第四十八章 消えた面影
都に疫病が流行りはじめてからしばらく。伝令からの知らせを受けた皇帝が小部隊を連れて帰還した。遠征は続行中だ。戦の指揮は将軍に任せ、都のようすを見るために一時的に戻ってきた形だ。
マルムス以下官僚たちと、医者であるアスケノスの報告を聞いた皇帝は、疫病に関する救済策を官僚たちに命じていく。遠征中にもかかわらず、かなりの予算を割いている。
ひとしきり官僚たちに指示を出し終わった皇帝は、執務室でマルムスとふたりになる。いつも通りの光景なのに、ひりつくような緊張感がある。
皇帝がマルムスに訊ねる。
「各地のケセノンのようすはどうだ」
マルムスは資料を見るまでもなく明白な事実を返す。
「どこもいっぱいになっています。
死者が出次第葬っても、すぐに新患が入る状態ですので」
その言葉に、皇帝はいかめしい表情でまた訊ねる。
「死者の埋葬は間に合っているのか」
「当然、間に合っておりません。
ひとりずつ埋葬するのでは人手も土地も足りません。ですので、大きな穴を掘ってその中に死者を葬っています」
皇帝が眉をひそめる。
「それは誰の判断だ。教会か?」
「教会と医者たちで話し合った結果、そのように判断されました」
「……そうか」
マルムスの返答に、皇帝は納得しかねるようだ。しかし、今までに聞いた報告から、ひとりずつ埋葬するのは不可能だというのは理解せざるを得なかったようで、それ以上なにも言わない。
口をつぐんでしまった皇帝に、マルムスはさらに報告を続ける。
「しかし、病に冒されていない者はあらかた都から逃げ出しております。医者と教会がとりまとめている日々の死者数の数字も減ってきていることから、疫病はおさまりつつあるというのがアスケノスの見解です」
おさまりつつあると聞いても、皇帝はいかめしい顔をしたままだ。
「おさまりつつある原因はわかるか」
「……ほぼ死に尽くしたということです」
マルムスの言葉に、皇帝はため息をつく。
「これが、死すべき人の子に対する神からの試練か……」
苦々しくつぶやいてから、皇帝はしばし黙り込み、強い口調でこう言った。
「今回の遠征の戦利品は、大半を民衆に分け与えよう」
その言葉に、マルムスは疫病の救済策を他にも講じるのかと思う。しかし、皇帝はこう続けた。
「これを口実に、疫病がおさまったあと、都の外に逃げた無事な民が戻ってくるように手を打つように」
「かしこまりました。
そのように伝えてまいります」
なるほど、これは救済策というよりは経済対策かと心得たマルムスは、一礼をしてから早速執務室を出る。向かう先はサラディンの元だ。
皇帝から言いつかった仕事と疫病への恐れで騒然としている宮廷内を進み、サラディンがいる仕事部屋のドアを叩く。
「失礼します。陛下から伝言です」
これは法務の者全員への言葉なので、部屋に入るなりマルムスはその部屋の全員に皇帝の言葉を伝える。
「そうはおっしゃっても……」
「この疫病はいつおさまるのか……」
不安の声が所々から聞こえてくる。そんな中、サラディンがそっとマルムスの側に来てこう訊ねる。
「マルムス、ドラコーネーのことは陛下に伝えたか?」
その言葉に、マルムスは黙って頭を横に振る。どう伝えればいいかわからないままにいるのだ。
そこに、市井の死者数の推移を伝えに来ていたのであろうアスケノスも顔を出してマルムスに言う。
「ドラコーネーのことは僕から陛下に伝えます。とはいえ、僕ひとりで行くのも不審でしょう。マルムスの用件が終わったのなら、このまま陛下の元へ行きたいのですが」
アスケノスの申し出に、マルムスは一瞬息を飲んでから返す。
「わかりました、お願いします。
では行きましょう」
仕事部屋を出て、マルムスとアスケノスは皇帝の執務室に向かう。足取りが重い。ドラコーネーの最期を知ったら、皇帝はどうなるのか、全く想像ができない。いつも通り堂々としたままその死を悼むのか、それとも取り乱すのか。どちらの姿も思い浮かばなかった。
