第八章 凱旋式
いつ皇帝が帰ってくるかと期待と緊張が高まっていたある日、よろこびを浮かべた伝令がやってきてこう告げた。
「陛下のご帰還です!」
それを聞いたマルムスは、すぐさまにその場にいた官僚達に指示を出す。まず行うべきは凱旋式。その準備をするために街中への知らせを走らせ、官僚や軍事貴族達を凱旋式の舞台である競馬場へと向かわせた。
これから凱旋する皇帝の席を競馬場に整えるのは、プライポシトスであるマルムスと、彼が指揮する宦官と女官だ。
皇帝が通る通路に敷く絨毯や、皇帝の喉を潤すワイン、それにワインの付け合わせであるドライフルーツを用意させる。
ワインとドライフルーツを用意するよう命じた宦官に、マルムスはこう伝える。
「陛下にお出しするドライフルーツは、アスケノス医師の指示に従って揃えるように。
彼ならお疲れの皇帝の身を、もっとも癒やしてくれるものを選べるでしょう」
「かしこまりました」
それから、他のある宦官にはこう伝える。
「帰還した陛下に祝福を与えてくださるよう、ヨハネス神父に連絡を」
「かしこまりました」
続いて、女官達にはこう告げる。
「女官達は陛下をお迎えするために身だしなみを整えてから、宦官達の手助けをするように。しかし、陛下をお迎えするからといって華美に着飾っては決してなりません」
女官達は一礼をしてマルムスに了承の意を伝える。
こうして、凱旋式の準備は進められていった。
「やることが……やることが多い……!」
競馬場で皇帝を迎える官僚や軍事貴族に振る舞うワインをなぜか運ばされているサラディンが、せわしなくしながらマルムスの隣を歩く。マルムスも、皇帝のためのワインを数本抱えている。
「ほんとうに忙しいのはこれからですよ。
凱旋式は前哨戦みたいなものです」
マルムスがそういうと、サラディンは顔をげっそりさせてつぶやく。
「勘弁してくれ……」
そんなサラディンに、マルムスはふと訊ねる。
「ところで、どうしてあなたがそれを運んでいるのですか?
官僚のワインを運ぶのは女官と宦官の仕事でしょう」
「わからん。そこにいたからという理由で手伝わされてる」
腑に落ちないといったようすのサラディンに同情しながらマルムスがいう。
「まぁ、事故みたいなものですよね……
事故は起こるものです」
「まあ、なんにせよ俺も凱旋式に出ないわけにはいかないからアレなんだけどさ」
そう話しながら競馬場の内部の通路を歩き、途中の分かれ道でマルムスとサラディンは二手に分かれる。マルムスが向かう先は、皇帝のための席だ。
皇帝のために用意された席からは、競馬場全体が見渡せる。廊下から出たマルムスの眼前には、競馬場にひしめく官僚と軍事貴族と、それを遙かに上回る人数の市民の姿が広がっていた。
控えていた宦官にワインを渡し、杯が準備されているかを確認する。競馬場の地上階からこの席まで続く階段に敷かれた絨毯も確認する。毛足の長い深紅の絨毯は、汚れひとつついていない。
そうしているうちに、遠くに見える城門が開くのが見えた。方々からラッパの音が鳴り響く。皇帝の帰還だ。
城門から、馬に乗り全軍を率いた皇帝が競馬場に向かってくる。この距離では表情はわからないけれども、赤いマントを堂々と翻している。
軍を率いて皇帝が競馬場に入る。民衆の歓声が空気を裂いた。
競馬場に入った皇帝は、兵士達を競馬場地上階に並ばせ、赤い絨毯が敷かれた階段をゆっくりと上ってくる。マルムスがその姿を注視していると、皇帝もマルムスのことを見る。長い髪にたっぷりと伸ばした髭。それらに縁取られた表情は厳しくも凜々しい。マルムスが見慣れている顔だ。
マルムスの待つ席まで来た皇帝は、民衆達がいる観客席に向き直り、右手を挙げる。すると、先ほどまでの歓声が嘘のように静まりかえった。
皇帝が良く通る声で一言だけ言う。
「今帰った」
