第五章 啓典の民
「今週もおつかれさまー!」
日曜礼拝のあと、マルムスはサラディンとアスケノスに声をかけて街の酒場で一杯やっていた。
礼拝の時に聖餅とワインをもらいはするけれども、それでもこの時間になればおなかは空く。なので、こうやって友人達と一緒に馴染みの酒場で一杯やりながらおやつを食べることも多い。
ワインを飲みながら乾燥させたナツメヤシをかじる。甘くてコクのある実は、少しねっとりしている。
「そういえば、いま元老院が全員代理になってるけどなにがあったんだ?」
ふしぎそうにそう訊ねてきたサラディンに、マルムスは渋い顔をして返す。
「元老院の方々が、なにやらこそこそと夜中に集まっているところに雷が落ちたんですよね」
「元老院総辞職雷光マジか」
「陛下が都にいらっしゃっていれば、元老院を世襲になんてさせなかったのに……」
せっかくのチャンスをふいにしたと言わんばかりのマルムスに、アスケノスが珍しくため息をついて言う。
「前の元老院はたしかに面倒でしたけれど、それは理不尽に死んでいい理由にはなりません。
手の施しようがなかったのは事実ですが」
おそらく、焼け崩れた家屋から運び出された元老院の顔ぶれのうち何人かを看取ったのだろう。理不尽に死んでいい理由などないというのはあまりにも医者らしい言葉だし、それを聞いたマルムスは思わず自分の言葉を恥じた。
ふと、鐘の音が鳴り響いた。普段聞き慣れている教会の鐘のメロディーではない。
アスケノスが周りを見渡しながらつぶやく。
「今日はユダヤかムスリムも礼拝ですかね?」
誰ともなしに訊ねるようなつぶやきにサラディンが返す。
「ああ、これはシナゴーグの鐘の音だよ」
「シナゴーグということは、ユダヤとムスリム、どちらの礼拝ですか?」
異教徒のことには疎いマルムスが訊ねると、サラディンはワインをひとくち飲んでから答える。
「ユダヤの礼拝は昨夜だし、ムスリムの大きな礼拝は金曜だ。だから、これは時を告げる鐘か、もしくは誰かの葬儀だろう。
ユダヤのね」
それを聞いて、マルムスとアスケノスは目をまるくする。
「ずいぶんと異教徒のことについて詳しいのですね」
マルムスがそう言うと、アスケノスも続けて口を開く。
「ほんとですよ。もしかしてサラディンは、モリスコかコンベルソなんですか?」
すると、なにかがおかしかったらしく、サラディンは笑いながらアスケノスの言葉を否定する。
「いや、おれは生まれつきキリスト者だよ」
イスラムから改宗したモリスコでも、ユダヤから改宗したコンベルソでもないというのなら、どうしてサラディンは異教のことに詳しいのだろう。思わずきょとんとしたマルムスが首をかしげると、サラディンは肩をすくめてこう続けた。
「ただ、父さんがモリスコで、母さんがコンベルソなんだ」
「ああ、なるほど」
そういうことかと納得したマルムスだけれども、周りを伺って声を低めてこう言う。
「けれど、あまり異教の話を聞くのは褒められたことではないですよ」
忠告とも取れるその言葉に、サラディンは困ったように笑う。
「いや、父さんも母さんも、イスラムやユダヤの話はほとんどしないよ」
「そうなのですか? それならいいのですが」
「でも、根っこに染みついたもんは消えないんだよな」
根っこに染みついたものというのはなんなのか。マルムスにはいまいちわからない。
一方のアスケノスはぽんと手を叩いて思いだしたように言う。
「そういえば以前誰かから、法律を扱わせるのにモリスコは向いていると聞きました」
これはマルムスにとって初耳だ。
「どうしてですか?」
素朴な疑問を投げかけると、アスケノスはこう答える。
「ムスリムは律法主義が行き届いているので、そのイスラムから改宗したモリスコは、法律を破ることが少ないと言われているんです」
「へぇ、なるほど」
