第四十二章 異国の貴人
「それで、件のケセノンはどういう状態でしょうか」
医務室でマルムスがアスケノスにそう問いかける。以前、ケセノンへの支援を皇帝に進言すると約束していたので、念のために現状を知りたかったのだ。
マルムスの問いに、アスケノスは書類をめくりながら返す。
「件のケセノン自体は、なんとかやっています。ですが、他のケセノンで経営が苦しいところも多いですね。やはり、支援の話は一度陛下に伺った方がいいかと」
「なるほど」
ふたりで話していると、突然ドアを叩く音が聞こえた。
「アスケノス様はいらっしゃいますか?」
ドアの外から聞こえてきたのはドラコーネーの声。それを聞いて、アスケノスは表情を明るくしてマルムスを軽く横によけて返す。
「はい、いますよ。なにかご用ですか?」
ゆっくりとドアが開いて、ドラコーネーが入ってくる。手には細い枝を数本持っているようだ。
細い枝をアスケノスに差し出しながらドラコーネーが申し訳なさそうに言う。
「突然のことなのですが、メリロトスの枝を数本引き取って欲しいのです」
ほんとうに突然のことなので、アスケノスはきょとんとしながらメリロトスの枝を受け取り、ドラコーネーの手を撫でながら訊ねる。
「何本あっても困らないのでいただきますが、どうして急に?」
すると、ドラコーネーは困ったような、少し怒ったような顔をしてこう答えた。
「実は、またメリロトスの枝を結ぶなんていういたずらをされたんです。
結ばれたままだと痛んでしまうので切ったのですが、そのまま捨てるのも忍びなくて」
「なるほど……?」
ドラコーネーの説明に、アスケノスは納得できたようなできないような微妙な顔をする。一方、アスケノスの横にいるマルムスは、メリロトスの枝を見てなにかを思い出したようだ。
「そういえば、以前にもそんないたずらをされていましたよね。誰のいたずらか心当たりはないんですか?」
マルムスの問いに、ドラコーネーは難しい顔をする。
「後宮の庭ですからね。やるとしたら女官か宦官かだと思うのですけれど、当たりがつけられないんですよね」
「うーん……むずかしい」
見当がつかないといったドラコーネーの言葉にマルムスがうなると、ドラコーネーがぽつりとこぼす。
「いつもあの夢を見たあとに、このいたずらをされるんですよね」
「あの夢?」
夢とこのいたずらになにか関連性があるのだろうか。マルムスとアスケノスはきょとんと目配せをしてから、アスケノスが訊ねる。
「いったいどんな夢か、聞かせていただいていいですか? 参考までに」
ドラコーネーは素直に頷いて、夢の内容をこう語った。
「異国の貴人が、夢に現れるんです」
「異国の貴人?」
異国とはいったいどこの国だろうか。そもそも、ドラコーネーが異国の貴人と接したことがあるとは思えない。マルムスは思わず疑問を口にする。
「どのような人なのですか?」
訝しむようなその言葉に、ドラコーネーは目を伏せながら答える。
「色とりどりのゆったりとした服を纏っていて、ちいさな冠を被っているのです。あんなに鮮やかな色の絹をふんだんに使って、とてつもない大国の貴人かもしれない……」
夢の内容を思い出しているせいか、どこかうつろなドラコーネーの言葉にマルムスは頭を働かせる。
「そんな服を着る民族の話は聞いたことがありませんね。どこの国の人かは聞いたことがありますか?」
ただでさえ高価な色とりどりの絹を、ふんだんに使った服を着られる人物となると、下手をすれば皇帝に並ぶほどの権力と国力をもっていると考えられる。万が一、その人物が実在した場合を考慮して、マルムスは注意深くドラコーネーの言葉を聞く。
「その人は、日出ずる国に住んでいると言っていました」
「日出ずる国?」
聞き慣れない言葉に、マルムスはアスケノスをちらりと見る。アスケノスも聞き慣れない言葉なのだろう。少し考えてからこうつぶやいた。
「日が出る方向と言えば、東です。アッシリアの貴人でしょうか」
アスケノスとマルムスが考え込む。そこに、ドラコーネーはおずおずとこう言った。
