第三十四章 密会の偵察
密会の情報を手に入れてから数日、その当日が来た。
朝からいつも通りに執務をしているマルムスは、平静を装うので必死だった。ここで下手に緊張を表に出したら、密会に忍び込む計画そのものが知られてしまうかもしれないからだ。
仕事を理由になるべく人前に姿を出さずにいるマルムスの元に、官僚が訊ねてきた。マルムスの記憶が正しければ、このところマルムスにすり寄ってきていた軍事貴族たちと強固なつながりがある官僚だ。
「マルムス殿、少々伺いたいことが」
この後に来る質問の予想はついている。けれども、マルムスはあえて素知らぬふりでこう返す。
「私に答えられることでしょうか」
口元だけに笑みを浮かべるマルムスに、官僚は頷きながら言う。
「もちろんですとも。プライポシトスであるマルムス殿だからこそ答えられることです」
「そうですか? では、どのようなことでしょう」
「いえなに、陛下はいつ頃帰還される予定なのかと思いまして」
予想通りの質問だ。いままでこの質問に対して、神の摂理と共にある。という、どうとでも取れる返答をしてきたけれども、今回ばかりはあらかじめサラディンと示し合わせた回答を出す。
「すぐにはお戻りにならないでしょう。
先日来た伝令からは、陛下は敵地にて快進撃を続けていると聞いていますから。
陛下が凱旋なさるとすれば、民に施せるだけのものを手に入れてからでしょうね」
マルムスの言葉に、官僚はかすかに眉を疑わしげに寄せる。
「それは、マルムス殿が陛下のお言葉を伝え聞いたと言うことでよろしいか?」
今までうやむやに返していたのに、急にこれだけ明確に答えを返せば疑いを抱くのはわかる。しかし今大事なのは、目の前の官僚が疑っているかどうかではなく、この場を上手くやり過ごせるかどうかだ。
マルムスは堂々と言い放つ。
「プライポシトス、皇帝の代弁者である私の言うことを疑うのですか?」
有無を言わせないマルムスの圧に、官僚は薄ら笑いを浮かべる。
「いえ、陛下が快進撃をしているのならそれに越したことはないのです。それでは失礼します」
なんとか部屋から官僚が出て行ったところで、マルムスは大きく安堵のため息をついた。
そして夜。細い三日月と輝く星々が空を飾っている。それを見上げてから、マルムスは厩で落ち合ったアスケノスと小声でやりとりをする。
「さて、これからどうするんですか?」
マルムスの問いに、アスケノスが小瓶をマルムスの頬に当てて答える。
「この薬をあなたの目に差します。これを使えば、わずかな光でも容易に捉えられるようになります」
それから、アスケノスはまず自分の目に薬を差し、続いてマルムスの目に差した。
薬の効果は明確だった。薬が目に入ってわずかの時間で、空に輝く月と星の光が増したように見えるのだ。
「……すごいですね」
思わず感嘆の声をこぼすマルムスに、アスケノスが静かな声で返す。
「ベラドンナの目薬が効いているうちはこの通りです。ただし、間近で松明の光を見ないようにしてください。目が潰れるほどにまぶしく感じますから」
言葉と同時に渡された地図を見る。月明かりだけでもはっきりと読み取れる。たしかにこれだと、間近で松明など見たら目が潰れてしまうだろう。
「では、行ってきます」
地図を持ったマルムスは、足音を殺して宮廷の外へと向かった。
密会の会場になっている屋敷にたどり着いたマルムスは、足音を忍ばせて暗がりに身を隠す。ゆっくりと周囲を回り、耳を澄ませる。すると、かすかに複数人の話し声が聞こえてきた。壁越しなせいか不明瞭だけれども、意識を集中すればなんとか聞き取れる。
少しずつ窓の下に移動し、見上げる。窓から光は漏れていない。どうやら密会をしている面々も忍んでいる自覚はあるらしく、明かりを点けていないか、点けていたとしても極小さくしているのだろう。
窓の横に身を寄せ、中をのぞき込む。そこにはこのところマルムスにすり寄ってきていた軍事貴族や官僚の顔も並んでいた。
