第四十一章 恋の病
宮廷が落ち着いてからすこし経った頃、皇帝が凱旋した。前回の時と同じように凱旋式を行い、数々の戦利品を披露し、どれを民衆に与えてどれを国庫に入れるかを明示した。その時の民衆の歓声は、やはり空が割れんばかりだった。
凱旋式のあとは宮廷での宴だ。皇帝に反目する官僚や軍事貴族はあらかた始末したとはいえ、奢侈を好む者はまだ数多くいる。皇帝とマルムスがうんざりするほど宴は続いた。
その中で、皇帝が要望を出した。以前ドラコーネーとマルムスが披露した踊りをまた見たいと言ったのだ。マルムスはその言葉を受け、宴の中でドラコーネーと共にあの踊りを披露する。それを見て皇帝は、ドラコーネーだけでなくマルムスにも拍手を送った。どうやら前回よりもうまくやれたようだ。
マルムスたちがその踊りを披露したことで、皇帝がそろそろ宴に飽きてきたことにやっと気づいたのか、官僚たちが宴を終わりにすることを口にしはじめる。それを見て、皇帝は苦笑いをしたのだった。
宴の片付けも終わり、ようやく一段落着いた。そんな頃合いに、皇帝の部屋に呼び出されている者たちがいた。皇帝の側仕えのマルムスはもちろん、アスケノス、サラディン、それにドラコーネーまで揃っている。
改めて呼び出され、緊張した面持ちの四人を前に、皇帝がゆっくりと口を開く。
「母上から話は聞いた。ゾエの件では世話になったな」
普段よりも幾分柔らかいその言葉に、サラディンが安堵のため息をつく。しかし、マルムスはまだ緊張を緩めない。皇帝の言葉がまだ続くのをわかっているのだ。
予想通り、皇帝は言葉を続ける。
「不届き者をお前たちに始末させたのは母上の独断だったようだが、まあ、早かれ遅かれだろう。よくやった」
皇帝の言葉に、四人は皇帝に一礼をする。それを見て皇帝は、困ったように笑ってさらに続ける。
「それで、お前たちに褒美を取らせようと思う。母上から聞いている限りでは、どうせほしがらないのだろうが、ここで褒美を出さなければ他の者に示しがつかない。なので、私が見繕ってなにかしら与えよう」
それを聞いて真っ先に反応したのはアスケノスだ。
「それでしたら、僕はほしいものがあります。よろしいですか?」
突然の言葉に皇帝はもちろん、マルムスもおどろいた顔をする。それもそうだろう。アスケノスは過去に褒美をもらう機会があったのにもかかわらず辞退しているのだ。なのに今回はほしいものがあると言う。
皇帝は興味を引かれたようだ。
「なにが欲しいか聞かせてもらおうか」
皇帝の問いにアスケノスはにこりと笑って返す。
「後宮へ自由に出入りする権利をください。
後宮で薬草を育てているので、僕自身が後宮に出入りできた方が、なにかと便利なので」
その言葉に皇帝は少しだけ悩む。
「うむ……まあ、お前のことだ、後宮に出入りしても滅多なことはしないだろうし、出入りできた方が後宮の者になにかあったときに便利だろう。後宮に出入りする権利をやる」
「ありがたきしあわせ」
アスケノスの要求にマルムスが納得していると、皇帝がドラコーネーの方に目をやる。
「ドラコーネー、お前の褒美は盾と槍でいいか? 後宮を見たところ、だいぶ痛んでいる盾があったからな」
皇帝の言葉にドラコーネーはぱっと表情を明るくして口元を押さえて返す。
「よろしいのですか?
