第三十七話 誰も寝てはならぬ
「誰も寝てはならぬ」
皇母は宮廷のすべての者にそう命じた。それは、ゾエを狙った不届き者を女官たちが追い返したという知らせが皇母の元に届いてすぐのことだった。
夜明けまではまだ遠い。そんな時間に、寝ていたはずの者たちも叩き起こされ、ゾエの命を狙った者を探し出すまで起きていることを強要された。
宮廷内が騒然とする。主に行き交っているのは兵士と女官だ。軍事貴族や官僚は、まだ動き出していない。おそらく、状況を読もうとしているのだろう。
どこまでが敵でどこまでが味方かわからない軍事貴族や官僚が動きはじめる前に、マルムスとサラディン、それにアスケノスは後宮へ向かう。ドラコーネーをひとりで医務室に置いておくのは不安なので、側にはミカエルを呼んで置いてきた。とにかく、誰よりも先に皇母の元へとたどり着かなくてはならなかった。
「誰も寝てはならぬだなんて、皇母様もアッシリアの姫君のようなことをおっしゃる」
まさか宮廷内の人物全員を叩き起こすなんてことをされるとは思っていなかったサラディンがそう愚痴る。できればこのまま内々に皇母に報告し、今後の方針を伝える予定だったのだ。ここで混乱を起こされたら愚痴りたくもなる。
苦々しいサラディンの愚痴に、アスケノスがあっけからんと返す。
「昔は求婚者に謎を出して、解けなかったら殺すということをやっていたそうですし、起こされるだけならまだかわいいでしょう」
「こわ……」
皇母が厳しい人だとは思っていたけれども、過去にそんなおそろしいことをしていたのかと、マルムスは思わず身震いする。
そんなやりとりをしながら進む間にも、周りを女官や兵士が行き交っている。時々耳に入る言葉を聞く限りでは、例の軍事貴族や官僚たちも動きはじめたようだ。
ふと、ある兵士がマルムスたちを呼び止めた。
「プライポシトス殿、どちらへ?」
これは探りを入れられている。そう直感したマルムスは痛ましげな表情をして返す。
「先ほど、後宮に押し入った不届き者と交戦した女官が負傷したのですが、それでも後宮に置いていただけないかとお伺いを立てに行くところです。
彼女も、後宮を追われては家族を養えないと言うので」
「なるほど。うまく聞き届けられるといいのですが」
マルムスの言葉を聞いて、兵士は失礼します。と残して去って行く。それを横目で見送ったアスケノスが冷たい表情でつぶやく。
「あいつ、医務室に行くつもりでしょうか?」
「そうだったとしても、ドラコーネーの側には今、ミカエルがいます。大丈夫でしょう」
足を止めそうになったアスケノスの背中を叩き、マルムスは先を急ぐ。
後宮に入り、皇母の部屋の前に立つ。ドアを叩いて、マルムスは中に向かって話しかける。
「皇母様。ゾエ様の件でお話があります。
失礼してもよろしいでしょうか」
すると、少しだけ間を置いてからドアが開き、中にいたマリヤが一礼をしてこう返した。
「どうぞ中へ」
マルムスが早足で部屋の中に入ると、アスケノスとサラディンもそれに続く。奥にある椅子に座っている皇母はそれを見て怪訝そうにしている。
「マルムス。あなたはともかく、他の男ふたりはなんですか。ここは後宮ですよ」
圧を感じる厳しい言葉にも動じず、マルムスは一礼をして返す。
「このふたりはプライポシトスの責任で、今回後宮に入ることを許可しております。
その理由は明白。この者たちもゾエ様を暗殺しようとした輩に対抗しようとしているからです」
その言葉に、皇母はアスケノスとサラディンを一瞥してからマルムスに言う。
「なるほど? あなたは不届き者の正体を知っているのですか?」
「はい。先日彼らが密会を開き、ゾエ様を亡き者にしようと謀をしている現場を押さえました。その時に協力してくれたのがこのふたりです」
マルムスの返答に、皇母はなおも厳しい目でマルムスたちを見ている。後ろでサラディンが竦んでいるのを感じながら、マルムスはさらに皇母へ話しかける。
「このふたりのおかげで、この度はゾエ様を守ることができました。
