第三十五章 後宮のファランクス
夜、マルムスはミカエルと共にゾエの部屋の前で控えていた。
「それにしても、なんでゾエ様は急に僕たちがここにいるようにおっしゃったのでしょうね」
ぼんやりと不思議そうにそう言うミカエルに、マルムスはくすくすと笑って返す。
「陛下が都を離れて寂しいようですよ。
ほんとうはドラコーネーに側にいて欲しいそうなのですが、さすがにひとりをえこひいきするのは不和の元になると皇母様が」
「なるるー」
結局のところ、ここに控えている理由をミカエルには話していない。万が一誰かがミカエルに接触して、ここで警備をしているということがあの官僚たちに知られたらまずいからだ。
なので、マルムスは服の下に剣を隠し持っているけれども、ミカエルは丸腰でここにいる。不届き者がここに来たとき戦うのはマルムスが引き受けることにして、ミカエルには走ってもらおうという判断だ。
廊下を静寂が包む。マルムスは普段、こんな時間まで起きていることはないのだけれど、ミカエルは皇母の召し替えをしたあと部屋の前に控えていることがあるので、起きていること自体には慣れているようだ。
どこを見るでもなく、ぼんやりと視線を宙にさまよわせていたミカエルが、突然廊下の奥に集中する。
「異変です」
その直後、かすかに騒ぎ声が聞こえてきた。男の声と女の声だ。
まさか女官まで襲われているのか? マルムスがそう思った瞬間、目の前に息を切らせたマリヤが走ってきた。
「マルムス様、敵襲です!」
今にも泣きそうなマリヤをミカエルに預け、マルムスが剣を抜く。
「来ましたね。
ミカエル、マリヤを連れてサラディンとアスケノスの元に敵襲を伝えてください。
兵士が後宮に入ることをプライポシトスが特別に許可する旨も。さあ、走って!」
「あいあいさー」
ミカエルは完全に事情を飲み込めたわけではなさそうだけれども、マリヤを小脇に抱えて敵が来ているのとは反対方向に走っていく。姿が見えなくなったあと、何者かが殴り倒されてうめき声を上げているのが聞こえてくる。
「……これ、ミカエルにここを任せて私が走った方がよかったやつ?」
思わずそうつぶやいたマルムスだが、反対方向から来た敵をミカエルがなぎ倒してくれているのなら都合がいい。剣を構えて先ほどマリヤが走って来た方へと急いで向かう。
途中、剣戟が聞こえた。まだ兵士が後宮に来ているとは思えないのになぜ?
マルムスが不思議に思っていると、ドラコーネーの声が響いた。
「女官にはなにもできないと思ってなめてるんだろ! この不届き者が!」
もしかして、あの剣戟はドラコーネーのものなのか。おどろきながらもマルムスが進んでいる間に、ドラコーネーが女官たちに翼ある言葉をかける。
「盾を持て! 槍を持て! ファランクスを組め!」
ファランクスと聞いてマルムスはなるほどと思う。ファランクスで廊下を塞げば、女官たちは盾で身を守りながら不届き者の進行を阻むことができる。
「突撃!」
女官たちの足音がする。ドラコーネーの号令通り突撃したのだろう。
女官たちが持ちこたえてくれればその間に、サラディンとアスケノスが兵士達を連れてくればなんとかなる。
しかし、ファランクスの最前列の最右翼。そこだけは守りに隙がある。すぐに駆けつけて、マルムスがそこを補助しなくてはならない。
廊下に飾られていた盾も槍もすべて取り外されている。それらはすべて、廊下を塞ぐ女官たちの手元にあった。
最後列の右翼にいる女官にマルムスが訊ねる。
「ドラコーネーは?」
「最前列の最右翼です」
予想通りだ。最も危険な位置を、ドラコーネーが他の女官に任せるはずがない。マルムスが声を張り上げる。
「今最前列に出ます!」
マルムスは盾で覆われていない最右翼の女官と壁の隙間を通り、ドラコーネーの隣に出る。
「マルムス様、盾は?」
「品切れです」