これもまた初耳なので、マルムスは感心したようにサラディンを見て頷く。言われてみれば、サラディンがこの国の法に触れるようなことをしたことは一度もないのだ。
なぜ皇帝が、どちらかと言えば砕けた態度でいることが多いサラディンを法務の役職に就けたのか疑問だったけれども、謎はすべて解けた。
そして、それと同時に今までほんのりと感じていた違和感についても原因がわかった。
「なんか、サラディンって風変わりな名前だと思っていましたけれど、モリスコとコンベルソの子だからだったんですね」
納得したようにマルムスがそう言うと、サラディンが自慢げに言う。
「そうだぞ。俺の名前は父方のじいさんから取ったんだ」
「なんか、窮地に立たされていても十字軍を追い返しそうな名前ですよね」
ナツメヤシを頬張りながらアスケノスがそう言うと、サラディンはおどけてこう返す。
「俺は戦地には行きたくなーい」
「都からの後方支援、よろしくお願いします!」
自分も戦地には行けない自覚があるからか、アスケノスもおどけて笑う。
マルムスもつられて笑ってから、サラディンにまた訊ねる。
「妹のマリヤは、誰から名前をもらったんですか?」
「ああ、マリヤは母方のばあさんだよ」
「名前の付け方は完全にローマ式……!」
サラディンの答えに、サラディンの両親はよくここまでローマになじめたものだなとマルムスは感心する。
ふと、背後に気配を感じた。
「異教徒といえども、悔い改めれば救われます」
突然聞こえた、聞き慣れた落ち着いた声に振り返ると、そこには先ほどの礼拝で一緒に祈りをあげていた神父様がいた。見上げるほど大柄な神父様のことを、ほんとうに見上げながらマルムスが訊ねる。
「あの、アンドロニコス神父、どうしてここへ?」
アンドロニコス神父はとにかく大きいので、側に立たれるだけで威圧感がある。けれども、顔にはその威圧感が和らぐような穏やかな笑みを浮かべている。
「私も、少々おやつを食べに来ました」
それを聞いたサラディンが、少し気まずそうにしながら口を開く。
「あー、あの、神父様って教会にこもってるもんじゃないんですか?」
その問いに、アンドロニコス神父はにこにこと笑って答える。
「これから、ヨハネス神父と救貧院の様子を見に行くんです。きっと長丁場になると思うので、腹ごしらえをしようと思いました」
アンドロニコス神父から視線を外しつつ、サラディンがつぶやく。
「神父様でもおなか空くんだ……」
「そらそうよ」
なにを言っているんだとばかりにワインを飲んでアスケノスが言う。
テーブルの上に乗っているナツメヤシを、アンドロニコス神父がじっと見ている。それに気づいているのかいないのか、サラディンは落ち着かないようすだ。もしかしたら、両親がモリスコとコンベルソだという話を聞かれたのが気まずいのかもしれない。
この空気をどうやって変えればいいのだろう。マルムスがそう悩んでいると、アスケノスがナツメヤシを一粒つまんでアンドロニコス神父に差し出す。
「よかったら一粒どうぞ」
「よろしいのですか? ありがとうございます。催促しているように見えたらすいません」
「無言で催促はしてますよねー?」
ナツメヤシを受け取って口に入れるアンドロニコス神父にアスケノスが笑ってみせて、やっとサラディンの緊張はほぐれたようだ。
そのとき、アンドロニコス神父の背後から手が伸びてきて、襟首をつかんだ。
「こんなところで道草食ってなにやってんの! ほら行くよ!」
「あ、待ってください兄さん。もうひとくち……」
「信徒にたかるんじゃないよこの子は!」
アンドロニコス神父が兄と呼んだ人物は、比較するとだいぶ背が低い。けれども、アンドロニコス神父に活を入れてそのまま引きずって行ってしまった。
そのようすを見ていたマルムスがつぶやく。
「ヨハネス神父、相変わらずたいへんそうですね」
「ふしぎちゃんな弟がいるとなー」
嵐のように去って行った神父兄弟のあとを見送って、三人はまたおやつに手をつけた。