皇帝の執務室に戻り、ドアを叩く。
「ただいま戻りました」
「そうか、入れ」
いささか沈んだ口調の皇帝の返事を聞いて、マルムスは部屋の中に入り一礼する。アスケノスも同様にした。
皇帝がアスケノスを見て眉をひそめる。
「なぜアスケノスがいる。疫病の報告か?」
その言葉にマルムスはうまく返せない。そうしているうちに、アスケノスが言葉を返す。
「疫病の報告と言えば、そのとおりです。
陛下の耳に入れねばならぬことが不在中に起こりました」
背筋を伸ばし、凜とした声でアスケノスがこう告げる。
「陛下が都を開けている間に、ドラコーネーがペストにかかりました。それを受け、彼女は自らを海に捨てるよう、僕たちに望みました。ドラコーネーは今、ボスポラス海峡の水底にいます」
皇帝の顔が絶望に染まる。手を固く握りしめ、深く息を吸ってから怒りが滲む表情で言葉を吐き出す。
「捨てたのか。ドラコーネーを、海に」
威圧するような声にもひるまず、アスケノスは涼しい顔で返す。
「はい。陛下から賜った盾と共に」
震える手で顔を覆い、皇帝が絞り出すように訊ねる。
「ドラコーネーの形見は、なにかないのか」
そういえば。とマルムスもはっとする。ドラコーネーの部屋の処理をしたのはアスケノスだ。なにか持っているかもしれない。
しかしアスケノスは、そのわずかな希望も否定する。
「ありません。病が広がらないようにするため、ドラコーネーの部屋にあったものはすべて焼きました。陛下から賜った葦ペンも、イリアスも、全部」
まるで、ドラコーネーという女はこの世にいなかったかのようだ。マルムスはそう思った。しかし、それはしかたがないのかもしれない。この処置は宮廷内でペストにかかった者の部屋全部に施されている。存在を消された者は、ドラコーネーひとりではないのだ。
皇帝がうめくように言葉を吐き出す。
「……しばらくひとりにしてくれ……」
懇願するようなつぶやきに、マルムスとアスケノスは一礼をして執務室を出る。それから、ふたりは医務室へと向かった。マルムスとしても市井の死者数の推移を把握しておきたいのだ。
医務室に向かう途中、ミカエルのことを見かけた。マルムスはミカエルに声をかける。
「少しいいですか?」
「はい、なんでしょう?」
相変わらずのんびりしているミカエルに、マルムスは手短に用件を話す。
「陛下が今、執務室にひとりでいらっしゃいます。ひとりになりたいとのことでしたので、少し離れた場所から、不届き者のことを警戒しておいてください」
「あいあいさー」
普段なら皇帝の元に不届き者が現れても、皇帝ひとりでなんとかできる。だが今はあの状態だ。もしもの時に備えておくに越したことはない。ミカエルならマルムスよりも腕が立つし、いざというとき頼りになるだろうとマルムスは判断した。
医務室に入り、マルムスがぽつりとつぶやく。
「さすがの陛下も堪えているようですね……
アスケノス、もう少しやんわり伝えられなかったのですか?」
疲れた顔でマルムスがそう言うと、アスケノスは無表情のままこう答える。
「どう言い繕おうと事実は変わりません。
それなら、率直に伝えた方がいいでしょう」
たしかにその通りだ。なんとか納得しようとしながらマルムスがアスケノスの机を見ると、見覚えのない小瓶が置かれていた。中には白い灰が入っている。
「アスケノス、あの瓶はなんですか?」
なにかの薬だろうか。そう思ったマルムスがそう訊ねると、アスケノスはにこりと笑ってこう言った。
「猛毒を焼いた灰です。触っちゃダメですよ」
「ああ、はい」
きっとあの灰も毒なのだろうなと、マルムスはぼんやりと思う。うまく頭が働かないままに、アスケノスから市井の死者数の推移を聞いて、しばし雑談をする。皇帝が落ち着くまではどこかで時間を潰さなければいけないからだ。
マルムスは気づいていなかった。雑談をしている間、アスケノスが灰の入った瓶をずっと愛おしそうに撫でていたことに。




