第三十六章 負傷兵
不届き者たちが荒らした後宮の後片付けを女官たちに命じ、マルムスとアスケノス、それにサラディンは、負傷していまだ血を流しているドラコーネーを医務室へと運び込んだ。中庭の薬草で軽く消毒はしたけれども、止血をしたりパップを当てたりなどの処置をしなくてはいけないからだ。
医務室につくなり、マルムスとサラディンはアスケノスの指示で灯台に明かりを点ける。傷を詳細に見るために、普段より多めに火を点している。
火を点しながら、マルムスはサラディンに訊ねる。
「兵士の到着がずいぶんと速やかでしたが、あらかじめ備えていたのですか?」
「ああ。お前が密会の偵察に行ってから、何度か夜警の訓練だといって兵士達を集めるってのをやってたんだ。
だから怪しまれずにすぐに後宮にやれた」
思ったより周到なことをしていたのだなとマルムスは感心する。ちらりとサラディンの方を見ると、アスケノスに指示された灯台すべてに火を点し終わったようだ。
お互いにそれを確認し、そのままアスケノスとドラコーネーに背を向けて壁を見る。衣擦れの音と、薬草をすりつぶして混ぜる音が聞こえる。ドラコーネーの右肩の傷に当てるパップをアスケノスが手早く作っているのが音でわかる。ドラコーネーが少なくとも今は、服をはだけているのだろうということも。
アスケノスが処置をしている間、マルムスとサラディンはただ黙って壁を見つめていた。器具の音と、さらさらとした包帯の音が響く。それからようやく、アスケノスの声が聞こえた。
「手当はこれで終わりです。
服は血で汚れてしまっているので、代わりに僕のものを貸しますね。いったん部屋に戻るまで、それで我慢してください」
「はい。ありがとうございます」
落ち着いたドラコーネーの返事のあとに、布の塊を開く音、続いて衣擦れの音が聞こえる。それが収まったところで、マルムスとサラディンはアスケノスとドラコーネーの方を向いた。
そのふたりの動きにも気づかない様子で、アスケノスはドラコーネーの頬に手を当てて涙をこぼす。
「肩の傷は縫いましたし、眉間の傷は縫うほど深くはありません。
でも、この傷は消えないかもしれない……
傷を消す薬は出すけど……」
医者として、女の身体に傷を残すというのは耐えがたいのだろう。ぼろぼろと泣いているアスケノスに、ドラコーネーは笑って返す。
「傷が消えなくてもかまいませんよ」
眉間に貼ったパップを押さえるために巻かれた包帯で、ドラコーネーの顔の半分ほどは隠れている。それでも、誇らしげな表情はたやすく見て取れた。頭に巻かれた包帯と纏っている男の服とが相まって、その姿は少年兵のようだ。
「しかし、あなたがほんとうにあの盾と槍で戦うとは思いませんでした」
安堵のため息をつきながらマルムスがそうこぼすと、ドラコーネーは当然といったようすで返す。
「そのための盾と槍では?」
「本来の目的としてはそうなんですけどね?」
ドラコーネーの機転でかなり助かったとはいえ、マルムスとしては相当肝が冷えた。女官たちに部屋にこもっているよう、指示を出し忘れたのを悔やんだほどだ。
サラディンも同じ気持ちなのだろう。渋い顔をして口を開く。
「今回はお前のおかげでゾエ様が助かった。
だが、あんな無茶をするんじゃない。
第一、いつの間にファランクスの訓練をしたんだ?」
一歩間違えれば妹のマリヤも負傷していたかもしれなかったことが気にかかっているのだろう。サラディンとしては今回のドラコーネーの行動は素直に褒められないようだ。
そんなサラディンに、ドラコーネーはしれっと返す。
「女官たちは私が仕込みました」
ため息をついて額を押さえるサラディンを横目に、マルムスがドラコーネーに頭を下げる。
「サラディンとしては複雑な気持ちのようですが、私としては助かりました。
ですが、その傷は……」
礼を言ってから、続ける言葉で言いよどむ。すると、ドラコーネーは毅然という。
「大丈夫です。傷のない戦士などいないでしょう?」
「あなた女官ですよね?」
