第四十九章 輝かしい日々よ、ありがとう
せわしない宮廷内でひととおり疫病に対する対策の指示を出し終え、情報収集も進んだ頃。皇帝が改めてマルムス、サラディン、アスケノスの三人を執務室に呼んだ。
そろそろ遠征に戻る準備でもはじめるのかと心構えをしていると、皇帝は人払いをするようにと言う。
なにか謀の相談か。そう思ったマルムスは、すぐさまに執務室の前から人払いをする。もっとも、そんなことをせずとも、宮廷内の人々はみな忙しく、用事もなく執務室の前に留まっている余裕はないのだけれど。
重いドアをしっかりと閉め、マルムスたちは皇帝に向き直る。窓から差している光は、皇帝の顔に深い陰を作っていた。
ドラコーネーの死を聞いてから、わずか一日でこんなにやつれるなんて。マルムスは息が詰まるような思いだ。いや、皇帝の身体自体は少しもやつれていないのかもしれない。ただ、こんなにも陰を落とすほど大きな悲しみを、皇帝は抱えているのだ。
執務室の中に沈黙が降りる。誰もなにも言わない時間は、永遠に続くかと思った。
沈黙を破ったのは皇帝だ。
「お前たちに折り入って頼みがある」
これは政務でも謀でもない。そう直感したマルムスが慎重に訊ねる。
「どのようなことでしょうか」
静かな執務室で、小さな声で交わされるやりとり。その中で皇帝はこう言った。
「ドラコーネーのために、頌詞を作ってくれ」
皇帝がドラコーネーの頌詞を求める気持ちはわかる。しかし、マルムスとしては素直にそれに従うことはできない。ドラコーネーが頌詞を受けるにふさわしい立場であると、回りを納得させきれていないからだ。
だから、返事の代わりにこう訊ねた。
「それは、公的なものですか?」
その問いに、皇帝は公的な頌詞をドラコーネーに送れるだけの準備ができていないことを察したようだ。今にも消えそうな声でこう答える。
「……公的なものではない」
ドラコーネーの形見はなにひとつとして残っていない。それならせめて、ドラコーネーへの頌詞を皇帝のために作りたいけれど、それは許されない。マルムスはひどく歯がゆい思いをしながらこう提案する。
「でしたら、諱を送るだけにした方がよろしいでしょう。
ドラコーネーは陛下にふさわしく、華美と奢侈を好まない女でしたから」
皇帝は落胆したように深くため息をつき、両手で顔を覆う。それからゆっくりと両手を離し、まっすぐにマルムスたちを見て口を開く。
「ドラコーネーにもっともふさわしいと思う諱を述べよ」
その一言に、マルムス、サラディン、アスケノスは一礼をして即座に頭を働かせる。
真っ先に諱を口にしたのはアスケノスだ。
「命のための草木を統べる者。レバンタの女主人」
これは、怪我人や病人のために育てているハーブや薬草を世話していたことを指しているのだろう。たしかに、今でもレバンタの世話をしているドラコーネーの姿がまぶたの裏に浮かぶ。
皇帝はじっとその諱を聞いてから、重々しく頷く。
次に諱を口にしたのはサラディンだ。
「恵まれた方。アフトクラティラにふさわしい人」
これは、皇帝の寵愛を受けていたことを指しているのだろう。皇帝の寵愛を受けながらも鼻にかけることもなく、横暴に振る舞うこともなく、ただ粛々と自らの務めを果たしていた姿は、たしかにアフトクラティラにふさわしいものだった。
皇帝はその諱を聞いてから、また重々しく頷く。
アスケノスとサラディンが述べた諱は、たしかにドラコーネーの姿を写したものだ。きっと皇帝もそのことに異論はないだろう。
けれども皇帝は慰められたようすもなくうつむき、ただ黙っている。
最後に、マルムスが諱を口にする番だ。どのような諱を送るべきかを必死に考える。けれども、マルムスは宦官らしくもなくこういったものを考えるのが苦手だ。どうやってドラコーネーの姿を言葉に写し取ればいいのかがわからない。
良い諱が思い浮かばずマルムスが黙っていると、皇帝がかすかに顔を上げ、暗い目でマルムスを見る。
「お前が送る諱はなんだ」
