第四十四章 第十四歌をめぐって
いつも通りの仕事中、元老院のところへと書類を持って行って皇帝の元へと戻る道中で、マルムスは突然呼び止められた。
「プライポシトス殿、少々よろしいか?」
振り向くと、そこには仰々しい衣装を着た占星術師がいた。
あまり話しかけられたくなかったなと思いながらマルムスは返事をする。
「はい、なにかご用ですか?」
あえて澄ました表情を作っていると、占星術師が、ささやくように言う。
「陛下の身に良くないことが起こる星回りになっています。くれぐれもご注意を」
一瞬眉をひそめてから、マルムスも小声で返す。
「わかりました。考慮します」
占星術師はすぐにマルムスの元から去って行ったので、マルムスも皇帝の元へ向かう。
それにしても、占いなんて信じていないけれど、悪い予言は正直いい気分ではない。このことを皇帝に伝えるかと少し考えて、どうせ占い師の言うことだしと、伝えないことにした。
執務が終わったあと、今日も皇帝は部屋にドラコーネーを呼んで、文字を教えている。これは邪魔をしてはいけないなと判断したマルムスは、早々に皇帝の部屋から退出した。
皇帝の側を離れている間に夕食を済ませるかと、マルムスはサラディンとアスケノスを自室に招いて、女官に食事を運ぶように指示を出した。
食事を運んできたのは、マリヤと見慣れない女官。いつも給仕をしているドラコーネーが皇帝の元にいるのだからそうなるのは当たり前なのだけれど、少しだけ違和感があった。
なにはともあれ、夕飯が揃ったので、マルムスたちは早速話しながら食事をはじめる。最初に話題にあがったのはこのことだ。
「そういえば、占星術師が不吉なことを言っていたんですよね」
いぶかしげにそう言うマルムスに、アスケノスが訊ねる。
「不吉なこと? どんなことでしょう」
「いえ、陛下の身になにか良くないことが起こると」
マルムスの言葉を聞いて、アスケノスは呆れたようにため息をつく。
「全く、占い師というのは適当なことを言うものですね」
そう言ってからアスケノスがパンを頬張っていると、サラディンも茶化すように笑う。
「ほんとうに。陛下はまだ死ぬ運命にはないだろ」
占星術師の言うことなど真に受けていないようすのサラディンとアスケノスとは対照的に、マルムスだけは慎重な態度だ。
「しかし、万が一はあります。もしかして、陛下に変わる誰かが死ぬのでしょうか」
そのつぶやきに、サラディンはマルムスの頭を両手でわしわしと撫でながら返す。
「そんなに心配するなって。どうせ死んでも陛下が飼っている獅子くらいのもんだろ」
「だといいんですけど……」
いまいち不安を拭いきれないマルムスに、アスケノスが難しい顔をする。
「あくまでも占星術師の言うことを信じるというのであれば、陛下のように強権を振るう誰かが死ぬ可能性はありますね。
陛下が死ぬとは思えないので」
「陛下のように強権を振るう誰か?」
アスケノスの言葉を聞いて、マルムスが考えを巡らせる。皇帝のように強権を振るう誰かというのには、ひとりしか心当たりがない。
「皇母様でしょうか……まぁ、たしかにお歳を召していますし、普通に注意は必要ですね」
「人間、寿命には逆らえませんけどね~」
不安げなマルムスの言葉に、アスケノスはあっけからんと相づちを打つ。それを聞いて、マルムスは苦笑いをするしかない。
ふと、サラディンがこんなことを訊ねた。
「そういえば、ドラコーネーは政治に興味がありそうか?」
その問いに、マルムスはきょとんとして返す。
「そうですね。以前、政治なんて男がやっていればいいと言っていたので、興味はあっても口を出すことはないでしょう」
「なるほど。それなら安心だ」
マルムスにはサラディンの質問の意図がわからない。思わず不満そうな顔をすると、サラディンは笑って答える。
「政治に興味がないなら、陛下の代わりに死ぬことはないだろうってことだよ」
「ああ、なるほど」
いつだったかそんな話もした。とようやく合点がいったマルムスを見て、アスケノスが食事をする手を止めてマルムスに訊ねる。
「陛下とドラコーネーが、なにかあったんですか?」
「ああ、最近陛下がドラコーネーに文字を教えているんです」
「なるほど?」
かねてよりドラコーネーが文字を書けるようになりたいと思っていたのを知っていたのだろう。アスケノスは難しい顔をしているけれど納得したようだ。
その難しい顔に気づかず、マルムスがにこにこと笑いながらこう続ける。
「今頃も、ドラコーネーは陛下に文字を教わっていますよ。たしか、イリアスの第十四歌の書写をしているはずです」
ほのぼのとしたマルムスの言葉に、アスケノスは一瞬表情を固める。それから、じとりと目を据わらせてこう言った。
「なんでよりにもよって第十四歌なんです?
