第二十七章 ラケダイモンの戦歌
財源も確保され、かねてより生産を進めていた糧食がそろいはじめた頃。皇帝が軍事貴族や兵士達に指示を出して遠征の準備を進めていた。
この国の繁栄のためには戦が必要だというのはわかるけれども、皇帝が長い期間都を離れるというのは、マルムスにとって心細いことだ。
なぜなら、皇帝の代弁者であるプライポシトスという立場にあっても、宦官であるからという理由で、マルムスは他の軍事貴族や官僚、元老院から軽んじられがちだ。皇帝の代弁だと言っても、取り合ってもらえず政務が滞りがちになってしまうからだ。
滞りなく政務を進めるためには、皇帝の存在が必要だった。
遠征の準備を進める皇帝の補佐を、マルムスが複雑な心境で務めていると、ある軍事貴族が訪れてきた。かつて皇帝の凱旋祝いに立派な白馬を献上してきたあの軍事貴族だ。
「陛下、戦に先立ち献上したいものがございます」
それを聞いた皇帝が、ちらりとマルムスを見る。皇帝に代わり、マルムスが軍事貴族に返す。
「どのような献上品ですか?
戦の前ですし、盾や武器でしょうか」
マルムスの問いに、軍事貴族ははつらつと答える。
「盾や武器ではございません。ですが、必ずや此度の戦で役に立つものです。
前庭にご用意しておりますので、ぜひご覧ください」
マルムスと皇帝とで一瞬目配せをする。それから、皇帝が立ち上がった。皇帝に代わりマルムスが言う。
「あなたが以前、立派なものを献上したのを覚えています。陛下をその献上品の元まで案内してください」
「かしこまりました」
先導する軍事貴族のあとを、皇帝とマルムスがついて行く。宮廷を抜け前庭につくと、そこには兵士に付き添われた立派な赤毛の馬がいた。
「ほう」
皇帝が感心したように声を漏らす。それが聞こえたのか、軍事貴族はこう言った。
「こちらも、我が領内で評判の馬です。
以前献上した白馬ほどの駿馬ではないのですが、力は強いです。
必ずや、此度の戦で役に立つでしょう」
意気揚々とした軍事貴族のようすを見て、マルムスは皇帝に視線をやる。皇帝はマルムスの視線に頷いて返し、赤毛の馬に近寄る。
「少し試させてもらうぞ」
そう言うやいなや、皇帝は馬具をつけていない赤毛の馬に飛び乗り、たてがみをつかんで馬の動きを見ている。
まさか馬具無しで乗るとは思っていなかったのだろう、軍事貴族は驚きを隠せない。皇帝は不敵な笑みを浮かべて軍事貴族に言う。
「これもいい馬だ。ありがたく受け取ろう」
皇帝の言葉に軍事貴族が深く頭を下げている間に、皇帝はひらりと馬から飛び降りる。それから、赤毛の馬を厩へと連れて行くよう、兵士と軍事貴族に命令した。
軍事貴族が赤毛の馬を厩へと連れて行ったあと、皇帝は執務のために宮廷に戻る。ところが、執務室に戻る途中、突然こんなことを言った。
「マルムス。今頃ドラコーネーは後宮にいるだろうか」
突然のことにおどろきながら、マルムスは答える。
「そうですね。今の時間は薬草の世話をしているか、もしくはゾエ様の要望があればゾエ様のところにいるでしょう。いずれにせよ、後宮にいるかと」
それを聞いた皇帝は、一瞬足を止めて、宮廷の奥を見る。
「後宮に行くぞ。ドラコーネーに用がある」
「……? かしこまりました」
なぜ皇帝がドラコーネーに用があるのか。理由はわからないけれど、マルムスはついて行くしかない。不思議な気持ちを抱えながら宮廷を抜け、後宮に入る。それから中庭に入り見渡すと、レバンタの手入れをしているドラコーネーの姿が見えた。
ドラコーネーがいることを確認したマルムスがドラコーネーに声をかけようとした瞬間、皇帝が大きな声で呼びかけた。
「ドラコーネー。仕事の調子はどうだ」
まさか皇帝が自分から声をかけるとは思っていなかったマルムスはおどろいたし、突然声をかけられたドラコーネーもおどろいたようだ。すぐさまに後宮どころか宮廷にまで響きそうな大声で返事を返してきた。
