第二十九章 聖木曜日の暴動
皇帝が出陣してからしばらく。思いのほか宮廷の日々はのどかに過ぎていて、このまま皇帝が凱旋するまで平穏に過ごせるのではないかと、マルムスは淡い期待を抱いていた。
元老院は面倒だけれどもそれはいつものことと流せる程度だし、官僚はたまに誰それが賄賂を受け取ったという程度の話しかない。農民達の税を建て替えるように命じた軍事貴族も、不満そうではあるけれどまだ行動には移していなかった。
いつも通りの執務をして、太陽が天頂にさしかかった頃、マルムスが気を抜いて大きなあくびをしていると、何者かが激しく部屋のドアを叩いた。
「なにごとですか!」
はっとしたマルムスが大声でそう訊ねると、ドアの向こうからいつもの伝令の声でこう聞こえてきた。
「街でモリスコとコンベルソが暴動を起こしております!」
「なんですって?」
普段は大人しいモリスコとコンベルソが急にどうして? そんな疑問を抱きながら、マルムスは机を離れてドアを開ける。
「原因はわかりますか?」
緊迫した声で伝令にそう訊ねると、伝令は固い声で答える。
「伝え聞いた話だと、ムスリムとユダヤに対する重税に抗議してとのことだそうです」
「ムスリムとユダヤですか……」
すぐに合点がいった。イスラムから改宗したモリスコと、ユダヤから改宗したコンベルソ。その両者は、今でもムスリムやユダヤとつながりがあり、親しくしているのだろう。
いくら今では異教徒であるとはいえ、親しくしている人々が信教の違いで重税を課されることに異議を唱えるのは、民衆心理としてはわかりやすい。
「都に残っている兵は向けましたか?」
矢継ぎ早に訊ねるマルムスの言葉に、伝令はきびきびと答える。
「すでに向かっております。
宮廷に向かってきているのをなんとか食い止めてはいますが、兵達は暴徒に手出しをできない状態です」
「手出しができない?」
暴徒となったモリスコとコンベルソはそんなに手強い相手なのだろうか。マルムスは一瞬そう思ったけれども、すぐに兵士が暴徒に手を出せない理由に思い至る。
「……聖木曜日ですか……!」
今日は復活祭直前の木曜。聖木曜日だ。
この日にキリスト者の血を流すことは禁忌とされている。そのことをわかっている暴徒達は、自分たちが今はキリスト者であることを利用し、この日に暴動を起こそうと計画したのだろう。
しかし、兵士達もキリスト者だ。暴徒も下手に兵士達に危害は加えられないはず。そう判断したマルムスは、部屋を出て伝令にこう言った。
「教会に助けを求めてきます」
伝令に案内され、なんとか暴徒達のいない道を進んでいつもの教会へとたどり着いた。
街の中と同様、教会の中も騒然としている。逃げ込んできたのであろう人々が、言葉を交わし合ったり祈りを上げていた。
そんななか、人々を落ち着かせようと聖堂の中を行き来しているヨハネス神父に声をかける。
「ヨハネス神父、折り入ってお願いが」
声をかけたマルムスを見て、ヨハネス神父は少しだけほっとしたような顔をして返事をする。
「お願いというのはなんでしょうか」
「暴徒となったモリスコとコンベルソを説得して欲しいのです」
すかさず用件を伝えるマルムスの言葉を聞いて、ヨハネス神父はアンドロニコス神父に手でなにかを合図する。なにかと思っていると、アンドロニコス神父が重々しい振り香炉をふたつ持ってやってきた。
ヨハネス神父が振り香炉を片方受け取る。香炉を吊している鎖がかすかにきしんだ。
「では、アンドロニコス神父とふたりで向かいます。
マルムス様、案内をお願いできますね?」
「もちろんです」
マルムスは直ちに伝令に命じる。マルムスと、神父ふたりを暴徒の元へと案内するようにと。
伝令の後をついて、マルムスと神父ふたりは教会を出る。やはり外は喧噪であふれている。
それにしても。とマルムスは思う。なぜヨハネス神父は振り香炉を用意させたのだろうか。香を振りまけば暴徒達も落ち着くとの判断だろうか。
