第二十三章 人痘接種
ケセノン視察からふた月ほど経ったある日、皇帝がマルムスに命じて軍医とアスケノスを執務室へと呼び出した。用件はいたって簡潔。痘瘡の治療法は無いのかということだ。
皇帝は、マルムスから聞いた痘瘡患者の報告に興味を示した。いや、もっと正確に言えば、心を痛めていたのかもしれない。
大まかないきさつを聞いた軍医は、難しい顔をして皇帝の問いに答える。
「治療法ですか……難しいですね。
痘瘡にかかった患者のためにできることと言えば、熱と痛みを抑える薬を出すことくらいです」
明確な治療法がないのが口惜しいらしく、軍医はいかにも沈んだ表情だ。
そこへ、アスケノスが堂々と口を開いた。
「治療法は確立されていませんが、かからないようにする方法は見つけました」
「ほう?」
皇帝が鋭い目でアスケノスを見る。軍医はいかにもおどろいた顔をしている。きっと、その方法というのをまだ聞かされていないのだろう。
「どういうことだいアスケノス。いつの間に」
戸惑う軍医に笑いかけてから、アスケノスはこう答える。
「先日ケセノンの視察に行ったあと、もしやと思った方法を試してみました」
自信満々といった様子のアスケノスに皇帝が訊ねる。
「どういった方法か教えてもらおうか」
「はい。健康な人の皮膚を少し切り、そこに乾燥させた痘瘡患者の膿をほんの少しだけ埋め込みます。すると、その後しばらくの間は熱を出しますが、熱さえ下がれば痘瘡にかかることはなくなります」
なにを言っているんだ? アスケノス以外の三人がそう言いたげな顔をする。
軍医が深いため息をつく。
「……アスケノス、いい加減なことを言うのはよしなさい。君はもっと真面目な子だろう」
苦々しい軍医の言葉にもアスケノスは動じない。
「いい加減なことではありませんよ。
実際に僕の身体で試しましたから」
けろっとした顔でそう言うアスケノスに、軍医は真っ青な顔をしてくってかかる。
「ばっ……なにをやってるんだお前は!
もしかして、この前しばらく体調を崩していたのはそれだったのか?」
「そうです。
あのあと何件かのケセノンで痘瘡患者の世話を手伝いましたが、この通りです!」
狼狽する軍医をよそに、アスケノスは袖をめくって両腕を見せる。左腕にちいさな切り傷の痕はあるものの、あばたはひとつもない。
それを見たマルムスは目をまるくしてつぶやく。
「ええ……ほんとうに効果があるんですね」
両腕を掲げてしたり顔をしたアスケノスが勢いづいて言う。
「効果があるんです!
ですからまずは、倒れてもらっては困る兵士達からこの処置をしていきましょう」
自信満々なアスケノスの言葉を皇帝が興味深そうに聞いていることに気づいたのか、軍医がアスケノスの腕を押さえてまたくってかかる。
「どうにも信用できん!
そもそもお前はいろいろな毒に耐性があるじゃないか! 無茶をするから!」
それはそうなんだよなぁ。と思いながら、マルムスの頭にはいままでのアスケノスのやらかしが浮かぶ。
アスケノスの言い分と軍医の言い分、どちらが正しいのだろうとマルムスが考えていると、皇帝が頷いて口を開いた。
「わかった。それなら私がその方法を試そう」
予想していなかった言葉に、マルムスと軍医は跳び上がるほどおどろく。
「お待ちください陛下。その、陛下が試されるのは他の者で効果を確かめてからでいいのではないでしょうか?」
「そうです。マルムス殿の言うとおりです。
どうか思いとどまってください」
必死で止めるマルムスと軍医に、皇帝は不服そうな顔をする。
「ならば、その他の者というのは誰だ」
皇帝がそういった直後、執務室のドアの向こうから大きな声が聞こえた。
「私がやります!」
この場に似つかわしくない女の声に、全員がおどろいた顔をする。
「マルムス」
「かしこまりました」
皇帝の意を汲んだマルムスは、すぐさまにドアを開ける。すると、そこに立っていたのは凜とした表情のドラコーネーだった。
「ドラコーネー、どうして……?」
呆然とした表情のアスケノスがそうつぶやくと、ドラコーネーは執務室の中へ向かいこう言った。
「失礼かとは思いましたが、外でお話は伺いました。痘瘡にかからなくするその方法を、私の身体でも試してください」
どうするべきか。その判断を仰ごうとマルムスが皇帝を見ると、珍しく動揺していた。
「……アスケノスの判断に任せる」
戸惑いながら吐き出されたその言葉に、アスケノスは少し考えてからドラコーネーに向き直る。
「わかりました。痘瘡の罹患暦が無いようでしたらあなたで試します。失礼ですが、肌を見せてもらってもいいですか?