ドラコーネーに文字を教えるなら、もっとふさわしい部分が他にもあるでしょうに」
なぜアスケノスが急に不機嫌になったのかわからずマルムスはついおろおろする。助けを求めるようにサラディンに視線を送ると、サラディンはにやにやと笑いながらアスケノスにこう言った。
「まったくそんなこと言って。
お前がドラコーネーに第十四歌を教えたいんじゃないのか?」
「んっ!」
言葉を詰まらせて顔を真っ赤にするアスケノスを見て、マルムスはやはりどういうことなのかわからない。
「え……? 結局、イリアスの第十四歌ってなんなんです?」
戸惑いながらマルムスがサラディンに訊ねると、サラディンは笑いをかみ殺しながら答える。
「イリアスの第十四歌って、昔から意中の相手を口説くのに使われてるんだよ」
「え? あー……なるほど?」
これでようやく合点がいった。なぜ皇帝が文字を教えると言うだけであんなに落ち着かないようすだったのか理解できた。ついでに、アスケノスがドラコーネーに思慕を抱いていることも、今ようやくわかった。
顔を真っ赤にしてぷるぷると震えているアスケノスの頭をぽんぽんと叩きながら、マルムスが言う。
「諦めてください。相手が陛下では分が悪すぎます」
すると、アスケノスは鼻をすすって涙目でこうつぶやいた。
「……僕の方が先に好きだったのに……」
それから、一気にワインの入った杯を煽る。
「まあ、気持ちはわからないでもない。
今日は飲みな」
アスケノスの頭をわしわしと撫でたサラディンが、女官を呼んでワインの追加を持ってこさせた。
その後、アスケノスとサラディンが酔い潰れたところで、マルムスは皇帝の元へと戻る。もちろん、あのふたりはきちんと医務室まで連れて行ったあとでのことだ。
皇帝の部屋の前に立つと、ずいぶんと静まりかえっている。なんとなく不審に思ったマルムスがドアを叩くと、おどろいたような皇帝の声が返ってきた。
「誰だ!」
「マルムスです。お取り込み中でしょうか」
取り込み中かどうかと訊くのもどうなのだろうとは思ったけれども、言ってしまったものは仕方がない。もう少し時間を潰してきてもよかったのだろうかとマルムスが考えていると、中からこう聞こえてきた。
「入れ」
許可が出たのでドアをゆっくりと開け、一礼をして中に入る。椅子に腰掛けている皇帝とドラコーネーがマルムスの方を向いた。
「文字の練習ははかどっていますか?」
マルムスがそう訊ねると、ドラコーネーはうれしそうに答える。
「はい。陛下のおかげで、なんとか文字は覚えました。読み方はこれからなのですけれど」
「そうですか。それはよかったです」
ふたりでそうやりとりしていると、皇帝がドラコーネーにぎこちなく言う。
「お前はそろそろ後宮に戻った方がいい。
食事はもう済ませたとは言え、その、そろそろ眠いだろう」
「はい。それではそろそろお暇させていただきます」
ドラコーネーが立ち上がり、一礼をして去って行く。部屋を出るとき、名残惜しげに振り返ってから。
部屋の中に皇帝とマルムスだけになって、皇帝がつぶやく。
「ドラコーネーはまた来てくれるだろうか」
そのつぶやきにマルムスは、もちろんです。と一言だけ返した。




