第四十三章 イリアスを写して
この日も執務が終わり、一息ついたところで皇帝が遠慮がちにマルムスに声をかけた。
「マルムス、頼みがあるのだが」
「はい、なんでしょうか」
普段なら前置きなどせずに命じてくるのにどうしたのだろうとマルムスが思っていると、皇帝は視線を泳がせながら少し小声でこう言った。
「ドラコーネーをここに呼んできてくれ」
その一言に、マルムスは心得た。という顔をする。
「かしこまりました。呼んでまいります」
一言返事をして一礼し、早速皇帝の部屋を出て後宮へ向かう。あの貞淑な皇帝も、ようやく一歩踏み出す気になったのかとしみじみしながら歩いて行く。
後宮に入り、ふと中庭をのぞき込むと、もう夕暮れ時だ。この時間だと、ドラコーネーは給仕の仕事をしに行っているのかゾエの世話をしているのか。少し考えてから、まずはゾエの部屋に行って確認することにする。
すると、後宮の奥から女官がふたり歩いてきた。マリヤとドラコーネーだ。
マルムスはすかさず声をかける。
「ああ、ちょうどいいところに」
マリヤとドラコーネーは足を止め、マルムスに訊ねる。
「なにかありましたか?」
「また、不穏なことでも?」
険しい表情でそう言うふたりに、マルムスはにこりと笑って返す。
「いえ、陛下がドラコーネーのことをお呼びです。もしこれから給仕でしたら、マリヤはそのことを他の者に伝えてください」
その言葉を聞いて、マリヤはおどろいた顔をしてからにやりと笑う。
「かしこまりました。ドラコーネー、失礼のないようにするんだよ」
軽くドラコーネーの背中を叩くと、マリヤはそのまま早足でマルムスの横を通り過ぎていった。
残されたドラコーネーは困惑している。
「あの、陛下がいったいどのようなご用なのでしょうか……?」
「詳しくは聞いていませんが、悪いようにはなさらないでしょう。
さあ、陛下がお待ちです。行きますよ」
不安そうにしているドラコーネーを従えて、マルムスは皇帝の部屋へと向かう。道中、ドラコーネーは不安そうではあったけれど、しっかりと前を向いていた。
皇帝の部屋につき、マルムスが中に声をかける。
「陛下、お連れしました」
「そうか、入れ」
心なしか落ち着きがない皇帝の返事を受けて、マルムスはドラコーネーと共に中へと入る。それから、皇帝に訊ねた。
「ところで、用件がわからないとドラコーネーも不安なようです。もしよろしければ、どのようなご用か教えていただけますか?」
落ち着いたマルムスの言葉に、皇帝は少し視線を落としてから、ドラコーネーを見てこう答えた。
「いや……ドラコーネーに文字を教えようと思って……」
ためらいがちな一言を聞いて、ドラコーネーは口元を手で覆ってよろこぶ。
「ほんとうですか? ありがとうございます! この上ない光栄です」
そして、いそいそと腰から下げている袋から、以前皇帝から賜った葦ペンを取り出している。そのさまを見て皇帝もはにかんだ。
皇帝とドラコーネーのやりとりを見て、マルムスとしては、思っていたのと違うな? という感想だ。けれども、皇帝とドラコーネーがよろこんでいるのならそれでいいのだろう。
皇帝が部屋の中にある机に椅子を二脚据えるよう、マルムスに指示を出す。マルムスはすぐにその指示に従う。
椅子と机、それと手元用の灯りを用意しながら、ドラコーネーが皇帝にこう訊ねているのを聞く。
「陛下、どうして急に私に文字を教えてくださるのですか?」
「いや、以前、葦ペンがあれば文字の練習ができるだろうと思っていたのだが、そもそも手本がなければ練習のしようがないと気づいてな」
「あの、まさにその通りなのです。私が手本にできる文字は、陛下が書いてくださった、私の名前だけなので……」
「名前が書けるだけでも立派なものだが、それだけでお前は満足しないだろう。
だから、今日はお前と一緒にイリアスの第十四歌、三四一節から三四五節を書いてみようと思ったのだ」
イリアスと言えば、ドラコーネーにも馴染みのある歌だ。文字の練習をするのにはちょうどいいだろう。灯りの用意もできたマルムスが振り返り、皇帝に声をかける。
「椅子と机の準備ができました」
その言葉に皇帝は頷き、手で椅子を指してドラコーネーを促す。
「さあ、そこにかけて」
「は、はい。それでは失礼します」
皇帝と隣り合って椅子に座るドラコーネーをちらりと見ると、顔を赤くしていた。文字を教えてもらえるのがそんなにうれしいのだなと、マルムスは微笑ましくなる。
このまま練習しているところを見守るかとマルムスが後ろに下がると、皇帝が振り向いて、緊張した声でこう言った。
「あの、集中したいからドラコーネーとふたりきりにしてくれないか?」
「かしこまりました。では、失礼します」
ここは邪魔をしてはいけないだろう。そう察したマルムスは大人しく部屋から出て、とりあえずサラディンの元へと向かった。
「陛下とドラコーネーがふたりきりに?」
サラディンの部屋にお邪魔して、そこで食事を食べながらことのあらましを話すと、サラディンは興味津々といったようすだ。
「なるほど?
