第三章 レムナケアエ
ある日の仕事終わりの後、今日はいつもより仕事の量が控えめだったこともあり、マルムスはゆったりとした時間を取れていた。
こんな時間はなかなか取れないのだからと、サラディンとアスケノスに声をかけ、一緒に夕飯を食べることにした。
マルムスの部屋で三人がテーブルを囲んで閑談することしばし、ドアを叩く音がして女性の声が聞こえた。
「マルムス様、サラディン様、アスケノス様、夕飯をお持ちしました」
「どうぞ、入ってください」
マルムスが返事をすると、ドアを開けて華奢な体つきの女官と、それよりも背が低い、けれどもしっかりとした体つきの女官が部屋の中に入ってきた。
華奢な女官がサラディンの前に皿を置きながら声をかける。
「兄さん、今日はここでゆっくりするの?」
その問いに、サラディンは微笑んで返す。
「ああ、たまにはね。
マリヤはこの後も仕事かい?」
「配膳が終わったらいったん私たちもごはんだよ」
サラディンと、その妹だという女官のマリヤが和やかに話している間にも、もう片方の女官は腕に乗せられるだけ乗せた皿を手際よくテーブルの上に並べていく。
「相変わらず、ドラコーネーの配膳は見事です。私なら全部ひっくり返してますよ」
半ば曲芸めいたドラコーネーの手さばきを見て、マルムスが感嘆する。それに対して、ドラコーネーはにっこりと笑う。
「これも女官の勤めですから」
それを聞いたサラディンがマリヤに訊ねる。
「マリヤもあれができるのか?」
「多少はね? でも、あの量を一度に運べるのはドラコーネーだけだよ」
マリヤの言葉に、サラディンだけでなくアスケノスも感心したような視線をドラコーネーに向ける。すると、ドラコーネーは困ったように笑ってから、マリヤの腕を引いて下がってしまった。
女官ふたりが去ったところで食事をはじめる。今回食事とともにする会話は、先ほどまでも話題にあがっていた宦官になる手術についてだ。
サラディンがマルムスの腰のあたりを見ながらこう訊ねる。
「それにしても、宦官になるには去勢手術が必要なんだろう?
相当痛かったんじゃないか?」
その問いに、マルムスは斜め上を見ながら返す。
「いや、手術自体はそんなでもないんですよ。手術中はアヘンで寝てしまっているので」
「なるほど?」
「ただ、問題は術後、アヘンが切れてからなんですよね……もう痛くて痛くて」
「わぁ……」
想像とは少し違ったけれども、やはり痛いことには変わりがないことを知ったサラディンが天井を見る。
一方のアスケノスが、あっけからんとした顔で口を開く。
「あの時は痛み止めで柳の葉を頻繁にもらいに来てましたよね」
柳の葉といえば、アヘンほど強力ではないけれども痛みを抑えてくれる薬だ。大体の痛みは柳の葉を噛んでいるうちに収まってしまう。その柳の葉の味を思い出しながら、マルムスが口をとがらせる。
「あの時は傷口が痛くて、柳の葉を噛んでいないとまともに過ごせませんでしたから」
マルムスの言葉を聞いて、サラディンはますます信じられないといった顔をする。
「宦官になるのもたいへんだな。
それにしても、マルムスはラテン人だけど、なんでこの国で宦官になったんだ?」
サラディンのその問いに、マルムスは首をかしげて答える。
「子供の頃に、この都を流れる川の岸辺に流れ着いていたそうです。それより前のことは覚えていません。
ただ、私を拾った商人は、私がラテン語と数学ができると知るやいなや、宦官にするのにふさわしい学識だと言って、宮廷に入れるために去勢手術を」
「話が急すぎる」
「そもそも、なんでこの都に流れ着いたのかもわからないんですよねぇ……」
「どこかで身投げでもしたのか?」
マルムスの話になにかぞわぞわしたものを感じているようすのサラディンが、さらに訊ねる。
「宦官になるのに、抵抗はなかったのか?」