今から皇母様の許可が欲しいのはこれから申し上げる件についてです」
「どのようなことですか?」
「この度、ゾエ様を狙った輩を処分する判断をこちらで下したいのです。
許可をいただけますでしょうか?」
頭を下げてそう言うマルムスに、皇母は残忍な笑みを浮かべて返す。
「あなたはプライポシトス、皇帝の代弁者です。好きになさい。
ただし、ぬるいことはしないように」
かわいい孫の命を狙われたことに業腹なのだろう。先ほどアスケノスが話していた、求婚者に謎を出して解けなければ殺していた。という話に真実味が出るほどにおそろしい空気を醸し出している。
その空気に気圧されることもなくマルムスはにこりと笑って返す。
「かしこまりました。
許可いただきありがとうございます。
つきましては、皇母様にも少々ご協力願いたいのですが」
「私に?」
「そうです。これから、ゾエ様の命を狙ったやつらも素知らぬ顔で他の者たち、具体的には私たちを犯人に仕立て上げて報告にあがるでしょう。
そのとき、皇母様にはその者たちの話を聞いた振りをしていただきたいのです」
マルムスの話を聞いた皇母は、笑みを消して頷く。自分もマルムスたちの計画に組み込まれることを了承したのだ。
「皇母様の手を煩わせることはそれだけです。あとは私とアスケノス、そしてサラディンで秘密裏に片をつけます」
後ろに立っているアスケノスとサラディンを指し示しながらマルムスがそう告げる。その表情は気がつけば、謀が苦手だと言っていたいつかのマルムスからは想像できないものになっていた。
堂々とした態度のマルムス、決意を込めた表情のアスケノス、それに緊張しているサラディンをひとりずつ見てから、皇母がゆっくりと口を開く。
「うまくいった暁には、あなたたちに褒美をやりましょう」
先ほどとは打って変わって穏やかな口調。この裏には、失敗は許されないという言葉が隠されている。それを承知した上で、マルムスはにこりと返す。
「はい、その際にはよろしくお願いします」
「あ、あの!」
突然、黙っていたアスケノスが声を上げた。
「もし褒美……というか、望みを叶えてくださるのでしたら、ゾエ様を守って傷を負ったドラコーネーを、後宮に置いていてほしいです! お願いします!」
必死に皇母に懇願するアスケノスの言葉を聞いて、皇母はきょとんとした顔をしてから笑い声を上げる。
「なにを言っているのです。大切な孫を守った女官を後宮から追い出すはずがないでしょう。傷を負った以上、式典などには使えませんが、引き続きゾエの世話をさせます」
「……ありがとうございます」
皇母の言葉が余程うれしかったのだろう、アスケノスの目がかすかに潤む。しかし、そのようすにも気づかずに、皇母はまた訊ねる。
「さて、他に望みはないのですか?」
その言葉に、マルムスはちらりとアスケノスとサラディンの様子をうかがう。アスケノスもサラディンも、なにか望みをと改めて言われると、すぐには思い浮かばないようだ。
「すいません、ほんとうに、ほんとうに今すぐには思いつかないので、事が終わってからゆっくり考えさせて頂いていいですか?」
しょぼしょぼとそう言うサラディンのことを、皇母が笑って見る。
「すぐには思いつかないなんて、逆にあやしいですね。ですが、頼みましたよ」
皇母のあの言葉を最後に、マルムスたちは医務室へと戻った。ミカエルにようすを聞くと、何度か訪れてくる兵士がいたようだ。
「怪我した女を見たがる変態は困りますねえ」
すこし怒った表情でそう言うミカエルは、いまだに事情を理解できていないようだ。
それはそれとして、アスケノスがドラコーネーに駆け寄って声をかける。
「無事でよかったです。
それで、ドラコーネーが後宮に残れるかどうかですが、皇母様は引き続き、あなたにゾエ様の世話をさせるおつもりだそうです」
「ほんとうですか!」
余程の驚きとよろこびだったのだろう、ドラコーネーがアスケノスの腕につかみかかると、アスケノスが照れたように笑う。
それを見ながら、できれば皇母に借りを作りたくなかったのだけれど。とマルムスは思った。




