第二十八章 皇帝の出陣
兵士達が競馬場に集められた。出陣の時が来たのだ。
競馬場の広場には兵士が、観客席にはそれぞれの場所に民衆や軍事貴族、官僚や元老院が座っている。
マルムスは競馬場の建物の中を歩く。すぐ後ろには皇帝がいる。出陣式が終わったら、皇帝はすぐにこの都を出てしまうだろう。
皇帝の席へと続く暗い廊下を歩いていると不安になる。皇帝はきっと勝利を携えてくるという思いはあるけれど、万が一がないとは言えない。その時、どう立ち振る舞えばいいのか、マルムスにはまだ考えられないのだ。
ふと、背後から低い声が聞こえる。
「私が開けている間、都と宮廷を頼んだぞ」
「かしこまりました。必ずや都と宮廷を守り抜きます」
決意のこもった声でマルムスはそう返す。それから、ぽつりとこう付け足した。
「アスケノスとサラディンがいれば、大丈夫です」
実際のところ、アスケノスとサラディンが宮廷内で大きな権力を持っているわけではない。けれども、心強い友人が頼れる距離にいるという事実は、マルムスの気持ちをしっかりとさせてくれるのだ。このことを皇帝もわかっているだろう。
「敵は宮廷内にもいるだろう。わかっているな?」
「承知しております」
重々しい皇帝の言葉に、マルムスも重々しく答える。宮廷内にいる皇帝の敵が動き出したとき、それらを押さえるのはプライポシトスであるマルムスの責務なのだ。
皇帝の席に出る。まぶしい光が降り注ぐ。兵士達の歓声が耳をつんざいた。
競馬場内を一望できる席に座り、皇帝がぐるりと見渡す。皇帝がみなを見ているということを仕草で表しているのだ。それはすなわち、この国すべてを皇帝が見渡しているということの表れになる。
ふと、皇帝が不自然に一カ所に目を留め、一瞬だけ微笑んだ。皇帝がなにに目を留めたのかマルムスにはわからないけれど、そのままいつも通りの流れが進んでいったので、マルムスの脳裏から疑問はすぐに消えた。
「出陣に当たり、これより陛下からお言葉があります」
この国の旗を他の宦官に掲げさせ、マルムスが大声で競馬場にいるみなに宣言する。ざわめいていた兵士達が、たちどころに静まりかえった。
皇帝が席から立ち上がり、マルムスの前に出る。それから、よく響き渡る大きく低い声で、兵士達と民衆を鼓舞する演説をはじめた。
演説の内容は、皇帝自らが考えたものだ。内容を考えるにあたって資料を集めたり情報を集めたりしたのはマルムス。本来なら、演説の内容を考えるのもマルムスの仕事なのだけれども、自分で内容を考えなければ不測の事態に対応できないとのことで、皇帝が自ら演説の内容を考えているのだ。
演説の内容は紙に書き出し、より効果的に兵士を鼓舞できるよう、何度も検討しながら練り込まれている。今皇帝がしているように、どのような身振り手振りをするのが効果的かも十分に検討し、練習した。
身振り手振りを加えながら大声で演説をするのは、想像以上に難しい。腕の動かし方によっては胸が圧迫され声が出しづらくなるし、なにより、なにを言うときにどう動くかを常に同時に考えなくてはいけないのだ。正直マルムスにはできる気がしない。
その皇帝の努力を、民衆や兵士はもちろん、軍事貴族も、官僚も、元老院も知らないだろう。皇帝以外で知っているのはただひとり、マルムスだけなのだ。
その努力のたまものである演説の最後に、皇帝がこう言った。
「我々にふさわしい言葉はなにか」
それは兵士達に問いかけるものだ。急な問いかけだけれども、兵士達は一糸乱れることなく、すぐさまに青い旗と緑の旗を振りながら大声で答える。
「勝利!」
兵士達の声に、皇帝は右手を挙げて応える。それから兵士達が静まるのを待って手を下ろし、席の前にある階段を降りていった。
マルムスは立ったまま、階段を降りる皇帝を見送る。階段の下にはいつか軍事貴族が献上した白馬が待機している。階段を降りきった皇帝は、あの白馬に乗って出陣するのだろう。気持ちが高ぶり、同時に不安も押し寄せてくる。複雑な気持ちを抱えたまま、マルムスは皇帝の出陣を見送った。