あばたが無いかどうかを確認します」
「わかりました」
アスケノスの言葉を受けて、早速服に手をかけるドラコーネー。それを見て、皇帝はひどく慌てながらマルムスにマントを渡して命じる。
「アスケノス以外の男から見えないように隠せ! 早く!」
「かしこまりました!」
こんなに慌てている皇帝も珍しい。おそらく、こんなようすをみるのはマルムスでもはじめてではないだろうか。
とりあえず、ドラコーネーを執務室の中に入れドアを閉める。それから、軍医を皇帝の側に移動させ、彼らとドラコーネーの間に立ち、皇帝のマントを広げて目隠しにした。
当然マルムスも見ないようにドラコーネーに背を向けている。つまりは皇帝の方を向いているのだけれども、マントで隠しているにもかかわらず、皇帝は両手で目を隠している。
それを見たマルムスは、女慣れしていないにもほどがあるだろうと思った。
結果として、ドラコーネーの身体にはひとつもあばたが無かった。それを受けて、ドラコーネーに痘瘡患者の膿を埋める施術をしたところ、ドラコーネーは一週間ほど寝込んだ。
寝込んでいる間、面倒を見るのをアスケノスが買って出たのを皇帝が少しだけ不満そうにしていたけれども、毎日経過報告があがるので、文句は言っていない。
熱が下がってからは、一週間ほどドラコーネーをケセノンに派遣し、痘瘡患者の面倒を見るのに当たらせた。ほんとうに痘瘡にかからないかどうかを確認するためだ。
そしてその一週間も終わり、ドラコーネーは今も元気に後宮の庭の手入れをしたり、官僚達の給仕をしたりしている。肌にひとつのあばたも無いままに。
ドラコーネーの健康状態を報告書にまとめたアスケノスが、皇帝に報告しがてら軍医に言う。
「どうです? 証明されたでしょう!
なので、この施術を全軍に!」
意気揚々とするアスケノスの言葉に、軍医はため息をついて返す。
「陛下のご意向次第です」
そう言って、軍医は皇帝に礼をする。
それを見ていたマルムスには、もう皇帝の答えが分かりきっていた。
「兵士を集めよ」
「……かしこまりました」
予想通りの答えが出た。皇帝はこのまま、兵士を集めて全員にこの施術を受けさせるのだろう。
兵士を集めるために軍医が執務室を出ると、皇帝も立ち上がった。
宮廷の広い前庭に集められた兵士達に、ことのあらましを軍医が説明する。
「このように、アスケノス医師が痘瘡を退ける方法を見つけ出した。そして、それを全軍に施せという命を陛下から受けた。
覚悟するように」
それを聞いてざわめく兵士達に、軍医はさらにどのような方法かを説明する。すると案の定、兵士達からは反対の声が上がった。
ざわめきがうねる中、実験台を務めたとして連れてこられたドラコーネーが一括する。
「なにを恐れる!
ローマ兵は腰抜けばかりか!」
前庭中に響き渡る大声に兵士達が黙ると、すかさず皇帝がドラコーネーのことを手で制して言葉を続ける。
「兵士達の不安はわかる。
なので、恐れるものではないという証明に私がこの場で施術を受けよう。
それなら文句は無いな?」
威厳ある皇帝の言葉に兵士達は渋々頷くしかない。ここぞとばかりに施術の準備をしているアスケノスに視線が集中した後、マルムスにも兵士の視線が集まる。
これは自分も施術から逃げられないな。とマルムスは思った。




