たちの向こう、少し離れた、酒や料理のいっぱいに乗ったテーブルのそばにそれはいた。
黒い、狼だと思った。手負いの狼だ。深い山の中、猟師相手に不覚をとって傷を作り、薮の中にうずくまる獣。だがその目は死んでいない。寧ろ己の死の気配という虚無を奥に抱えて爛々と輝き、静かに、だがまっすぐにその牙の狙いをこちらに定めている。こちらが背を向けた瞬間飛び掛かり、確実に喉元を食い破るために。そんな光景を幻視し、冷や汗が流れた。
漢服の数人も何か恐ろしいものを感じたのか、動けずにいる。
そんな中、何か叫びながら、漢服の中から一人が飛び出した。同時に酒や料理の匂いと喧騒、木作りの部屋が戻ってくる。
狼ではない。若い人間の男だった。
漢服ともまた違う、黒いカンフー服のようなものに身を包んだ男が蹲るようにテーブルの足をつかみ、床に崩れ落ちる体をかろうじて支えていた。
誰が見ても病人か怪我人の様相だが、不思議と弱々しくはなかった。ただその手にはきつく力がこもり、耐えるようにきつく閉じられた瞼を汗が伝う。楽な状態ではないらしかった。
飛び出した男がその背をさすり、叫んだ。
「誰か!先生を!医者を頼む!」
周りの漢服の一人が叫び返す。
「今アン先生を呼んでいる!首領を診てもらわねばならん!」
「なにを!こちらは倒れて死にかけているんだぞ!」
「首領も倒れていただろうが!」
「今の話をしてるんだ私は!」
ヒートアップした場に、暗い声が差し込むように響いた。
「何をごちゃごちゃ言ってる。患者はどこだ」
「アン先生!」
病的なほど真っ白な肌とこの世の全てをつまらないと思っていそうな目が特徴的な男が、木戸の外の夜闇からぬっと現れた。先生というより、「死神」とか「吸血鬼」とかの肩書きの方が似合いそうな男だ。あれが「アン先生」らしい。起きてからこっち、情報が増え続けて本当に何も分からん。何がどうなってるんだ。そろそろ泣くぞ。
アン先生は場を見回し、蹲った男の方へ躊躇わずつかつかと歩いて行く。背負ってきていた袋を下ろし、中から何かを捏ねたようなものをいくつか取り出して男に飲ませ始めた。
「お、おい先生!首領を診てくれるって話だったはずだぞ!」
さっき喧嘩していた片方が叫ぶ。
「首領は元気じゃないか。こっちの方が死にそうだ」
「だが!」
劣勢と見た男が加勢を求めるように俺を見る。えっ俺?
「いいんじゃないか。随分苦しそうに見える」
多分この中で一番状況がわかっていないのは多分俺だが、とりあえず当たり障りなく一般論を言っておく。実際かなり辛そうだった。
男は不服そうではあったが、口を閉じる。アン先生は当然とばかりに作業を続けていた。
すると、うずくまっていたあの黒い男が半笑いという感じで口を挟んだ。怖い。
「お気遣いなく。ただの食あたりです。放っておけば治る」
敬語ではあるが、その奥の「うるせえ早くどっかいけ」がありありと伝わる言い方だった。やっぱ俺嫌われてる?
っていうか治るわけあるかよ。汗すごいよ。無理すんな。
「無理はしない方が良い」
全然初めて見た人だしさっきのこともあって若干怖いし状況もよくわかっていないが、それはそれとしてなんとなく放っておけなくて言ってしまった。歳をとってくると若者の無茶に口を出したくなるもんである。
男の目がすっと鋭くなる。なんでこの人倒れてるのにいちいちこんな怖いの?
「無理など」
「喋るな病人」
「ぐっ」
まだ話そうとした男の口にアン先生が容赦なく次の丸薬を詰め込む。眠り薬だったのか、男は脱力したように床に崩れた。寝ててくれ、お前はほんとに。お大事に。
「こいつを養成所へ運ぶ。ソウマン、手伝え。首領の診察はそれからだ」
アン先生が言って、さっき真っ先に飛び出した漢服を見やる。
「先生、その、容体は」
「一旦落ち着いた。養成所で休ませる。早くしろ」
アン先生の言い方は飾り気がないというかぶっきらぼうなものだが、彼はあからさまにほっとしたようだった。良かった良かった。これでひと段落というところなんだろう。
で、ここどこ?
「あ、あのう、それなんですが…」
周りにいた漢服の一人がおずおずといった風に進み出て来た。それから困ったように言う。
「ここは…その、オウリン様が作られました、梁山湖の山寨、聚議庁にございます」
……え?