ドラコーネーの言葉にマルムスはついそう返したけれども、槍を振るっていたときのドラコーネーはたしかに戦士だった。間違いなく、誇り高きラケダイモンだったのだ。
あの姿を思い出して、マルムスはドラコーネーの言葉に納得する。けれども、アスケノスは納得できないようだ。ドラコーネーの手を取って、いまだ泣きながらドラコーネーに言う。
「それでも、僕はあなたの身体に傷が残るのが嫌なんです」
次の瞬間、ドラコーネーの手がアスケノスの手元を抜け、高い音を上げた。アスケノスの頬を叩いたのだ。
「軟弱者! 傷のひとつやふたつでガタガタ言わないでください!」
「ええ……?」
強気に言い放つドラコーネーに対し、アスケノスは驚きで涙を止め、困惑している。
「立場が逆なんですよ……!」
思わずマルムスは思わずそうつぶやく。
その横で、サラディンが髪を掻き上げながら苦虫をかみつぶしたような顔で言う。
「ドラコーネーが良くても、そもそも女に傷があることは良いこととはいえないんだ。
特に、お前は後宮に仕える女官なんだぞ?」
その言葉にドラコーネーはきょとんとする。サラディンの言わんとしていることが上手く飲み込めないのだろう。なんせ今、ドラコーネーの自認は女官ではなく戦士になっているのだ。
理解していないようすのドラコーネーに、マルムスが説明するように言う。
「ドラコーネーは女官の自覚をいったん取り戻してくださいね?
その上で。傷のある女官が後宮に居続けることができるのか。ということです」
ぽかんとした顔でマルムスの言葉を聞いたドラコーネーがそのまま頷く。それを見たマルムスは言葉を続ける。
「とりあえず、あなたが後宮に居続けられるかどうか、まずは皇母様に判断して頂きます。
その後、陛下のご意見を伺いましょう」
ここまで聞いて、ようやくドラコーネーは事情が飲み込めてきたようで顔を青くしてうつむいている。ちらりとドラコーネーを見てから、マルムスはわざとらしくため息をついて言葉を続ける。
「ゾエ様を守るために受けた傷ですから、皇母様も陛下も悪いようにはなさらないとは思いますが……」
はじかれたように顔を上げたドラコーネーがマルムスに言う。
「えっ! 今からでも入れる軍隊があるんですか?」
「ん~! ドラコーネーが入れる軍隊はないですね!」
後宮にいられなくなるかもしれない。そのことに気づいてドラコーネーは少々錯乱しているようだ。
「ど、どうしよう……後宮を出ることになったら仕送りができなくなっちゃう……」
頭に手をやって天井を仰ぐドラコーネーに、サラディンが訊ねる。
「もし後宮を出ることになったら、スパルタに帰るのか?」
その問いに、ドラコーネーは少し考えてから返す。
「……わかりません。帰るかもしれないし、帰らないかもしれないです。いずれにせよ、どこかで働き口を探さないと……」
先ほどの勇猛さはどこへやら、声を震わせているドラコーネー。その手を取って、アスケノスが真剣な声で語りかける。
「そんなに心配しないでください。
もし傷が残ったとしても、あなたが後宮にいられるよう、僕も皇母様に口添えしますから。だって、あなたはゾエ様のことを守ったんですよ?」
開いている片目で、じっとドラコーネーのことを見据えている。そんなアスケノスの姿を、マルムスは意外に思いながら見ていた。患者の治療以外のことで、ここまでアスケノスが熱くなっているところを見るのは希だからだ。
不安そうにするドラコーネーの肩を、アスケノスがそっと抱く。どう声をかければいいのかわからなくなったマルムスが、小声でサラディンに言う。
「アスケノス、ずいぶんと必死になってますね」
その言葉に、サラディンは複雑な顔をして返す。
「まあ、必死だろうな。でも……」
「でも?」
「いや、なんでもない」
サラディンは、アスケノスがドラコーネーを後宮に留めることに必死な理由に心当たりがあるのだろうか。あるのだとしたら、なぜ教えてくれないのだろうか。マルムスはそれを少しだけ不満に思った。