ぜひそれでお願いします!」
また後宮が物々しくなるな。とマルムスは思ったけれども口には出さない。ドラコーネーがよろこんでいるからというのもあるけれど、なんだかんだで女官たちも盾と槍に親しみを感じてきたようなので、置いておくだけなら置いておいてもいいかと思ったのだ。
ふと、皇帝が手招きをする。
「ドラコーネー、近くへ」
「え? はい、ただいま」
突然のことにおどろいた顔をしたドラコーネーは、しずしずと皇帝の前まで近づいていく。皇帝はドラコーネーの右肩をちらりと見てから、じっと顔を見つめる。
「眉間だけでなく、右肩にも傷を負ったのだろう。その傷は、ゾエを守るために負ったものだと聞いたが」
その言葉に、ドラコーネーは皇帝に視線を返して答える。
「はい。その通りです」
恥じらいも引け目もなにもないドラコーネーの表情を見て、皇帝が穏やかに微笑む。
「そうか。より一層うつくしくなったな」
その一言で、ドラコーネーの顔がみるみるうちに赤くなる。皇帝も、自分が言ったことを思い返してか、はっとしてから顔を赤くしている。
ふたりのようすを見て、マルムスとサラディンが目配せをする。なにを言えばいいのかわからないマルムスに代わり、サラディンが口を開く。
「陛下、ドラコーネーとふたりきりにした方がよろしいですか?」
その提案に、皇帝は慌ててサラディンの方に手を伸ばして返す。
「待ってくれ、ふたりきりにしないでくれ!
頼むから!」
顔を赤くしたまま必死にそう言う皇帝に、アスケノスがにこりと笑って言う。
「陛下のおっしゃるとおりです。
女官と陛下をふたりきりにして、よからぬ噂が立つのも良くないですし」
アスケノスは正論を言っているはずなのに、なぜかそれ以外の圧を感じる。けれどもその圧がなんなのかわからないまま、マルムスは同意するように頷く。
「動揺してらっしゃるようですね、陛下らしくもない。
少し心を落ち着かせた方がいいでしょう」
アスケノスとマルムスの言葉を聞いて、サラディンは少しだけ苦笑いをする。マルムスの言うとおり、皇帝がここまで動揺しているのはらしくないと思ったのだろう。
一方の皇帝は、胸に手を当てて深呼吸をしている。それから、ドラコーネーを一歩下がらせ、こう言った。
「マルムスの言うとおりだ。
少し落ち着きたいから、マルムス以外の者は下がるように」
その言葉に、アスケノスとサラディン、ドラコーネーは一礼をしてから部屋から出て行った。
部屋の中にはマルムスと皇帝だけが残った。この状態が普通なのでマルムスとしてはなんの疑問もないのだけれども、皇帝はまだ落ち着かないようすだ。
戸惑うような表情で胸を押さえている皇帝を見て不安になり、マルムスが声をかける。
「陛下、具合がよろしくないのですか?」
その言葉に、皇帝はためらいがちにこう返す。
「私は、私のことがわからないのだ……」
「どういうことですか?」
皇帝が今まで、皇帝自身のことを疑ったことなどない。いつだって自信に満ちていた。その皇帝が、このように不安を抱えているということに、マルムスは若干の不安を感じる。
なにか悪いことでもあるのだろうか。マルムスがそう思うと、皇帝がまた顔を赤くして言う。
「遠征中、ずっとドラコーネーのことが気にかかっていた」
それを聞いて、マルムスはようやく、皇帝がなにを不安がっているのかを察する。
マルムスの考えを肯定するように、皇帝はさらに言葉をこぼす。
「遠征中、ドラコーネーが側にいればどれだけ励まされるだろうかとずっと思っていた。
軍人として、そのようなことは許されないのに」
今思い返せば、遠征に出る前からそのような素振りはあった。修道士のように厳粛な皇帝が、突然恋心など抱いて戸惑わないはずがないのだ。
マルムスは少し考えてから皇帝に言う。
「陛下、それは決して許されないことではありません。神の摂理に沿ったものです」
「そうなのだろうか……」
「そうです。それに、我々としても陛下に世継ぎのことを考えていただかないと困ってしまいます」
マルムスの言葉を聞いて、皇帝は子供のように頼りない顔をして泣き出す。
「世継ぎのことを考えないといけないのはわかっている。でも、今の私にはそのことを頼みたいのはドラコーネーしかいなくて……」
「はい。存じております」
「今まで世継ぎなんて、官僚たちの中から選べばいいと思っていたのに、どうしてだろうか……こんなことは初めてで、どうしたらいいのかわからない……」
しまいにはマルムスにすがりついてしまった皇帝に、マルムスはどう返せばいいのかわからない。いや、なにも言わずにそっとしておくのが一番いいのかもしれない。
恋の病に効く薬はないというのは周知の事実だ。いつその病にかかるのかわからないということも。
その病とは縁遠いマルムスには、泣いている皇帝の言葉を聞くことしかできなかった。