疑問に思っている間にも、暴徒と兵士達がもみ合っているところへとたどり着いた。マルムスは兵士をかきわけ、神父ふたりを最前線へと連れて行く。
最前線に出たアンドロニコス神父が、大きく轟く声で言う。
「神慮めでたく」
暴徒と兵士の叫び声もかき消すほどの大声に、その場にいた全員の動きが止まり、長身のアンドロニコス神父に視線が集まる。
アンドロニコス神父はすこし口調をやさしくして言葉を続ける。
「今日は聖木曜日です。このような日にこのようなことを起こすのは余程の事情があるのでしょう。
誰か事情を聞かせてはくれませんか?」
口調に違わず穏やかな表情のアンドロニコス神父に、暴徒達の中から年かさの男が出てきてこう言った。
「我々はキリスト者です。ですが、かつての同胞が重税で苦しんでいるのを見ているのは忍びないのです。それを訴えるために、我々は宮廷へと向かっているのです」
その言葉に、ヨハネス神父がにこりと笑って返す。
「それでしたら、今ここに皇帝の代弁者、プライポシトス殿がいらっしゃいますので、直接お話しになってはどうでしょうか」
年かさの男がヨハネス神父の前に立っているマルムスを見る。マルムスは、もう話はわかっていると手で示してから口を開く。
「事情は伺っております。
異教徒に重税が課されているということは、私も十分存じております。
陛下が無事帰還されたら、進言しましょう」
マルムスの言葉に、年かさの男がくってかかる。
「そうは言っても、陛下はいつ帰ってくるんだ。あんたが皇帝の代弁者だって言うなら、あんたがなんとかできるだろう?」
ほんとうなら、なんとかできるだけの権限がマルムスにはある。けれども、宮廷内の利権がそれを許さない。マルムスはむなしく笑って頭を横に振った。
年かさの男がマルムスの胸ぐらをつかもうとする。暴徒がまた暴れ出そうとする。その瞬間、年かさの男はうめき声を上げて暴徒の中へと吹き飛んだ。ヨハネス神父が、振り香炉で男に重い一撃を加えたのだ。
「いくらあんたらがキリスト者になったからといって、一方的な暴力を認めるわけにはいかないんでね」
ヨハネス神父の厳しいひとことに、暴徒達が襲いかかってくる。身構えるマルムスをアンドロニコス神父が兵士の方へと突き飛ばす。そして、ヨハネス神父とアンドロニコス神父のふたりが、振り香炉を振るって暴徒達をなぎ倒していった。
「どうせ聖木曜日の今日暴動を起こせば兵士達が反撃できないと思ってやったんでしょ?
甘いよ。血を流さなければいいだけのことなんだからね!」
いつもの礼儀正しい態度はどこへやら、ヨハネス神父が暴徒を威嚇しながら振り香炉を振るう。その姿だけでもおそろしいのに、傍らには同じく振り香炉を振るう巨体のアンドロニコス神父がいる。
血を流さなければいい。その言葉の通り、神父ふたりは血を流すことがないまま、暴徒達をなぎ倒していく。剣と盾を持った兵士達は呆然とし、暴徒達は恐れおののく。そして気がつけば、暴徒達はおとなしくなっていた。
静かになった暴徒達に言い聞かせるように、アンドロニコス神父が穏やかな声で言う。
「我々はわかり合うことができます。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」
いいことを言っているのだけれども、散々なぎ倒したあとに言われてもこわいんだよな。と思いながら、マルムスはアンドロニコス神父の横に立つ。
「税については必ず計らいます。ですから、今日のところはこのまま引き下がってください」
マルムスの言葉に、暴徒達は不満げだ。その様子を見て取り、マルムスは切り札を出す。
「サラディンの名をあなた方もご存じでしょう。彼も異教徒を押さえ込むような重税には反対しています。
彼と共に陛下に進言することを、神の名のもとに誓いましょう」
突然出てきたサラディンの名にざわめきが走る。それから、所々から安堵の声が聞こえた。
マルムスは神の名に誓うということを示すために、ヨハネス神父に祝福をもらう。
そして、サラディンにはどう説明しようかと頭を悩ませた。