「陛下が凱旋する前にゾエ様の命を頂こう」
マルムスの視界には入っていない誰かがそう言った。ゾエを殺してどうするのか。警戒しながらマルムスが耳を澄ませていると、話が進んでいく。
「それがいい。ゾエ様が我々の言うことを聞くのであれば生かしておいた方がいいが、あの方はまったく我々の話を聞かない」
「なのに、陛下はゾエ様の言うことをいつだって優先なさる。ゆゆしきことだ」
「我々のためにも、ゾエ様には死んでもらおう。陛下がいない間なら、後宮に押し入ることも可能だろう」
また厄介な計画を立てているな。そう思ったマルムスは奥歯を噛みしめて思案する。けれども、ひとりで考えても解決法が見つかるはずがない。すぐに考えるのをやめ、まずはアスケノスに伝えなくてはと周りを見渡す。
すると、遠方から光が近づいてくるのが見えた。大きさと色から見るに、あれは松明の光だろう。この屋敷に集まっている面々と関係がある人物かどうかはわからないけれど、姿を見られる前にこの場を去らないと。この距離なら、向こうからマルムスの姿はまだ見えていないはずだ。
来たときと同じように足音を殺して、マルムスはその場を去って行った。
「厄介なことになりましたね」
宮廷に戻ったマルムスがアスケノスにことのあらましを説明すると、アスケノスはあからさまに眉をしかめた。
そこに、サラディンがうなり声を上げる。
「後宮が狙われているとなると、兵士の配備も難しいな。かといって、宦官に戦わせられるかというと……」
両手で顔を覆うサラディンに、マルムスはため息をついて言う。
「難しいでしょう。宦官たちにやつらの手が回っていない保証はありません。
正直言って、要請を出して素直に闘ってくれる宦官は、私とミカエル以外に心当たりがありません」
「そうなんだよなぁ……」
サラディンがため息交じりにつぶやくと、アスケノスも不安そうに口を開く。
「後宮には、陛下から賜った槍と盾が飾られているので、装備はあるんですけど……」
いったん口をつぐんで、アスケノスが泣きそうな声で続ける。
「でもまさか、女官に戦わせるわけにはいかないです」
「あたりまえだろ? 女官は戦うためにいるんじゃないんだ」
サラディンもうろたえた様子だ。万が一女官が不届き者と戦うなどということになったら、妹のマリヤの無事が保証されないのだからしかたがない。
女官は戦わせられない。かといって、宦官は十分な戦力にならない。そのふたつを考慮してしばし考えて、マルムスがこう提案した。
「そうですね、でしたら少々危険な手段ですけれど、私とミカエルでゾエ様の部屋の守りを固めます。
そして、相手が来たら私とミカエルのどちらかがあなたたちに知らせに行く。そうしたら兵士を後宮に連れてきてください。非常時ということで、後宮に入ることを許可します」
それを聞いたアスケノスがくってかかるように返す。
「それなら、あらかじめ許可を出しておいて兵士を配備すればいいのでは?
そうすれば、ゾエ様も女官たちも安全でしょうし」
もっともな意見に聞こえるけれども、サラディンは頭を振る。
「だめだ。もし事前に許可を出して兵士を配備して、やつらが実行日をずらした場合面倒なことになる」
「どういうことですか」
「不穏分子の対応を口実に、兵士達が公然と後宮に出入りするようになる可能性がある。
そうなると、今回の件を退けられても他の危険が後宮に降りかかることになる。
だからそれはできない」
兵士が後宮に出入りすることで降りかかる危険。それがどういうものなのか容易に想像できたのだろう。アスケノスがうつむいて黙り込む。
「兵士を後宮に入れるのは、最後の手段です」
重々しいマルムスの言葉にアスケノスが頼りなく頷く。一方のサラディンは心配そうにマルムスに訊ねる。
「お前はどの程度戦えるんだ?」
その問いに、マルムスははっきりと返す。
「それほどではありませんが、最善は尽くします」
そう。どこまで戦えるかはわからないけれど、戦うしかない。覚悟は決まっていた。




