第二十五章 断食の頃
冬も深まり降誕祭が近づいてきた頃のこと。教会で降誕祭の儀式があるということもあり、宮廷の方もなにかと慌ただしくなっていた。
しかも、今は降誕祭を控えた断食期間中だ。肉を食べることを禁じられていて、どうにも力がみなぎらない。
宦官で、身体が小さいマルムスでさえ肉抜きの食生活では疲れやすく、本領発揮ができないというのにもかかわらず、今目の前で食事をしている皇帝は、文句ひとつ言わずわずかながらの豆と麦粥を食べている。
皇帝は、マルムスよりもずっと体格がいい。いくら断食期間中とはいえ、その身体を支えるのに、これだけの質素な食事でほんとうに大丈夫なのだろうかと心配になる。
女官が皇帝の食器を下げたあと、皇帝がマルムスに言う。
「私はそろそろ休む。お前も食事をして休め」
「かしこまりました」
マルムスは皇帝の自室から出て、外に控えていたミカエルに後を引き継ぐ。ミカエルも皇帝の寝支度を整えたら夕食にありつけるのだろう。
自室に戻る途中、マルムスはなんとなく思い立ち、サラディンとアスケノスのところへ寄って一緒に食事をしないかと声をかける。その声かけに、ふたりとも意気揚々とついてきた。
マルムスの自室に向かう途中で女官とすれ違ったので、三人分の食事をマルムスの部屋に運ぶよう指示を出す。その指示を聞いた女官は、一礼をしてこう答えた。
「かしこまりました。ドラコーネーに伝えておきます」
その女官に、アスケノスがにっこりと笑って言う。
「くれぐれもよろしくお願いします」
隻眼とはいえ爽やかなその笑みに、女官は顔を赤らめてから、名残惜しそうにその場を去って行った。
マルムスの部屋について、いつも通りの席に座った三人は、早速たわいもない話をする。
「それにしてもアスケノス。お前結構女官から人気があるのに浮いた話がひとつもないのはすごいよな」
サラディンがそう言うと、アスケノスはきょとんとして返す。
「そうなんですか? まあ、あの女官には特に興味が無いので」
女官と色恋沙汰で揉められても困るんだよなぁ。とマルムスが思っていると、ドアを叩く音が聞こえた。
「夕飯をお持ちしました」
マリヤの声だ。おそらく、ドラコーネーとふたり組で配膳をしに来たのだろう。
「どうぞ、入ってください」
マルムスがそう返すと、案の定、腕に食事を乗せたマリヤとドラコーネーが入ってきた。マリヤはもちろん、ドラコーネーも手際よく麦粥とゆでた豆をお盆からテーブルの上へと乗せていく。
「ふたりとも、食事はこれからですか?」
マルムスがそう訊ねると、マリヤがにこりと笑って答える。
「今日は早めに夕食をいただきました。
だからもうおなかがすいてるんですよね」
「わかる……」
おそらく、女官達の食事も麦粥と豆だろう。それだと、早めに食べてしまうとこの時間にはおなかがすくというのはマルムスにも容易に想像がついた。
配膳が終わったマリヤとドラコーネーが部屋から出ると、急にアスケノスが情けない顔をしてこんなことを言った。
「え~ん、お肉が食べたいです……」
その言葉に、サラディンが苦笑いをする。
「断食期間中なんだから我慢しろ」
「そうですけど、肉は身体を構成する大切な食べ物です。食べないのは身体に悪いんですよ。
そうだ、焼いた肉をパンで包んで食べれば神さまにもバレないんじゃないですかね」
「だめだぞ!」
肉に対する執着を断ち切れないアスケノスにサラディンが釘を刺すようすを見て、マルムスはついおかしくて笑ってしまう。
「今は降誕祭に向けて身を清めないといけない時期ですから、少しの間我慢しましょうね」
くすくすと笑いながらそう言うマルムスに、アスケノスはすねた顔をする。
「わかってます。でもおなかは空くんですよ」
不満の意を表してから、アスケノスは麦粥を口に運ぶ。マルムスも同様に麦粥を口に運ぶと、ほのかに甘い麦と塩気のあるガルムの味が調和していておいしい。親しみのある味だけれども、これと豆だけとなると物足りなさがあるのは頷けてしまう。
サラディンも、麦粥をいくらか食べてから、不満そうなアスケノスに言う。
