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第四十七章 盾と共に帰る

 皇帝の出陣からまもなく、都に疫病がはやりはじめた。その病にかかった者は、脚の付け根と脇の下、それに首の付け根に膿が溜まって腫れ、発症から数日で死んでしまう。

 その病を恐れ、宮廷の人々は宮廷の外へ出ようとしなくなった。

 そんな中、ケセノンで患者の死体を見てきたアスケノスはこう言った。

「ペストですね」

 無感動なで簡潔な言葉。聞き流すことも容易な言葉だったけれども、マルムスは絶望を感じた。

 一緒にその場にいたサラディンが、動揺したようすでアスケノスに訊く。

「あの、お前ならさ、ペストを治せる薬を作れるんじゃないのか? 作ってくれよ」

 縋るような言葉に、アスケノスは淡々と返す。

「アラセイトウ、任意の一本の花、三ポンドの砂糖、オレンジの花水、卵白、マドラムがあれば、薬を作ることは可能です。

 この薬と奇跡があれば、ペストは治ります」

 この薬と奇跡があれば。つまり、奇跡が起こらなければペストを治すことはできない。アスケノスはそう言っている。

 今度はマルムスが訊ねる。

「では、ペスト患者から採取した膿を乾燥させ、痘瘡のように健康な人々に施術をしたら予防できるのではないですか?」

 アスケノスは少し考え込んでから首を横に振る。

「無理です。ペスト患者の膿は毒性が強すぎます。施術を施したとしても、施された側も発症して死ぬだけです。

 ペストの毒は、僕でも耐えられません」

 心臓を一撃で仕留めるイチイの毒ですら涼しい顔で耐えたアスケノスが、ペストの毒には耐えられない。その事実を告げられて、マルムスもサラディンも脚が竦む。

 そんなふたりに背を向けて、アスケノスがケセノンに向かうため医務室を出ようとすると、マリヤが息を切らせて走ってきた。

「アスケノス様! ゾエ様がお呼びです!」

 咄嗟にマルムスとアスケノスのふたりで目配せをする。

「サラディンは仕事に戻ってください。私とアスケノスはゾエ様の元へ向かいます」

 サラディンにはペストの流行で暴れ出そうとする人々を法で縛る役目がある。マルムスの言外の言葉を受け取ったサラディンは頷いて仕事場へ戻る。

 マルムスとアスケノスは、マリヤに案内されてゾエの元へ向かった。


 後宮に入り、案内されたのはドラコーネーの部屋だった。なぜここにゾエが? そのことを考えて、マルムスの背中に悪寒が走る。

「失礼します。ゾエ様がお呼びと伺いました」

 マルムスが一礼して中に入ると、そこにはベッドに横たわるドラコーネーと、すがりついているゾエがいた。ゾエが泣きながらアスケノスに言う。

「お姉様が今朝から高熱を出して倒れてしまったの。あなたなら治せるでしょう?」

「高熱……? 診察をさせていただきます」

 いぶかしげな顔をしたアスケノスがドラコーネーに近寄り、まずは額に触る。それから首の付け根、脇の下。そこまで触ったところで、険しい顔をしてドラコーネーに言う。

「脚の付け根も触らせてもらいます」

 断りを入れて、服の上から内股を触る。アスケノスは真っ青な顔で息をのみ、けれどもはっきりとした声でこう告げた。

「ペストにかかっています。なにをしてもあと数日の命でしょう」

 その言葉に、ゾエがまた泣き崩れる。マルムスも、少しでも気を抜いたらその場にくずおれてしまいそうだった。

 それなのに、ドラコーネーはひどく穏やかな口調でこう言った。

「わかりました。それなら、私を海に捨ててください」

 なにを意図してそう言っているのかマルムスにはわからない。一方のアスケノスは、引きつった笑みを浮かべてつぶやく。

「なるほど、あなたからペストに感染するひとを、ひとりでも減らそうと言うのですね」

 ドラコーネーは目を閉じて頷く。

「陛下から賜った盾に乗せて、海まで運んでください。

 そして、盾ごと私を海に捨ててください」

 最期の最期まで皇帝から賜った盾を手放したくないのか。マルムスが涙をこらえながらそう思っていると、アスケノスが部屋の中に飾られた盾を床に置きながらこう言った。

「そうですね。ラケダイモンは盾と共に帰るものですから」