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「頭蓋骨損傷なし。頸椎、神経ともに損傷なし。意識あり。会話もできる。……ただの打撲だな。つまらん」
アン先生……安道全先生が手慣れた様子で頭や首を触り、心底つまらなそうに言う。舌打ちと溜息すら聞こえてきそうだ。首領ぞ?我、首領ぞ?
「いくらか脳が揺れたかもしれないが、時間経過で治るだろう。今のところは健康体だ。ただ頭の場合後から出血があることもある。何かあればすぐに来るように」
「何か?」
「嘔吐しながら徘徊したり、海老反りになって嘔吐したり」
「結構な何かだな、それは」
「そうなったらすぐに言え」
「治してくれるのか?」
「頭を開いてさっぱり綺麗にしてやる。これでな」
机の横にかけてある大きなノコギリを撫でて楽しそうにくつくつと笑う安先生。俺は何も異常が出ないことを心の底から祈った。
騒ぎが多少落ち着いた聚議庁の一室で、俺は安先生の診察を受けていた。今はひと段落して、安先生が肘をつきながらめんどくさそうに竹紙になにかさらさらと書きつけているのをぼーっと見ながら、いろいろ考えている。議題は勿論、今この状況のことだ。
まず、俺について。さっきは色々慌ただしくて流してしまったが、「オウリン様」とか「首領」っていうのは、多分ほぼ間違いなく俺だ。あんなに多くの人に他人の名前で呼びかけられている状況の方が怖いので、そういうこととする。
次に、この世界について。
「安道全」に「王倫」。そして「梁山湖の山寨」。
これらの符号から一つ、導き出される可能性があった。その他にないといってもいい。馬鹿馬鹿しいという気持ちもあるが、あまりにも合致しすぎている。
そして、色々な疑問を脇に置いておいて。もしもこの二つが正しいとするなら、俺はもう既に7割くらい詰んでいる。と思う。助けてくれ。
「水滸伝」。
中国四大奇書の一角を担う、腐敗した時の政権に反旗を翻した賊徒の世直し物語。そして、世にも珍しい情状酌量の余地とか特にないガチの四奸六賊が勝ってしまった物語でもある。
だが、破滅に向かって、それでも明日をつかみ取ろうと一心不乱に駆け抜ける熱い男たちの姿は多くの読者の心を打ち、希望を与えた。だからこそ水滸伝は今日まで読み継がれてきたのだろう。俺も学生のころ図書館で見つけて大いにはまったものだ。
この水滸伝で賊徒たちの拠点となるのが「梁山泊」。梁山湖という湖に浮かんだ山で、その立地から天然の要塞(山塞)として重宝された。ある意味では今俺がいる場所がここということになる。うん。
ある意味では、なんて煮え切らない言い方になるのには理由がある。これは俺が今王倫なんて呼ばれていることとも関係のある話で、ええと、どこから話したら良いだろうか。胃が痛くなってきた。
まず、水滸伝の話をしよう。序盤、旗揚げして少しずつ勢力を増した賊徒たちが拠点を求める。ただの拠点じゃない。大きくて、食べ物を自給できて、官軍とも戦えるような強い拠点だ。そこで白羽の矢が立ったのがこの梁山湖の山寨だった。喜んでこの山寨に入ろうとするが、不運にも先客がいた。民を襲う山賊たちの根城になっていたのである。そこで山賊の頭領を処断し、山寨を明け渡させることでようやく拠点を手に入れることが出来た。世直し賊徒たちはこれを梁山泊と名付け、同じ志を持った者たちを受け入れると宣言したのである。ざっくりした大筋だけだが、これが序盤の山場になる。
そしてこの処断される山賊の頭領が王倫である。俺だ。終わりだ。
王倫は物語序盤の中ボス枠で、山賊の統領だ。科挙という今でいう公務員試験のようなものに挑み、落ち続けてついにグレ、山賊になった。それでも腐った政府を倒すのだとのちの梁山泊の面々のような世直しを謳っていたのだが、今ではそれもなくなりただの山賊というわけだ。王倫の手下の中には昔の王倫が言っていた世直しの理念に共感して彼の下についた者も多く、そういった者たちは梁山泊に吸収されて本懐を遂げることになる。
処断とかふわっと言ったが、心臓を突かれ、しっかり生首を晒されていた。古代クオリティである。
広間で「首領」と呼ばれていたのもこれだ。なんのことはない、山賊の首領だったわけだ。
