第四章 隻眼の医者
ある日のこと、軍医に兵糧の生産状況を調べてきて欲しいと頼まれたマルムスが、現状集まっている報告から情報をまとめて医務室へと行く道すがら、ハーブを山盛りにしたざるを両手に持ったアスケノスと合流した。
「ずいぶんとハーブが必要なんですね」
おどろいたようなマルムスの言葉に、アスケノスはため息をついて返す。
「昨日の訓練で怪我をした兵士が多発して。
換えのパップを作るためのやつです」
「そうなんですね、おつかれさまです」
アスケノスが暗い顔をしているのを見て、自分の体は雑に扱うのに他人のことになった途端心配しはじめるんだよな。と、マルムスはなんとなく不思議に思う。
行き先は同じなので時折言葉を交わしながらふたり揃って廊下を歩いていると、向こう側から急いだようすの太った宦官が早足でやってきた。
邪魔になってはいけないと思いマルムスもアスケノスも横に避けたのだけれども、避けきれなかったアスケノスがすれ違いざまに宦官とぶつかる。体格で負けているアスケノスは軽々と弾き飛ばされ転んでしまった。
「邪魔なんですよ、気をつけなさい!」
太った宦官はそう吐き捨てるように言い残し、そのまま去って行ってしまった。
ぶつかっておいてあの態度はないだろうと憤りながらマルムスがアスケノスを助け起こすと、転んだ衝撃でばらまいてしまったハーブを早速拾い集めている。
「はわわ、たいへんたいへん」
自分が怪我をしているかどうかも気にせずに兵士のためのハーブをかき集めるアスケノスに、マルムスがため息をついて言う。
「あなたはよく人とぶつかりますけれど、なめられているんですかね?」
先ほどの宦官への怒りが収まらないマルムスに、アスケノスはあっけからんと返す。
「ああ、右目がないので、どうしても右側は見えづらくて避け損ねるんですよね。
だいぶ慣れたつもりですけど、まだまだ訓練が足りませんね」
「そういう問題ですかね……」
アスケノスの右目が見えないのは誰の目から見ても明白なのに、それでもぶつかってくる相手には悪意しか感じないとマルムスは思う。
マルムスがモヤモヤした気持ちを収めようとしている間にも、アスケノスがハーブを全て拾い終えて医務室へと歩き出すので、マルムスもそれに続いた。
ふと、マルムスは以前より気になっていたことを思い出す。
「そういえば、アスケノスは戦地に行ったことはないんですよね」
「はい、ないですよ」
少し不満そうにそう返すアスケノスに、マルムスは続けて問う。
「それなら、どうして右目がないのですか?」
「ああ、それは……」
そこまで話したところで医務室にたどり着く。このままここで立ち話をしていたらマルムスの役目もアスケノスの役目も果たせないので、いったん話を切って医務室の中に入る。
「ああ、ふたりとも揃っているのか」
ふたりが医務室に入ったのを見て、にこりと笑ってそう言った軍医が、アスケノスの手の甲を見て眉をひそめる。
「お前、また誰かにぶつかられたな?」
「なんのことですかぁ~?」
小さく舌を出して目線をそらしてそう返すアスケノス。明らかに心配をかけないように誤魔化そうとしている。それならいっそのことそれに乗ろうと、マルムスは軍医に訊ねる。
「そういえば、アスケノスはどうして右目を失ったのかご存じですか?」
その問いに、軍医はアスケノスが持っていたざるをいったん作業台の上に置き、渋い顔をする。
「スイセンの絞り汁を右目に点眼したんだ」
「どうして」
「いつもどおりの理由だよ!」
「あ、ああ~……」
マルムスが思わずくずおれそうになると、アスケノスがいつも通りの朗らかな声で言う。
「だから、自分の体で体験してみないとどんな使い道があるかわからないじゃないですか」
その言葉が終わるか終わらないかのところで、軍医がぎろりとアスケノスを睨みつける。
「あの時は右目をくりぬかないと死ぬところだったんだぞ!