 盾を床に置いた音が聞こえたのだろう、ドラコーネーがゆっくりと起き上がりベッドから降りる。そしてまた、盾の上に横たわった。

 ドラコーネーの覚悟はわかった。浅い呼吸を繰り返すドラコーネーが乗った盾。その取っ手をつかみ、マルムスはアスケノスに言う。

「アスケノス、運ぶのを手伝ってください」

 アスケノスが頷こうとした瞬間、声が響いた。

「お姉様のことは私が運びます!」

 先ほどまで泣き崩れて呼吸もままならなかったゾエが、立ち上がって盾のもう片方の取っ手を握る。

「ゾエ様にこのような危険なことは……」

 ドラコーネーがゾエに考え直すように声をかけると、ゾエは決意のこもった声でこう返す。

「お姉様にはたくさん迷惑かけたもの。最期くらい見送らせてちょうだい。だって私は、足が遅くて的が大きいこと以外は申し分がないのでしょう? ちゃんと運べるわ」

 どうしたものかとマルムスはアスケノスに視線で問いかける。アスケノスは一瞬考える素振りを見せてから、マルムスとゾエにこう言った。

「わかりました。では、ドラコーネーを運ぶのはマルムスとゾエ様にお任せします。

 僕は、病が広がらないようこの部屋の処理をしますので」

 そういうことならとマルムスは頷く。

「行きましょう、ゾエ様」

 マルムスとゾエのふたりで盾に乗ったドラコーネーを持ち上げ、後宮と宮廷を抜けていく。ドラコーネーからりんごのような甘い匂いが漂う。それは、普段ドラコーネーが纏っている、清々しいレバンタの香りをかき消すようだった。


 向かう先は、崖の上にある城壁だ。そこにある城門を開けてもらおうという考えだ。

 海へ向かう途中、マルムスがドラコーネーに訊ねる。

「あなたは、陛下のことを待っているのではなかったのですか?」

 思いがけず八つ当たりをしたような口調になってしまった。けれども、そうなるくらい今のドラコーネーの運命を受け入れられないのだ。

 マルムスの問いに、ドラコーネーは目を閉じたまま微笑んで答える。

「私は、陛下のことを都で待っています」

「でも、あなたはこれから波の下に沈むのですよ?」

 やり場のない気持ちがこもったマルムスの言葉に、ドラコーネーはうっすらと目を開ける。

「だって、波の下にも都はあるのでしょう?

 私はそこで待っています」

 そんな話をしているうちに城壁に着いた。予想外にも、城門は無防備に開いていた。

 城門をくぐる。断崖絶壁の上だ。

 崖にぶつかっては砕ける波の音を聞きながら、マルムスとゾエはドラコーネーを盾ごと海に投げ捨てる。

 ドラコーネーが崖の下に落ちていくのが、いやにゆっくりに見える。気がつけばその姿は波の中に消えていた。

 言葉にならない声を上げてゾエが泣き崩れる。それを見たマルムスは、ゾエまで崖の下に落ちないよう、抱き上げて城門の中へと戻っていく。

 これだけ泣いているのだから、しばらくゾエは歩けないだろう。そう判断したマルムスは、そのまま宮廷へと向かう。

 ふと、マルムスの口から言葉がこぼれた。

「人はみな草のようで、その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

 しかし主のことばはとこしえに変わることはない」

 それを聞いたゾエが、しゃくり上げながらマルムスに言う。

「お姉様は、神様の愛と共にあるの?

 あるのだとしたら、どうしてこんなことになってしまったの?」

 しゃくり上げてマルムスの胸に身を預けているゾエに、マルムスは泣きたい気持ちをこらえながら答える。

「ドラコーネーは、神に愛されたからこそ死んだのでしょう。

 神がドラコーネーを天国に連れて行って、側に置いておくために」

 ゾエが顔を伏せたまま問いかける。

「お姉様が死ぬのは摂理なの?」

 マルムスはなにも答えない。

「こんなの摂理じゃないわ。運命よ!」

 ゾエの言うとおり、理不尽なことだと思う。けれども、こうなってしまった事実は変えられないのだ。

 ゾエを抱えて宮廷に向かう途中にも、病に倒れた人々が転がっている。

 辺りはりんごの匂いで満ちていた。

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