第二十章 姉妹のような
今日も今日とて仕事が多い。
皇帝の執務に伴う使いで宮廷内を歩き回ったマルムスは、太陽が天頂に昇る頃、皇帝から休憩してくるようにと命じられ、気分転換に後宮の庭へと向かっていた。
皇帝もまだ執務から手が離せていないのに、休憩を取っていていいのかという疑問はあるけれど、休みなく働き続けると効率が落ちると、いつだったかにアスケノスが言っていたので、素直に休むことにしたのだ。
後宮に向かう途中、きれいなギリシャ語の歌声が聞こえてきた。おそらくイリアスだろう。道行く宦官や官僚、それに女官達も、足を止めて呆けたように聞き入っている。
誰が歌っているのだろう。不思議に思いながら後宮に入り庭に出ると、花壇に座っているドラコーネーと、その膝に身を預けているゾエの姿が目に入った。
ドラコーネーは慈しむようにゾエの頭を撫でながら歌を歌っている。なるほど、宮廷まで聞こえていたあの歌声は、ドラコーネーのものだったのか。
膝の上でまどろむゾエの頭を撫でているドラコーネーにマルムスが微笑んで訊ねる。
「こんなところでどうしたのですか?」
その問いに、ドラコーネーは歌うのをやめ、苦笑いをする。
「実は、ゾエ様に歌を歌って欲しいとおねだりされまして……」
「なるほど」
ドラコーネーの言葉にマルムスがゾエの顔を見ると、ゾエはうっすらと目を開けてから顔を伏せてしまった。
またゾエの頭を撫でるドラコーネーに、マルムスが再び訊ねる。
「膝枕もですか?」
「はい。膝枕もおねだりされてしまって」
ドラコーネーはそう言って困ったように笑うけれども、仲がいいのはいいことだ。しかし、それはそれとして若干の不安はある。
「ゾエ様がドラコーネーになついているのはいいのですが、その……そのようになれなれしくして母君と皇母様からお叱りは受けていませんか?」
マルムスが少し不安げにそう訊ねると、ドラコーネーのことをゾエが見上げた。その視線を受けて、ドラコーネーが答える。
「さいわい、ゾエ様が小さい頃からお仕えしているおかげか、大目に見ていただいています。ありがたいことです」
「そうですか、それはよかったです」
安心したマルムスが微笑むと、ゾエがドラコーネーの膝に腕を回して甘えるように言う。
「だって、ドラコーネーは私のお姉様だもの」
「ありがたきお言葉、恐れ多いです」
膝をつかむゾエの手をやさしく握ってドラコーネーが微笑む。すると、ゾエが少し不満そうな顔をする。
「恐れ多いだなんて言わないで。私はこんなに、あなたを慕っているのだから」
「お気持ちはうれしいのですが……」
微笑みながらも困ったように視線を送ってくるドラコーネーを見て、マルムスは軽く礼をしてゾエに言う。
「そうはおっしゃいましても、高貴なゾエ様と女官のドラコーネーでは、あまりにも身分差があるのです。
母君と皇母様が大目に見てくださってはいますが、そのことをゆめゆめお忘れなきよう」
すると、ゾエはますます不満そうな顔をしてドラコーネーにしがみつく。どうやらすねてしまったようだ。
この年頃の娘は難しいからな。とマルムスが思っていると、ドラコーネーがゾエの頭を撫でながら言い聞かせるように話しかける。
「そうですよ、ゾエ様。あなた様にもいずれ、すばらしいお相手を陛下が見つけてきてくださいます」
すると、ゾエは自信なさげな声を出す。
「そうかしら……?
私、陛下がお選びになるようなすばらしい方に釣り合うのかしら?」
頼りなさげな言葉に、ドラコーネーは微笑んで返す。
「もちろんですとも。ゾエ様は熱心に聖書のお話もお聞きになりますし、芯の強い方です。
足が遅くて的が大きいこと以外に欠点などございません」
なに目線の評価だ……?