これは進展があったってことか?」
「進展と言えば進展なのでしょうが、文字を教えているだけですからねぇ」
そう、女を近づけることを避けていた皇帝が、自分からドラコーネーとふたりきりになりたいなどと言ったのは、明らかに進展だろう。けれども、おそらくサラディンが期待しているほどではない。
サラダを食べながら、サラディンが訊ねる。
「文字を教えるって、どうやってるんだ?」
その問いに、マルムスは斜め上を見て思い出しながら答える。
「イリアスを一緒に書いているようですよ。
たしか第十四歌と言っていたような」
マルムスの言葉に、サラディンがにやにやと笑う。
「へぇ、イリアスの第十四歌!
これはまた陛下も大胆なことをしたな」
イリアスと言えば、ギリシャの英雄たちの歌のはずだ。なにが大胆なのかマルムスにはいまいち理解ができない。
困惑するマルムスに、サラディンが笑う。
「そのうち誰かからなんなのか聞くって」
その言葉がなんだかはぐらかしているように聞こえて、マルムスは少し頬を膨らませた。
食事と歓談を終えたあと、皇帝の部屋へと戻る。ドアを叩く前に耳を澄ませると、かすかに話し声が聞こえてくる。どうやらまだ文字の練習をしているようだ。
ドアの前で待つことしばし、中から皇帝の声が聞こえた。
「マルムス、そこにいるのだろう? 入れ」
言われるままにドアに手をかけ部屋の中に入る。すると、ドラコーネーが葦ペンと紙を抱いているのが目に入った。
あんなに抱えるくらい、文字の練習ができたのがうれしいのだなとマルムスは思う。しかし、なんとなくドラコーネーと皇帝のようすがおかしい。ほんとうに、文字の練習をしていただけなのだろうか。
正直言えば、マルムスとしては文字を教える以上のことをしていてくれてもかまわないのだけれども、とりあえず確認は取らないといけない。
「陛下、おつかれさまでした。
ところで、ほんとうに文字を教えていただけなのですか?」
にこりと笑ってそう問いかけるマルムスに、皇帝は顔を赤くしてぎこちなく返す。
「その、あの、たしかに私はドラコーネーの手に触れたが、下心があったわけではないんだ。ペンの持ち方や字の書き方を教えるのに、どうしても、その……」
必死に弁解する言葉も尻すぼみになっている。このようすだと、手には触れたものの、文字を教える以上のことはほんとうにしていないのだなとマルムスは察する。
ここまで奥手だと逆に心配になるなとマルムスが思っていると、皇帝はドラコーネーの隣に座ったままこう言う。
「ドラコーネー、また文字を教えるから、たまに来てくれないか?」
その言葉に、ドラコーネーは顔を赤くしてぎこちなく笑い、頷く。
そんなふたりを見たマルムスは、この分だと仲が進展するのはだいぶゆっくりだろうなと思う。それと同時に、それはそれでいいのだろうとも思う。こればかりは焦ってどうなるものでもないからだ。
それに、ゆっくり進展してくれた方が、周囲に根回しをするのにも都合がいい。