その問いに、マルムスは困ったように笑う。
「ありましたけど、生きていくためにはそれしかなかったので」
その場に沈黙が降りる。選択肢のなかったマルムスになにをどう言えばいいのか、サラディンにはわからないようだ。
その沈黙を破ったのはアスケノスだ。アスケノスはにこにこと笑ってこう言う。
「マルムスの手術は僕が担当したんですよね。
はじめての手術をやらせてもらって良い経験になりました!」
「えっ! マルムスの手術やったのアスケノスなのかよ!」
予想外のことにサラディンが驚きの声を上げ、額を手で押さえてマルムスに言う。
「なんで自分を去勢したやつと仲良くできるの……」
「いえ……普通に手術の腕はよかったですし、アスケノスも仕事でやっただけなので恨むのは筋違いかと……」
戸惑うサラディンと遠慮がちなマルムスを見て、アスケノスは軽快に笑う。
「お褒めにあずかり光栄!」
「あと、この性格なので憎めなくて」
「それはそれでわかる」
憎めないというマルムスの言葉にサラディンも同意する。
それから、マルムスがアスケノスに微笑みかけてさらに話を続ける。
「それに、術後のつらい時期のケアも丁寧にしてくれましたし、相談にも乗ってくれましたからね。悪い印象にはなりません」
マルムスの言葉にサラディンも笑って頷く。
マルムスはまた言葉を続ける。
「でも急に毒物を食べるのはやめて欲しいです」
サラディンが首がもげるほど何度も頷く。
そんなふたりのようすを見て、アスケノスがくすくすと笑う。
「もう、ふたりとも大げさなんだから。僕はちゃんと生きてるから大丈夫ですよ」
「それはたまたま生きてるから言えるだけだぞ?」
苦々しいサラディンの言葉に、アスケノスは舌を少し出して、なんのこと? といった顔をする。
ふと、アスケノスが急に真面目な顔をしてこう言った。
「マルムスがいたかもしれない、ラテン人の国というのはどういう所なんだろう」
それを聞いたサラディンが、少しだけ泣きそうな顔をしてマルムスに訊ねる。
「お前は、帰りたいとは思わないのか?」
アスケノスとサラディンの言葉に、マルムスは少しだけ考え込む。考えても、自分がいたはずのラテン人の国がどういうものなのかがわからない。ただ頭に浮かぶのは、荒れた川の水面に浮かぶ小舟だけだ。
マルムスは答える。
「思わないですね」
結局まだ手つかずだった豆のサラダを口に運んで噛みしめる。サラディンとアスケノスも、料理に手を着けはじめた。
「ラテンには」
マルムスが豆を飲み込んでから口を開く。
「もうラテンには、きっと私の居場所なんてないでしょう。
それに、ここには陛下もいらっしゃいますし、サラディンとアスケノスもいます。
私を支えてくれる人は、この国にいるんです」
その言葉を聞いて、照れくさいのを隠すためか、サラディンが大口を開けてサラダを詰め込む。アスケノスはにこにこと笑って、少しずつサラダを口に運んでいる。
「だから、私には元いた国に帰る理由はないんです」
この言葉の通り、マルムスの心の中に自分がかつていた国への未練はない。覚えていないからというのはあるのだろうけれども、きっと、思い出してもこの決意は変わらないだろう。
けれども。
「それはそれとして元老院は気に入らないですけどね」
思わず目が据わるマルムスに、アスケノスが軽い口調で言う。
「元老院が集まってるところに雷でも落ちて焼き払ってくれませんかね?」
「元老院総辞職雷光やめろ」
やっと表情をほころばせてサラディンがそう言うと、マルムスがなお目が据わったまま言葉を続ける。
「ほんとうに、雷ででも焼き払われて欲しいですよ。カルタゴ滅ぶべし」
「もう滅んでますよー」
「いつもそれ言うよな」
マルムスお決まりの文句にアスケノスは正論をぶつけ、サラディンは軽く流す。
こんな些細な時間も久しぶりだった。