「私は、その貴人と子供の頃から何度も会っているんです。もう、幼なじみのようなもので……。それで、その貴人にスパルタの戦歌を教えるのと引き換えに、以前陛下の前で披露したあの踊りを教えてもらったんです」
ドラコーネーの言葉を聞きながら、マルムスは考えを巡らせる。アッシリアの方に、あのような踊りがある国が存在するのか。あるとするのならばどこなのか。少なくともマルムスが知っている国ではない。
この国の周辺国をだいたい把握しているマルムスが知らない国であれば、ここまで攻めてくることは困難だ。その貴人が仮に実在していて、その国が存在していても脅威にはならないだろう。マルムスはそう判断した。
冷静に考えを巡らせているマルムスの横で、アスケノスがメリロトスの枝を指に巻きながらドラコーネーに訊ねている。
「ところで、その貴人というのは男ですか? 女ですか?」
「えっと、男です」
「そうですか」
ドラコーネーの答えを聞いて、アスケノスはにっこりと笑って言う。
「それなら、その貴人のことは陛下の耳には入らないようにした方がいいでしょう」
ぎゅっとメリロトスの枝の先を結ぶアスケノスの言葉を聞いて、マルムスはなにかを察する。たしかに、この貴人の話は皇帝には聞かせない方がいい。
しかし、もう少し探りは入れておきたい。そう思ったマルムスは、落ち着かせるようにアスケノスの頭をぽんぽんと叩きながらドラコーネーに訊ねる。
「夢に出てくる貴人というのがどんな人か、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」
夢に何度も出てくるくらいだ。ドラコーネーが実際に会ったことのある人物である可能性は捨てきれない。そして、その貴人が夢の外でドラコーネーの元を訪れる可能性も。
マルムスの考えていることなど知らないようすで、ドラコーネーは答える。
「あの方は、背が高くて声の大きい人です。兵士を率いる将軍だと聞きました」
将軍と聞いてマルムスとアスケノスは目配せをする。それを見て、自分の話から相手を探っていると勘づいたのだろう。ドラコーネーが戸惑いながらも話を続ける。
「日出ずる国の軍とは、どんなものなのでしょうか。いつだったか、あの方にファランクスを教えたときは、いたく興味を持ったようですけれど」
夢の中で会う貴人と交わした無邪気なやりとりを探るのは気が引けると思いながらも、マルムスはさらに訊ねる。
「その貴人からは、彼の地の戦術などは聞いていないのですか?」
「それが……日出ずる国は戦が起こらなくなって久しいらしく、そういったものの話は聞きませんでした」
「戦が起こらない?」
ドラコーネーの言葉に、マルムスもアスケノスも目をまるくする。戦が起こらない国というのが想像できないのだ。
「え? どういうことです? そんなに周辺国とうまく和平を結べているのですか?」
「えっ? どうなんでしょう……そういえば、周辺国の話は聞いたことがないです」
ここまで話を聞いて、ずっと探りを入れていたのは無駄だったのではないかとマルムスは思う。将軍という立場にある者が、周辺国との関係を気にしない国が実在するとは思えないのだ。混乱するマルムスをよそに、ドラコーネーは言葉を続ける。
「でも、宮廷内での諍いはそれなりにあるみたいです」
「あ、そこは我々と変わらないんですね」
ほんとうに、ドラコーネーの夢の中だけの話だったのではないか。だとしたら、夢のことを詮索して悪いことをしたとマルムスは若干後悔する。
ふと、ドラコーネーがはっとしたようにこう言った。
「あ、そろそろ庭の手入れに戻らないと。
長々と失礼しました」
それから、せわしなく医務室を出て行った。引き留めるようにアスケノスが手を伸ばしたけれど、目に入っていないようだ。
ため息をついてマルムスが苦笑いをする。
「ドラコーネーには悪いことをしてしまいましたね。ほんとうに、ただの夢の話だったようです」
「夢とはいえ、油断なりませんよ」
幾分低い声を出すアスケノスのことを見ると、目が据わっている。
よくわからないけれどこわかった。