あんなに息も絶え絶えになって……」
「あの時は麻酔抜きで一気に持ってかれましたね」
当時のことを思い出してか声が震えている軍医に対して、アスケノスは他人事のように朗らかに笑っている。そのふたりを見て、マルムスがおずおずと訊ねる。
「よくそれで生きてますね……」
「あ、目をくりぬいた後すぐにリンゴとワインをたらふくつっこまれて、アヘンを吸わされたので」
「ほんとにいつもどおりの」
たいしたことはないといったようすのアスケノスを見て、マルムスは軍医に同情しかない。
こんな弟子がいたらいつ心労で倒れてもおかしくないな。とマルムスが同情の目で軍医を見ていると、軍医は両手で顔を覆って嘆いている。
「ほんとうに、ほんとうにあの時右目をくりぬくようなことがなければ。アスケノスを軍医にして、陛下のために従軍させたかったのに……」
すると、それを聞いたアスケノスが拳で自らの胸を叩いて元気よく返す。
「僕はいつでも従軍する覚悟と元気がありますよ!」
「体が欠けている男は軍人になれないんだよ!」
軍医に正論を返されたアスケノスが唇をとがらせる。
この国では、体の一部が欠けた男は軍人や兵士にはなれないという決まりがある。その決めごとがいつからあるものなのかはわからないけれども、その決めごとのせいで、右目を失ったアスケノスは、どんなに望んでも戦地に行くことはできないのだ。
体の一部が欠けているという点においては、マルムスをはじめとした宦官達も同じだ。余程の例外がない限り、宦官が戦地に赴くことはない。
正直言えば、マルムスはそのことに安心していた。兵士として戦うことが栄誉だというのはわかるけれども、痛かったり苦しかったり、死んだりするのはこわいのだ。
だから、苦痛と死と隣り合わせであるのをわかった上で、従軍して戦地に行く覚悟がいつでもできているというアスケノスのことが、ひどく強い人間のように思えた。
マルムスが思いにふけっている間にも、軍医はアスケノスのことを詰めている。
「いいか、もうあんなことはするんじゃないぞ」
「好奇心に勝てたらやりません」
「お前、好奇心には連敗だろう」
「てへぺろ」
軍医とアスケノスのやりとりを聞いて、マルムスは苦笑いするしかない。
ふと、軍医がマルムスの方を向いてこう訊ねてきた。
「そういえばマルムス殿、例の件は?」
「え? ああ、兵糧の生産状況ですね」
うっかりここに来た用件を忘れるところだった。
マルムスは懐に入れていた書類を軍医に渡し、こう伝える。
「今のところ、兵糧の生産は順調のようです。詳しい数字はそちらの書類をご覧ください」
「なるほど、ありがとう」
マルムスの報告を聞いて、書類を見る軍医の表情が明るくなる。どうやら軍医が想像していたよりもいい状況のようだ。
「いいね。この調子で生産を進められるかな?」
「どうでしょう。これから先、気候と収穫量の変動もあるでしょうし、一応万が一のことを考えておいてもいいかと」
マルムスの返答に、軍医は頷く。
「そうだね。運命のいたずらでもしものことがないとは言い切れない。そこは考慮しておこう。それに」
それに、なんだろう。マルムスがじっと軍医に視線を送ると、軍医は重々しい声でこう言う。
「兵糧はいくらあっても足りなくなる」
その言葉は、何度も戦地に赴いたことがある軍医が言うからこその重みがあった。
兵糧は、遠征や戦が長引けばその分大量に必要になるし、作った分全てが兵士の腹に収まるわけでもない。いくらかはネズミに食べられたり、何者かに奪われたりもするのだ。
兵士というのは、栄誉ある立場だけれどもその分つらい環境に身を置かなくてはならない。その兵士を支えるもののひとつが兵糧だというのを、マルムスもわかっているつもりだ。
戦地に赴くことができないマルムスとアスケノスは、この都で、兵士の背後で、前線に立つ兵士達を支えていなくてはいけない。
そう、都にいる兵士の健康管理はもちろん、宮殿の中で、元老院や官僚を上手くさばいて、兵士が不利な立場にならないように計らうのも、国のために戦うということなのだろう。
きっと。