マルムスはつい疑問に思ったけれども、ゾエは照れたようにドラコーネーを見つめて笑っている。
ドラコーネーはやさしくゾエの頬を撫でて、少し困ったように言う。
「それではゾエ様、私はそろそろ仕事に戻らなくては。庭の手入れもまだ途中ですし」
すると、ゾエは少し口をとがらせてから身を起こして立ち上がる。
「そうね。お仕事をしなかったら、お母様や皇母様から叱られてしまうものね。
じゃあ、私はお母様のところへ行って一緒に聖書を読んでもらうわ」
そう残して、ゾエはゆっくりと後宮の中へと戻っていった。
一方のドラコーネーも素早く立ち上がり、近くにあるハーブの枝を手に取って様子を見はじめた。
「マルムス様、アスケノス様からのお使いですよね?」
ドラコーネーのその言葉を聞いて、マルムスはおどろく。予想外のことを言われたのだ。
「いえ、今回はアスケノスのお使いではなく、陛下から少し休憩してこいと命ぜられたので、気分転換にここへ来ただけなんです。
気を遣わせてしまって申し訳ないです」
慌てて手を振ってマルムスがドラコーネーの勘違いを訂正すると、ドラコーネーははっとしてから苦笑いをする。
「それは……休憩中なのに気を揉ませるようなところをお見せしてしまったようで」
「いえ、お気になさらず」
ドラコーネーが言うように、多少気は揉んだけれどもそこまで気にするほどのことではない。これは事実だ。正直言えば仕事の方がよっぽど気を揉む。
いつまでもここにいたら、ドラコーネーも仕事をしづらいだろう。そう思ったマルムスは、一声かけてから仕事に戻ることにした。
一息入れて皇帝のところに戻ると、どうやら皇帝も執務に一区切りついていたようで、クッションを抱えてうたた寝をしていた。
こんな姿勢でうたた寝をしていたら身体を痛めてしまうのではないかとマルムスが声をかけようとしたとき、皇帝が目を開けてマルムスを見た。
「戻ったか」
「ただいま戻りました」
短いやりとりをして、しばし黙り込む。
それから、皇帝が口を開いた。
「ケセノンの夢を見た」
「ケセノンの、ですか?」
確認するようにマルムスがそう言うと、皇帝は黙って頷く。
そういえば、だいぶ前に経営再建のために手を入れたケセノンはどうなっているのか。そのことを思い出したマルムスは、皇帝に訊ねる。
「ケセノンの経営状況をまとめた書類をご用意させましょうか?」
その言葉に、皇帝は頷いて返す。
「そうしてくれ。特に、例のケセノンがどうなっているかを確認したい」
「かしこまりました」
短い返答をしてから、マルムスはまた執務室を出る。
宮廷の中を歩いて、目指す先はサラディンのいる部屋。あそこは法務以外にも会計関係などに関わる面倒な計算ごとを一手に引き受けているところだ。
時々宦官や官僚とすれ違いながら目的地に着いたマルムスは、ドアを叩いてから声をかける。
「陛下の言いつけで伺いました」
その言葉に、中から入るようにと返事が来る。マルムスがドアに手をかけて中に入った。
「国内のケセノンの経営状態をまとめた書類を、陛下がご所望です」
その言葉に、まとめ役が返す。
「かしこまりました。直ちに制作します」
これは時間がかかるだろうかとマルムスが思っていると、サラディンが話しかけてきた。
「そういえば、件のケセノンはだいぶ経営が回復したそうだ。陛下にお礼申し上げてくれとヨハネス神父から報告書が来てる」
「そうなんですね。報告しておきます」
皇帝が気にしていた情報が、思いのほかすぐに手に入った。マルムスがほっとしていると、サラディンがさらに雑談を続ける。
「そういえば、さっきどこからか歌が聞こえてきてただろ?」
「え? そうですね」
「きれいな歌が聞こえるって、アスケノスがぼんやりしてたよ」
たしかに、先ほどのドラコーネーの歌に聴き惚れている者は何人もいた。アスケノスもそのひとりだったのか。マルムスがそう思っていると、サラディンは予想外のことを言う。
「たしかにきれいな歌だったが、ここまで聞こえる声で歌われるのは困る」
「わかります」
たしかに、宮廷の中まで響く声は大きすぎる。マルムスは同意する。
「あの歌声で狂うやつが出かねないから、誰の歌かわかったらやめさせないと」
しかしサラディンのこの言葉には、そこまで大事だろうかと疑問に思った。




