第二十四章 女官と葦ペン
皇帝が痘瘡を避ける施術をしてから二週間後のこと。一時は熱を出したり腕の痛みを訴えていたものの、今では回復し執務に当たっている。
あの日、皇帝と共に施術を受けたマルムスも、熱と身体の痛みに悩まされはしたけれども、動けないほどではなかったので、ずっと皇帝の側に控えていた。皇帝に少し遅れて回復した今は健康な身体を謳歌している。
執務が一区切り付き、部屋の中が静かになる。少しの間マルムスも皇帝も黙っていたけれども、ふと、皇帝が思いだしたようにこう言った。
「そうだ、ドラコーネーを呼んでこい」
「ドラコーネーをですか?
かしこまりました」
突然どうしたのだろう。不思議に思いながらマルムスは執務室を出て後宮に向かう。
いつものようにドラコーネーは庭の手入れをしているだろうか。そう考えたマルムスが庭に足を踏み入れ見渡すと、どこにも人影はない。ここにいないのならどこにいるのだろう。ゾエの側に控えているのだろうか。
庭から後宮の廊下に戻りうろうろしていると、ゾエの部屋に向かう途中の廊下に、かつて皇帝がドラコーネーに褒美として与えた盾と槍の余りが飾られていて、丁寧に乾燥させた花で彩られている。
これはゾエがやったのだろうなぁ。そう思いながらマルムスが盾と槍を眺めていると、廊下の向こうからマリヤがやってきた。
これはちょうどいいと、マルムスが声をかける。
「マリヤ、ちょうどいいところに。ドラコーネーがどこにいるか知りませんか?」
その問いに、マリヤは宮廷の方を指さして答える。
「ドラコーネーならアスケノス様のところに薬草を届けに行っております」
「そうなのですね、教えてくださりありがとうございます」
快く教えてくれたマリヤに笑顔を返し、マルムスは宮廷へと戻る。向かう先はアスケノスのいる医務室だ。
途中、他の宦官や女官とすれ違いながら医務室にたどり着く。ドラコーネーはまだここにいるだろうかと思いながら、マルムスはドアを叩いた。
「失礼します。ドラコーネーは来ていますか?」
そう言いながらドアを開けると、部屋の奥でドラコーネーが椅子に座っているのが見えた。傍らには、ドラコーネーの片腕を撫でているアスケノスがいる。
「その後、施術の痕はどうですか? 痛みませんか?」
心配そうにそう訊ねるアスケノスに、ドラコーネーはくすくすと笑って答える。
「もう、心配しすぎですよ。もうかさぶたもはがれましたのに」
「ああ、でも、白い腕のドラコーネー。この腕に傷を残してしまって、僕は……」
「これくらいただのかすり傷ですよ。それに、傷が消えなくてもこれは名誉の負傷です」
どうやらふたりともマルムスが来たことに気づいていないようだ。いくら女の身体とはいえ、アスケノスが施術の傷を残したことに動揺するなんて意外だと思いながらマルムスは大きな声でふたりに声をかける。
「お話中のところ失礼します。
陛下がドラコーネーのことをお呼びです」
突然のことでおどろいたのだろう、ドラコーネーが少し緊張した顔でマルムスの方を見る。
「陛下がお呼びなのですね。
では、ただいま参ります」
椅子から立ち上がるドラコーネーに、アスケノスが笑いかける。
「余り緊張しないようにしてくださいね」
その言葉にドラコーネーは頷いて、マルムスの隣に来た。
「では行きましょう。失礼しました」
ドラコーネーを連れて医務室を出たマルムスは、執務室に向かって歩きはじめる。
その道中、皇帝がドラコーネーを呼んでいると聞いて、一瞬だけ表情を消したアスケノスのことが気になっていた。
「陛下、ドラコーネーをお連れしました」
執務室に着き中に入ると、緊張しているのかドラコーネーはおどおどとした態度になっている。なんの用事かも訊くことができないでいるドラコーネーに、皇帝が笑いながら言う。
「ずいぶんと怯えているな。勇敢なラケダイモンらしくない」
「あ、あの、陛下のご用命を受けることなど滅多にないことですので」