「陛下、なにかご用ですか!」
耳をつんざく大声にマルムスが圧倒されていると、皇帝は鷹揚に笑いながらドラコーネーに返す。
「さすがは大音声にその名轟くドラコーネー。いい返事だ」
皇帝がドラコーネーに近づくので、マルムスもそれについて行く。ここまで来ても、マルムスには皇帝の意図がわからない。
そう思っていると、皇帝がドラコーネーにこう言った。
「私はもうじき、また戦に行く。その時にはお前にも見送って欲しい」
まさかこれを言うためだけに皇帝はドラコーネーに会いに来たのだろうか。遠征の見送りは、わざわざ頼みに来なくてもドラコーネーも参加するだろうのに。
マルムスがますます不思議に思っていると、皇帝がこう続ける。
「だから、勇猛なるラケダイモン。お前達に伝わる戦歌を私のために歌って欲しい。
戦い抜く力と勇気が沸くよう。そして、勝利が摂理となるように」
皇帝の言葉に、マルムスはますます混乱する。今まで皇帝がこのようなことを教会の神父以外に求めたことがないので、なぜ急にドラコーネーに祈りを求めるのかがわからないのだ。
戸惑うマルムスをよそに、ドラコーネーは皇帝の言葉に頷き、深く息を吸って歌い出した。
「ΑΓΕΤΩ ΣΠΑΡΤΑΣ ΕΝΟΠΛΙ……」
ドラコーネーのちいさな身体からは想像もできない大きく響く声。勇ましく、威風堂々としていながらもその歌声は澄んでいて、古いギリシャ語がわからないマルムスも、つい聞き入ってしまうほどだ。
ちらりと皇帝のようすを見ると、皇帝も厳粛な表情で聞き入っている。皇帝が修道士達の歌う聖歌以外に聞き入るなど言うのは珍しい。いや、もしかしたらはじめてかもしれない。珍しいこともあるものだ。
珍しいことだけれども、ドラコーネーが歌う戦歌を聞いていると、戦地に赴かないマルムスにも勇気と闘争心が沸いてくる。たしかにこの歌には力があった。
ドラコーネーが歌い終わり一礼をすると、皇帝は深く頷いてドラコーネーに言う。
「見事な歌だった。私が遠征から帰ってきたら、また聴かせてくれ」
「は、はい。陛下がそうおっしゃるのでしたら、何度でも」
緊張しているのだろう。うつむいたままそう返すドラコーネーに、皇帝がまた一言言う。
「面を上げよ」
ドラコーネーがぎこちなく顔を上げる。緊張はしているのだろう。けれども、その瞳はまっすぐ皇帝を捕らえている。見送って欲しいという皇帝の言葉に応えるのにふさわしい表情だ。
「私がいない間、ゾエのことを頼む」
皇帝がそう言うと、ドラコーネーは兵士のようにきびきびとした動きで一礼する。
「かしこまりました」
その返事を聞いて、皇帝は満足げに頷き、中庭をあとにした。
執務室に戻る途中、マルムスが皇帝に訊ねる。
「陛下、ドラコーネーの歌はどうでしたか?」
その問いに、皇帝は満足げに答える。
「さすがは戦に秀でたラケダイモンの歌だ。戦うための力が沸いてくる」
皇帝がちらりとマルムスを見てにやりと笑う。
「お前もそうだっただろう?」
「えっと、はい。その通りです」
まさか、黙って側に立っていただけのマルムスの内心まで察していたとは。察しのよさにマルムスは感心するほかない。
「陛下がドラコーネーの歌を欲した理由も、わかった気がします」
マルムスの率直な言葉に、皇帝は頷く。
「そうだろう。
しかし、あいつが男だったら是非とも戦地に連れて行きたいものだったのだがな。
きっと活躍しただろう」
いかにも惜しそうな皇帝の言葉に、マルムスは思わず微笑む。
「陛下は、ずいぶんとドラコーネーのことを気に入っておられるのですね」
この言葉に、皇帝は不敵に返すだろう。マルムスがそう思っていると、予想外の反応が返ってきた。なぜか皇帝が黙り込んでしまったのだ。どうしたのだろうと皇帝の顔をのぞき込むと、真っ赤になっている。
なにか気に障ることでも言ってしまっただろうかと、マルムスは思わず背筋を伸ばす。
皇帝は、黙ったままだった。




