第七章 女官の踊り
皇帝の凱旋を控えたある日のこと、マルムスは後宮の庭を訪れた。皇帝を出迎えるのにふさわしいよう、きちんと手入れされているかを確認するためだ。
とはいえ、この確認はあくまでも念のためだ。この庭の世話を任されているのは、マルムスの食事の給仕もやっているドラコーネーという女官で、任された仕事をおろそかにするということがない、信頼できる人だ。
そして庭を見てみると、相変わらずきれいに手入れされている。目を楽しませるために植えられている木々や花々も、アスケノス達医者が使うために植えられている薬草やハーブ類も、手抜かりなく整えられている。
「ああ、やはりドラコーネーの仕事は信頼できますね」
安心してそうつぶやいたマルムスは、せっかくだから女官達の様子も少し見てみようと庭のなかをぶらつく。
すると、異様なものが目に入った。地面に突っ伏している女官と、その側でおろおろしている女官がいるのだ。
思わず駆け寄る。
「ドラコーネー、マリヤはどうしてしまったのですか?」
地面に突っ伏しているマリヤの側で困惑しているドラコーネーにそう訊ねると、こう返ってきた。
「実は、凱旋の宴の時に披露する踊りを練習していたのですが……」
歯切れ悪くそういうドラコーネーに続き、マリヤがうめきながらマルムスに言う。
「無理……限界……マルムス様が代わりにやって……」
「どういうことですか?」
踊りの練習でここまで疲労困憊になるとはどういうことだろう。マリヤの言葉にマルムスは疑問に思う。
たしかサラディンの話では、ゆったりとしていて地味な踊りとのことだった。だから、息が切れるほど激しい動きなどないと思っていたのだ。
「踊りの練習で全身が痛いんです……無理無理限界」
めそめそとそう言うマリヤをなんとか助け起こしてから、マルムスはドラコーネーに声をかける。
「いったいどんな踊りなのですか?
そんなに激しい踊りだとは聞いていないのですが」
確認するようなマルムスの言葉に、ドラコーネーは軽く返事をして踊り出す。
それは、腕や脚ををゆっくりと上げたり下げたり広げたりする、少し男性的なものだった。たしかに一見地味な踊りだ。
なるほど、こういう踊りなら皇帝も満足するだろうと納得する。
そうしていると、おぼつかないようすで立っているマリヤがマルムスに泣きつく。
「この踊りを陛下の前で披露することになっているのに、私には練習すらついていけないんです」
「そんなにつらい動きでしょうか?」
いまいちあの踊りのたいへんさがわからないマルムスがきょとんとしていると、マリヤはなおも泣きつく。
「だから練習がしんどくて全身痛いんですって!
でも、いまさらやらないわけにはいかないから、マルムス様代わって! おねがい! 兄さんに免じて!」
皇帝の前で披露できないことを本気で危惧しているのだろう。だいぶ取り乱した様子のマリヤをなんとか落ち着かせる。
「とりあえず落ち着いてください。サラディンに免じなくても、陛下のためなら私も尽力しましょう。
男がやることかとは思いますが、私は宦官だからギリギリ許されるでしょう」
「ありがとうございますぅ……ぴえん」
ほんとうはマリヤ自身が皇帝に披露したかったのだろう、残念そうな顔をしつつも、マルムスの言葉を聞いたマリヤはこれ以外にどうしようもないといった様子だ。
ふらふらになっているマリヤをいったん地面に座らせ、マルムスはドラコーネーに向き直って訊ねる。
「ところで、はじめて見る踊りですが、なんという踊りなのでしょうか」
その問いに、ドラコーネーは流暢にギリシャ語で答える。
「ΣΕΙΓΑΙΠΑ」
「え? なんですか?」
上手く聞き取れなかったマルムスがもう一度訊ねると、ドラコーネーはまた流暢に答える。
「ΣΕΙΓΑΙΠΑ」
知らないギリシャ語は呪文に聞こえる。