皇帝の力のない言葉に心臓が絞られる心地だ。マルムスは考えて、考えて、考えて、なんとかドラコーネーにふさわしい諱を探し当てる。
深く息を吸ったマルムスが口にしたのは。
「勇猛なる戦士」
女としてではなくラケダイモンとして、女官ではなく戦士として、最も誉れとなるであろう言葉だ。
ドラコーネーは戦ったのだ。不届き者からゾエを守っただけでなく、痘瘡やペストという疫病から人々を守るために、精一杯戦ったのだ。だから、戦士としての誉れを受けて当然だった。
マルムスが口にした諱を聞いて、皇帝の目から涙がこぼれた。流れる涙をそのままに、皇帝が震える声でつぶやく。
「運命は、勇敢で勇猛な戦士を連れて行ってしまった」
嗚咽をこぼして泣く皇帝に、アスケノスが目を合わせず、静かな声で言う。
「アフトクラティラになるよりも、戦士でいさせようとした神の意志でしょう」
その言葉に、皇帝は呆然と言う。
「神は、ドラコーネーにアフトクラティラよりもラケダイモンであれと命じたのか……」
そこで一息ついて、皇帝がため息と共に言葉を吐き出す。
「ドラコーネーが戦士のまま死んだのは、摂理だったのか」
窓から差す日が傾く。皇帝の顔がなおのこと陰る。皇帝が手を握りしめて、声を絞り出す。
「アフトクラティラにされなかったドラコーネーの名を、石碑に刻むことはできない。
けれどもせめて、私の手記の中にその名を残そう」
それから、レバンタの女主人、アフトクラティラにふさわしい人、勇猛なる戦士。とつぶやいて、皇帝はようやく涙を拭う。
そしてマルムスたちにこう告げた。
「私はまた遠征に戻る準備をする。
都の再建はマルムスとサラディンに任せる。アスケノスはケセノンに目を光らせるように」
「かしこまりました」
三人は声を揃えて返事をし、一礼をする。それを確認した皇帝は重々しく頷く。マルムスが見る限りでは、少しだけ目に生気が戻ったようだ。
けれども、まだ心の整理はつかないのだろう。皇帝がマルムスたちに言う。
「すこし、ひとりになりたい」
マルムスたちは一礼をして、皇帝の前から下がった。
執務室から出たマルムスたちは、執務室から少し離れた廊下に控えている。いつ呼び出されてもいいようにというのもあるけれど、まだ皇帝から目を離してはいけない気がしたからだ。
宮廷の中を、官僚や女官、それに宦官がせわしなく行き交う。それらの邪魔にならないよう、壁の柱と柱の間に身を引いたマルムスたち。
ふと、サラディンがこうつぶやいた。
「そういえば、陛下とドラコーネーが出会ったのは、摂理なんだろうか。それとも運命なんだろうか」
これは皇帝も思い悩んでいることだろう。皇帝自身が悩んでいることの答えをサラディンが知るはずもない。
けれども、アスケノスはこう答えた。
「僕にとっては、運命でしたよ」
たしかにそうだろう。ドラコーネーと皇帝が出会わなければ、アスケノスはドラコーネーに思いを告げられたかもしれないのだ。
たとえ思いが実らなかったとしても、なにも伝えることができないまま失ってしまうよりははるかにましだ。
静かにうつむいているアスケノスの頭を、サラディンが両手でわしわしと撫でる。すると、アスケノスの口から嗚咽が漏れた。
ドラコーネーを海に捨てたあの時から、一度も泣いていなかったアスケノスがようやく泣けた。ドラコーネーを失った実感をやっと受け止められたのだろう。
ドラコーネーと皇帝が会ったのは運命だった。アスケノスにとってはそうだけれども、マルムスは摂理だったと思っている。
これはアスケノスはもちろん、皇帝にも言えないけれども、ドラコーネーはたしかに、勝利と栄光しかなかった皇帝に、人としての輝かしい日々を与えたのだ。これを摂理と言わずに運命とすることはできない。
ただ、輝かしい日々をしまう術が見つからないだけなのだ。今はまだ。
ドラコーネーはきっと、歴史に残らない。
輝かしい日々の記録も残らない。
けれどもマルムスが生きている間だけでも、ドラコーネーの姿と輝かしい日々を記憶に残そうと、そう心に誓った。