剣で斬りかかってきた不届き者の腕を持っている剣ではじきながら、マルムスはドラコーネーの言葉に返す。そのままファランクスの前に出て、一方的に女官の持つ盾を剣で殴りつけていた不届き者に切りつけていく。どこをどう切りつけるべきかなどは、マルムスにはわからない。ただそうやって対抗するしかないのだ。
マルムスの刃はたしかに不届き者を傷つけてはいたけれど、押し返せているわけではない。ちいさな身体を利用して、隙間をぬって動き、剣を振るうだけだ。しかし、そうすることで、女官たちへの攻撃は多少なりともそらせていた。
ふと、不届き者が声を上げた。
「くそっ! 宦官や女の分際で!」
それを聞いて、自分が狙われると思ったマルムスは身構えたが、そいつが狙ったのはドラコーネーだった。
重い一撃だったのだろう。ドラコーネーが構えた盾の表面を滑ってそいつの剣の切っ先がドラコーネーの眉間をかすめる。それから、盾で覆われていない右肩を切りつけた。
「思い知ったか、女は大人しくしてろ!」
傷ついたことでドラコーネーがひるんだと思ったのだろう。そいつは興奮気味にそう言う。
次の瞬間、眼光輝くドラコーネーが握る槍が、そいつの胸を貫いた。
「この盾と槍は飾りじゃないんだよ」
貫かれた男の手から剣が転げ落ち、カラカラと鳴る。それを見た他の不届き者たちは悲鳴を上げ、剣を下げて後ずさりしはじめる。今逃げれば逃げおおせると思っているのかもしれない。
不届き者たちが後ろを振り返ると、廊下の先から足音が聞こえてきた。兵士達が来たのだ。先導しているのは剣を持ったサラディンとアスケノス。マリヤとミカエルは、今頃安全なところにいるのだろう。
アスケノスが号令を出す。
「捕らえなさい」
兵士達が不届き者に詰め寄り槍を突きつけ、縄で捕らえる。それから、兵士がマルムスに訊ねた。
「プライポシトス殿、こいつらはどうなさいますか」
「陛下が帰還するまでは牢に入れておいてください」
マルムスの言葉に、兵士達は短く返事をして、不届き者たちを引っ立てていった。
「それじゃあ、俺たちもあまりここにいるのは良くないな」
兵士が去るのを見たサラディンがアスケノスの肩を叩いてそう言うのを、マルムスが引き留める。
「サラディンは戻ってもらっていいのですが、アスケノスは少し残ってくれませんか?」
「僕ですか? なんでしょう」
きょとんとするアスケノスに、マルムスは目を伏せて伝える。
「実は、ドラコーネーが負傷してしまって」
「えっ?」
そこで改めて、アスケノスは女官たちが盾と槍を持っていることに気づいたようだ。アスケノスはすぐさまに、最右翼に目をやる。
「ドラコーネー、戦ったんですか?
女官のあなたが?」
呆然とそう言うアスケノスに、ドラコーネーは血で濡れた顔で笑って返す。
「戦ったのは私だけではありません。ここにいる女官全員が戦ったのです」
「それでも……! あなたがこんな風に傷つくなんて……」
アスケノスは明らかに動揺している。それでも医者としての本分は忘れていないのだろう、すぐさまに柔らかい布を取り出して、ドラコーネーの傷口を拭っている。
今にも泣きそうなアスケノスとは対照的に、ドラコーネーは誇らしげだ。
「これくらいの傷、どうということはありませんよ」
アスケノスはサラディンにハーブを摘みに行かせてからマルムスに言う。
「今回のことは、一刻も早く陛下にお知らせしないと」
「もちろん。伝令を走らせます。あの者たちの処分も決めないといけませんし」
そこへ、兵士達が去って行った方からふらふらとマリヤがやってきた。
「お、おわりましたかぁ~?」
どうやら、腰を抜かしているところをなんとかここまで来たようだ。そんな様子のところに悪いのだけれど。と思いながらマルムスはマリヤに言う。
「終わりました。
それでは、マリヤは今回のことを皇母様に伝えに行ってください。さあ、走って」
「はい!」
よたよたと皇母の部屋へと向かうマリヤを見送っていると、ドラコーネーがつぶやく。
「陛下が、私たちを守ってくださったんです」
それから、手元にあった盾を抱きかかえた。