元々マルムスはギリシャ語が少々不自由なこともあり、ドラコーネー相手に限らず、こういったことはしばしばあるのだけれども、ここまで意味がわからないギリシャ語ははじめて聞いた。
そして、ドラコーネーもこの踊りの名をマルムスにもわかるラテン語でどう言えばいいのかがわからないのだろう、困ったように笑っている。
ドラコーネーが胸に手を当ててマルムスに言う。
「そういうわけで、マリヤが根を上げたのでマルムス様に踊りの相方を務めて頂くということでいいですね?」
「はい、不慣れなことですが尽力します」
「では、早速少し練習してみましょうか」
マルムスが了承の意を伝えると、ドラコーネーは早速マルムスに踊りの振り付けを教えはじめる。
ほんとうは、マルムスには現在残している職務があるのだけれども、踊り手を引き受けたからには職務の合間を縫って練習をしなければならないことに変わりはない。それなら、早めに概要だけでもつかんだ方がいいだろうと、ドラコーネーに教えられるままに体を動かす。
「このように腕を上げて……あ、それだと早すぎます。私とペースを合わせて、同じ動きをしてください」
ドラコーネーの指示に従いながら、マルムスは一通り通して名のわからない踊りを踊る。
そして、実際に踊ってみてマリヤが根を上げた理由がわかった。ゆっくり動いているから簡単に見えるけれども、ゆっくりとした動きを保つために、腕だの脚だのの筋肉をやたらと酷使するのだ。
一通り踊り終えたマルムスは、息を切らせながら言う。
「なるほど……これはたしかに、並の女官には無理ですね」
「でしょー?」
地面に座ってマルムスが踊る様を見ていたマリヤが、おわかりになりましたか。という顔をする。
ふと、マルムスが疑問に思ったことをドラコーネーに訊ねる。
「そういえば、この踊りはふたり組で踊るとのことですが」
「そうです」
「ふたりとも隣り合って同じ動きをするのに、なぜふたり必要なのですか?」
そう、このゆっくりとした踊りは、ふたり組なのに振り付けの違いの妙というものがないのだ。
マルムスの疑問に、ドラコーネーもふしぎそうな顔をしてこう答える。
「それは私も疑問なんです。
でも、この踊りはふたり組で踊るものだと教わったので、その形式を崩して正式でないものを陛下に披露するわけにはいかないとも思うんです」
「なるほど?」
理由はドラコーネーも知らないのかと思いながらも、彼女の言うとおり、正式な形でないものを皇帝の前で披露するわけにはいかないのももっともだ。
「わかりました。では、ふたり組である意義については置いておいて、練習しましょうか」
「はい!」
それからしばし、マルムスはドラコーネーの指導を受けながらゆったりとした踊りの練習をする。
練習をしている間、腕や脚が度々震えた。
そう。この踊りは宦官とはいえ男であるマルムスでさえ踊るのが筋力的に難しい。だから並の女官に踊りこなせというのは無理な話だ。
では、なぜドラコーネーは平気な顔で踊ることができるのか。そのことも疑問に思ったけれども、体を支えるので精一杯だ。マルムスは考えるのをやめた。
踊りの練習のあと仕事に戻り、浮かれる官僚や軍事貴族、それに新たに就任した元老院と凱旋の宴の調整をして、マルムスは疲れ切っていた。
いつも通りにドラコーネーが運んできた夕食を食べて、すぐに泥のように眠る。
そして翌日、マルムスは自分の体の異変に気づいた。
「ひえ……全身痛い……」
あの踊りの練習が原因なのか、その後の激務が原因なのかはわからないけれども、全身の筋肉がじわじわと痛むのだ。それでも仕事のために起きなくてはいけない。
仕事着に着替えて朝食を待つマルムスは、皇帝が帰ってくるまでに仕事をこなしつつ、あの踊りを踊れるようになるのかどうか不安に思った。