「ローマには麦粥があるだろう。
麦粥とガルムはローマの魂だぞ」
その言葉に、アスケノスは納得できないといった顔だ。
「サラディンは麦粥だけで満足なんですか?」
物足りないといった顔のアスケノスの問いに、サラディンは苦笑いをする。
「まあ、正直言えば満足ではないな。
でも、そういう決まりだから」
その言葉を聞いてマルムスは、さすがモリスコの息子は規律に忠実だなと感心する。
粛々と規律を受け入れるサラディンとは対照的に、アスケノスはそれを受け入れがたいようだ。
「たしかに、断食期間の規律ですし、麦粥とガルムはローマの魂です。
でも、魂で腹は膨れないし、肉を食べないことによる身体の衰弱も心配なんですよ」
アスケノスの意見は、完全に医者としての意見だ。マルムスとしては、キリスト者としてサラディンの言い分もわかるし、民を治める皇帝の側に使えるものとしてアスケノスの言い分もわかる。どちらにも同意できるのだ。
しかしそれはそれとして。
「私も、麦粥と豆だけでは物足りないですね」
困ったように笑って言うマルムスに、サラディンはわざとらしく真面目そうな顔をしてこう返す。
「人はパンだけでなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によると聖書にもある。
あのアンドロニコス神父がそう言ってこの言葉に従って断食してるんだぞ?
俺たちにできないはずがない」
その言葉に、マルムスとアスケノスの脳裏に、教会の礼拝後におやつを食べていると、頻繁に分けてくれるよう無言のおねだりをしに来るアンドロニコス神父の姿と笑顔が浮かぶ。
「アンドロニコス神父ができるなら、それはそうなんですよね」
聖職者なのにもかかわらず食いしん坊なアンドロニコス神父を思い出してマルムスがくすくすと笑っていると、アスケノスは口に詰め込んだ豆を飲み込んで泣き言を言う。
「それはそれ、これはこれです!
肉が食べられないなら、せめて魚が食べたいです。人はパンだけでなく、生きるものを食べることによるんですよ……」
めそめそと泣きまねをするアスケノスの言葉に、マルムスは少し考えてサラディンに言う。
「なんか、魚はギリギリ許される気がしませんか?」
「たしかに。魚はマジのギリギリで許される気がする」
マルムスとサラディンのやりとりに、アスケノスが天井を仰ぐ。
「あー、塩振って焼いたお魚が食べたいです」
「食べたいですね」
「酒が欲しくなる話をするな」
同意するマルムスと、なんとか我慢しようとするサラディン。アスケノスのひとことでだいぶ魚を食べたい空気になってしまった。
しばらく三人で、食べたい魚の話をしつつ食事をしていたけれども、ふと、マルムスがぽつりとこう言った。
「とはいえ、陛下も麦粥と豆だけで過ごしているのですから、我々も見習わないと」
その言葉に、アスケノスは少し表情を曇らせる。
「陛下は厳しすぎるほどに自律できている立派な方です。でも、だからこそ、自律しすぎて身体を壊してしまわないかが心配です」
自律できているが故に身体を壊してしまうかもしれない。その言葉にマルムスは心臓を握りつぶされそうな心地になる。
たしかに、皇帝は他人以上に自分に厳しい。先ほど食べていた食事も、内容こそマルムスの目の前にあるものと同じとはいえ、これよりも量が少なかったのだ。
それでもなお、皇帝はのしかかる執務をこなしている。皇帝なら大丈夫だと、なぜなんの根拠もなしに思っていたのだろう。
アスケノスが言葉を続ける。
「陛下が緋室の生まれでなければ、立派な聖職者になっていたでしょうし、その方がしあわせでしたでしょうに……」
その言葉に、マルムスもサラディンも同意しかない。皇帝が聖職者であったなら、今とは違う形で人々を導き、この国を守っていたかもしれないのだ。
しかしそれはそれとして。とマルムスは思う。もし皇帝が神父や司祭になっていたとしたら、食いしん坊のアンドロニコス神父は何度も叱られていただろうし、兄のヨハネス神父も気が気でないだろう。
なんだかんだで、今のままの方がいい気がした。