民衆はなにも言わない。けれども、民衆の間に感動とも崇拝ともつかない感情が波打っているのは皇帝の側から見ているマルムスにも手に取るようにわかった。
民衆の方を向いて立っている皇帝にマルムスが声をかける。
「陛下、こちらへ」
皇帝は頷いて、マルムスが指し示す席にどっかりと座る。それを確認したマルムスは、用意されていた杯にワインを注いで皇帝に差し出した。
「長くなるのか?」
皇帝がマルムスに訊ねる。おそらく凱旋式のことだろう。マルムスは淡々と答える。
「なるべく手短に済ませるよう通達はしてあります」
「そうか」
マルムスの言葉に、皇帝はなにも期待していないような口調で返す。それもそうだろう。マルムスの通達通り、官僚達が凱旋式を手短に済ませるはずなどないのだから。
マルムスが差し出した杯を皇帝が手に取り、口をつける。そこにすかさず、マルムスは宦官に用意させておいたドライフルーツを差し出す。それを見て皇帝がマルムスの方を見てにやりと笑う。
「アスケノスだな?」
「お察しの通りです」
案の定、皇帝はドライフルーツを選んだのがアスケノスだということをすぐに見抜いた。疲れを癒やすのに最も最適だと皇帝が思ったものを的確に選び出せていたのだろう。そして、そこまで優秀な医者はアスケノスの他にいないと皇帝は確信している。
皇帝がワインとドライフルーツに少しずつ口をつけている間、官僚達が皇帝の戦果を褒め称える言葉を長々と話している。そして時々、皇帝に捧げる称号のようなものも口にする。森を動かす偉大なる軍人、偉大なる栄光を与えられた皇帝、世界帝国を統べる方。そんなものだ。
それを皇帝は、うんざりした顔で聞いている。
「頌詞はいつまで続くんだ?」
「おそらく、彼らが満足するまで」
皇帝の問いにマルムスがため息交じりにそう答えると、皇帝もため息をついた。
皇帝とマルムスにとって退屈な時間がどれだけ続いただろうか、ようやく官僚達の言葉が終わった。
それを確認した皇帝は、持っていた杯をマルムスに渡し、兵士達に号令をかける。
「皆のもの、戦利品を!」
その言葉に、兵士達は短い返事を一斉に返し、競馬場の中にたくさんの品物と、戦地で切り倒したのであろう木を運び込んだ。
それを見て皇帝はこう続ける。
「戦利品は我が帝国の財産とする。
ただし、そのなかでも敵地より得た木のうち半分を民衆に下す」
その言葉に、静まりかえっていた民衆が歓声を上げる。一方で、官僚や軍事貴族の一部が不満そうにしているのをマルムスは見逃さなかった。
民衆が満足するまで歓声を上げたあと、宦官に促されてある人物が先ほど皇帝がのぼってきた階段に足をかけた。ヨハネス神父だ。
階段を上りきったヨハネス神父は、跪いた皇帝の頭に手を当て、祝福の言葉をかける。皇帝は指を組んでうつむき、じっと聞いている。
その姿を見て、皇帝が凱旋式に求めているのはこの祝福だけなのだろうなと、マルムスは思った。
凱旋式が終わったあと、皇帝に付き従って私室まで来たマルムスは、皇帝にこうねぎらわれた。
「私が留守にしている間、よくぞ宮廷を取り持った。これからも宮廷のことに目を光らせるように」
「御意」
皇帝の帰還を待ちわびてはいたけれど、いざ目の前にいると緊張する。そんなマルムスに皇帝がこう訊ねた。
「もしお前が私を褒め称えるなら、どんな称号をつけるか」
その問いに、マルムスはきょとんとして反射的に答える。
「ブルガリア人殺し?」
それからぱっと口を押さえる。全然褒め言葉ではないことに気づいたのだ。
そんなマルムスの言葉に皇帝は笑い声を上げる。
「お前はほんとうに、飾れないやつだな。
だが、だからこそ信頼できる」
なぜか満足そうな皇帝を見て、マルムスは複雑な思いを抱く。
きっと、皇帝の周りには美辞麗句ばかりを口にする、信頼できない者が多いのだろう。
皇帝にはどれだけ信じられる人がいるのかと考えると、胸が苦しくなった。