皇帝が出陣したあと、マルムスは出陣式に同席していた皇母を後宮へと送っていった。これもプライポシトスの勤めだ。
皇母が無事に部屋に帰り、マルムスも仕事のために宮廷に戻るかと後宮の廊下を歩いていると、中庭から話し声が聞こえてきた。ゾエとドラコーネーがなにやら話しているようだ。
「お姉様、陛下は次いつ帰ってくるのかしら?」
いかにも不安そうなゾエの声に心配になり、マルムスは中庭に入る。そこにいたのはやはり、花壇に座っているドラコーネーと、ドラコーネーの膝にもたれかかっているゾエだった。
ゾエはちらりとマルムスを見てから、ドラコーネーの膝に顔を伏せてしまう。
「無事に帰ってくるかわからない戦に行くのを止めないなんて、マルムスはいじわるよ」
拗ねたようなゾエの言葉に、マルムスは苦笑いするほかない。
すっかり拗ねてしまったゾエの頭をやさしく撫でながら、ドラコーネーがあやすように言う。
「心配なのは私も同じです。
ですが、陛下は常に勝利と共にあります。
今回も堂々と帰ってくるでしょう」
「そう……そうよね。
ドラコーネーが言うなら、そうなのだわ」
ようやく納得できたのか、ゾエがゆっくりと顔を上げる。それから、ドラコーネーの手を取った。
「それでも、陛下の無事は心配だわ。
だからお姉様、陛下のために一緒に神様に祈ってくださらない?」
その言葉に、ドラコーネーはやさしく手を握り返して微笑む。
「もちろんですとも」
ふたりのやりとりを見ていたマルムスは、すかさずこう提案する。
「それでしたらゾエ様、教会から神父様をお呼びいたしましょうか」
マルムスの提案に、ゾエとドラコーネーが視線を交わし合い、ゾエがいたずらっぽく笑う。
「いいえ、私、お姉様と一緒に教会へ行きたいわ。いつも陛下が行ってらっしゃる教会。
マルムスもついてきてくれるわよね?」
まさか自ら教会に行きたいと言い出すとは思っていなかったので、マルムスは少しおどろく。しかし、普段礼拝の時以外に後宮から出ることのないゾエからすれば、皇帝のために祈りを上げるという名目で、後宮の外に出たいのかもしれない。
それを察したマルムスは、にこりと笑って返す。
「もちろんですとも。ドラコーネー共々、ゾエ様をお守りします」
一礼をするマルムスに、ゾエはまたいたずらっぽく言う。
「お母様とおばあさまには内緒にしていてね」
「内緒にせずとも、陛下のために祈っていたともなれば、母君も皇母様もお怒りにはならない、むしろ褒めてくださるでしょう」
いざとなったら自分が言いくるめる。という気持ちの入ったマルムスの言葉に、ゾエはくすくすと笑う。
「では、行きましょうか」
マルムスがゾエの手を取って立たせ、ドラコーネーも立ったところで、三人は中庭をあとにした。
いつもの教会に行き、マルムスはヨハネス神父に祈りと祝福の言葉をお願いしようと思ったけれども、ヨハネス神父は間が悪く外出中とのことだった。なので、その弟であるアンドロニコス神父に祈りと祝福の言葉をあげてもらう。
「神慮めでたく」
いつも通りの挨拶のあとに紡がれる言葉を、ゾエもドラコーネーも、マルムスも指を組み、目を閉じて聞いている。
そして祈りの言葉が終わり、祝福の言葉を受けた後、アンドロニコス神父はこう言った。
「陛下の身が心配な気持ちは、私にもよくわかります。ですが、陛下は先ほど出陣の際に、勝利の象徴である白馬に乗って出かけられました。必ず勝利を収めて凱旋なさるでしょう」
堂々としたアンドロニコス神父の言葉に、ゾエもドラコーネーも安心したようだ。
一方のマルムスは、軍事貴族が献上した赤毛の馬のことを思い出していた。
白馬は勝利。では、赤い馬はなんであったか。そのことを考え、皇帝が言っていた宮廷の中にも敵はいる。という言葉を思い返す。
赤い馬は、慣れないうちに戦地に連れて行くのは不安があるからと、宮廷の厩につないである。
赤い馬が意味するもの、それは……
この先、宮廷内で面倒なことが起こるかもしれない。その時は、なんとしてでもゾエを守り抜かなければとマルムスは思った。