そういえば、皇帝はどんな用事でドラコーネーを呼んだのだろう。マルムスは用件を聞いていないことに今更ながらに気がついた。
訊ねるべきか、皇帝が話すのを待つべきか。マルムスが考えている間に、皇帝が口を開いた。
「ところでドラコーネー。
以前お前にやった、私が書いたお前の名はまだ持っているのか?」
その問いに、ドラコーネーの顔がみるみるうちに赤くなる。それから、かすれそうなほど小さな声でこう答えた。
「あの、いつも肌身離さず持ち歩いております……」
「いつもなのか?」
「その、疲れたときに見ると、元気が出るので……」
視線を落としているドラコーネーのことを、皇帝が微笑んだままじっと見つめている。
そのようすを見てマルムスは、なんだかいつもと様子が違うな。と思ったけれども、この違和感を表現する言葉が見つからないので黙っている。
突然、皇帝が壁際にある棚の引き出しを指さしてマルムスに言った。
「その中にあるものを出して、それをドラコーネーに渡せ」
「はい、かしこまりました」
突然のことに、マルムスにはなにが起こったのかがわからない。皇帝が指さした引き出しに、なにか特別なものを入れた記憶がないからだ。不思議に思いながら引き出しを開けると、中には一本の葦ペンが入っていた。しっかりと乾燥させてあってゆがみのない、実直な作りのもので、これも名工が作ったものだろうというのが手に取るようにわかる。
マルムスは葦ペンを取り出して、ドラコーネーに差し出す。すると、ドラコーネーはそれを受け取って戸惑ったように皇帝に訊ねた。
「陛下、これはいったいどういうことなのでしょうか?」
「それをお前にやる」
本来なら、読み書きなど女にやらせることではない。けれども皇帝はドラコーネーに葦ペンを賜った。いったいどういうことなのだろうか。
ドラコーネーはもちろん、マルムスも戸惑っていると、皇帝がにやりと笑ってこう言う。
「それがあれば、ドラコーネーも自分の名を書く練習ができるだろう」
その言葉に、ドラコーネーはじっと握った葦ペンを見て、震える声でまた訊ねる。
「どうして、そのようなお戯れをなさるのですか?」
いったいどういう気持ちを抱いているのだろうか。葦ペンを抱きしめるドラコーネーに、皇帝は鷹揚に答える。
「先日、身体を張って痘瘡を防ぐ施術を受け、兵士達に広めるための貢献をしたことの褒美だ。この功績は大きいぞ」
きっと、そこまで功績のあることをした自覚がないのだろう。ドラコーネーは葦ペンを抱いたまま、顔を真っ赤にしてぎこちない笑みを浮かべている。
ふと、マルムスは疑問に思ったことを皇帝に訊ねる。
「たしかにドラコーネーの功績は大きいです。ですが、それ以上にアスケノスの功績も大きいはずです。彼にはなにか与えましたか?」
その問いに、皇帝は深いため息をついてこう答えた。
「なにか珍しい毒を食べてみたいと言ったので却下した」
「ですよね」
実にアスケノスらしい要望だと思ったが、それ以外になにか望むものはなかったのだろうか。マルムスがそう思っていると、皇帝がこう続けた。
「他になにか望みはないのかと問い詰めたのだが、それ以外にはなにもいらないと言って聞かなくてな。
あいつは欲が無くて信頼できる男だが、少々つまらん」
皇帝の言葉にマルムスがまた訊ねる。
「陛下からのお褒めの言葉もほしがらなかったのですか?」
「ああ、それすらもいらないと言われた。
アスケノスのことがなにもわからぬ……」
また深いため息をついている皇帝を見て、アスケノスはマルムスが思っていたよりも無欲なのだなと驚きを禁じ得ない。もしマルムスが皇帝からの言葉を褒美でもらえるとなったら、よろこんでもらうだろうからだ。
ふと、マルムスは疑問に思う。アスケノスが皇帝からの言葉を拒否したのは、ただたんに無欲だからなのだろうか。ほんとうは他に理由があるのではないだろうか。
しかし理由があったとしても、マルムスにはその理由が想像できなかった。