ある意味では、というのは、梁山泊という水滸伝という物語の中で重要な役割を果たすあの拠点が王倫の首をもって産声をあげたためである。つまり、王倫が生きているということは、ここはまだ梁山泊ではないのだ。裏を返すと、物語が展開するためには王倫が死んで梁山泊を明け渡される必要がある。
というわけでこのままいくと多分遠からず心臓を貫かれ首を切られて死ぬわけだが、そんな死に方をしたいわけがない。できるだけ畳の上で死にたい。できれば孫とかに看取られたい。
王倫も民を苦しめる山賊だったなら自業自得だろうと思うかもしれない。
確かに水滸伝本編で王倫はわりと悪人だった。武器を持って商人や邑を襲っていた山賊だ。それは確かに許されざる行為だ。だが、それとは別に、今ここにいる俺はそのへんについて本当に一切何も知らんのである。さっき会社を出てきたと思ったらここにいたのだ。無責任ではあるだろうが、身に覚えのない罪をかぶって心臓を突かれて死んでやれるかと言われると、それはまたちょっと難しい。
本当になんなんだこの状態。まあそんなことを言っても仕方がない。いったんこの死に方の回避をとりあえずの行動指針とする。
幸い、まだ希望はある。詰んでない方の3割だ。来る死の詳細を知っていることである。
賊徒の中に林冲という男がいる。
軍の師範をしているものすごい槍の使い手で、同じく槍の名手だった三国志の張飛から取って豹子頭と呼ばれている。本編中では何度も大人数を相手に大立ち回りを演じ、関節を打って脱臼させ戦闘不能にするとか相手をほぼ全員宙に打ち上げるとかわけのわからない勝ち方をしていた。こいつの周りだけ世界観が伝奇モノじゃなくアクション系青年誌だ。
この男が水滸伝で王倫を殺したとされている張本人である。無理ゲーすぎる。
色々と省くが、林冲は王倫が首領を務める山寨に部下として入れて欲しいと入ってきて、機を見て王倫を殺した。勿論そんなやつに正面から勝てるわけないのだが、ここまでわかっていれば十分だ。
つまり、林冲を入れなければいいのである。山寨に入れなければ殺されることもない。この寨の強固さは、それこそ本編で彼らが証明した通りだ。出て行かない、入れない。船も出さない。それがこの山寨の一番効果的な活用方法だ。要するに引き篭もり作戦である。
いくら林冲とて梁山湖を超えてまではその槍も届くまい。豹子頭破れたり!ふはははは!
……いや、わかってはいる。わかってはいるのだ。堂々とかなり情けなくてアンフェアなことを言っている。
林冲たちがこの山寨を欲しがるのは世直しのためであって、私利のためではない。現状けちな山賊であるところの王倫と比べれば道理はあちらにある。
それにこの山寨が俺の知る水滸伝と同じ状況なら、このまま王倫が統治していても先はないのだ。しばらく維持することはできるかもしれないが、遅かれ早かれがたが来る。林冲たちに明け渡した方が未来がある。
ただ、それは同時に俺の死を意味する。
梁山泊がここを手に入れたとして、今まで王倫のもとでこの山寨が山賊まがいのことをやってきているのは事実だ。
これはもう記憶がないとかさっきまで日本にいたんですとかそういう事情は関係がない。けじめの問題だ。そういう風な古い山寨との決別という意味で、王倫の首は絶対に必要になる。
林冲を山寨に入れれば、おそらく俺は死ぬだろう。だが梁山泊は拠点を手に入れ力を蓄えることができるし、きっとその方が山寨のためになる。
反対に入れなければ、俺は生き延びるだろう。しかし梁山泊は拡大できず、大義を失った山寨もきっと緩やかに朽ちていく。
今さっき酒宴で見た人たちの顔がふっと浮かんだ。王倫が昔説いた大義を信じ集まった人たち。
死にたくはない。だが、俺一人の命にそこまでのものをかける意味があるのだろうか。
選ばなければならない。俺か、山寨か。
「…………」
答えはすぐには出なかった。
現実逃避のように頭を振って、まだ何か書き物を続けている安先生に声をかける。
「そういえばあの、倒れていた者は?」
というだけではなく、めちゃくちゃ顔色が悪かったので純粋に心配でもあった。土みたいな色をしてたぞ。なんで普通に喋れてたんだ。死んでたりしないよね?
が、ちらりとこちらを見やった安先生はその目に一瞬冷たい色を浮かべ、それからまた何にも興味のなさそうな目に戻って言った。
「ああ、林冲か。無事に回復しているぞ、残念ながら。あいつの生命力は獣のそれに近い」
「それなら良かっ……」
ん?ん??え???
林冲??????




