第二章 軍医と医者
マルムスが元老院に叩きつける書類を仕上げ、突きつけてからしばらく。今度は遠征に出ている皇帝から、都に残している兵士達のようすを見るようにと伝令が来た。
自分にも他人にも厳しい皇帝のことだ、都に置いていった兵士がきちんと鍛練を積んでいるか抜き打ちで調べさせたいのだろう。
もちろん、ようすを見るというのは鍛練を積んでいるかということだけでなく、疫病が流行っていたり、体調不良者が出ていないかということの確認も含まれる。
とりあえず、皇帝から来た伝令のことは周りに知られないようにしたまま、マルムスは兵士達の日常をつぶさに観察している軍医のところへと向かう。
まずは、体調不良者がいないかどうかを軍医に確認して……そう段取りを考えながら軍医のいる医務室のドアを叩くと、中からなにかを殴る音が聞こえた。
「なにがあったんですか!」
ただならないことが起こったのかと思ったマルムスが扉を開けると、そこでは今まさに、軍医が医者であり彼の弟子である、隻眼のアスケノスの頬を殴っているところだった。
アスケノスが軍医を怒らせるようなことを早々するはずがない。これは理不尽な暴力ではないかと、マルムスが顔を青くしていると、軍医がもう一度アスケノスの頬を平手で叩いてこう叫んだ。
「いま口に入れたものを出せ!
ぺっしなさいぺっ!」
盗み食いでもしたのだろうか。なにがなんだかわからないままマルムスがアスケノスを見ると、アスケノスは腫れた頬にかまうこともなく口に含んでいたなにかの欠片をぺっと吐き出した。
「あの……なにがあったんですか……?」
事態が飲み込めないマルムスがそう訊ねると、軍医が苦々しい顔でこう答える。
「アスケノスが毒ニンジンを口にいれてな……」
「あー、はい」
ここでようやく、マルムスにも合点がいった。軍医はアスケノスの身を案じて、毒物を吐き出させようと殴っていたのだ。
こういったことは今回に限ったことではない。なんでこんなことをするのか理解に苦しみながら、マルムスは不満そうに吐き出した毒ニンジンを見つめるアスケノスに訊ねる。
「いつものことですけど、なんでこんなことをしたんですか?」
その問いに、アスケノスは潰れていない左目でマルムスに視線を返し、少年のように無邪気な笑顔でこう答えた。
「どんな薬効があるのか試したいと思って」
これも毎回の返答だ。思わずため息をつくマルムスと軍医。この後なにをどう言うべきかわからないマルムスが黙っていると、軍医がアスケノスの髪をつかんで上を向かせ、視線を合わせて念を押すように言う。
「そういうのはね、奴隷や罪人で試すんだよ」
弟子のことが心配すぎて逆に威嚇する形になっている軍医に、アスケノスはけろっとした顔で返す。
「でも、自分の体で試さないと、具体的にどんな効果が出るかわかりませんし」
「そういうとこだぞ!」
このやりとりも、もう何回見ただろうか。
相変わらずかけるべき言葉を見つけられないマルムスが見守る中、軍医はアスケノスが口に含んでいた毒を抜くために、手際よくリンゴを一切れと葡萄酒をアスケノスの口につっこんでいく。
突然リンゴだの葡萄酒だのをつっこまれたアスケノスは、頬を膨らませてしばらくもごもごしていたけれども、なんとか飲み下して一息ついている。こちらも慣れている。
「もう、大げさですよ師匠」
にこにこと笑いながらそう言うアスケノスに、軍医は渋い顔をして返す。
「毒に慣れてるお前じゃなかったら死んでる案件だからな?」
「毒に慣れててよかった!」
相変わらず微妙に意思疎通ができてないなぁ。と思いながらマルムスが見ていると、軍医がマルムスの方に向き直ってこう訊ねてきた。
「ところでマルムス殿、どのようなご用件で?」
そこではっとしたマルムスは、医務室に来るまでに考えていた段取りのことを思い出しながら答える。
「えっと、都に残っている兵士の体調管理と流行病についてです。
市井では特に流行病はないようですが、たまに兵士だけに流行る病もあるので。
あとは、体調不良者が普段より多く出ているということがないかどうかについて知りたいです」
マルムスの言葉を聞いて、軍医は威厳たっぷりに頷いてからこう返す。
「なるほど。現状では兵士達はみな健康です。
体調不良者が出た場合は早めに休ませ、必要があれば治療しているおかげですかな。
もちろん、日々の鍛錬のおかげもあるでしょう」
「なるほど、それはなによりです」
とりあえず、兵士の健康状態についての情報は得られた。あとは将校のところに行って、きちんと鍛練をしているか確認しよう。マルムスがまた段取りを考えていると、軍医が自慢げに話を続けた。
「兵士が体調を崩してもね、アスケノスが処方した薬がよく効いているようですぐに元気になるんだ」
ここぞとばかりに弟子のことを自慢する軍医のことが微笑ましく、マルムスは笑顔を返してこう言う。
「なるほど、伊達になんでも自分の体で試しているわけではないんですね」
すると、軍医が表情を曇らせて、両手で顔を覆う。
「それはそうなんだが、私はこの子が心配なのだよ……」
「わかりすぎます」
軍医の嘆きにマルムスが同意すると、軍医は薬瓶に手を伸ばそうとしていたアスケノスの手をはたいて、腫れているアスケノスの頬を引っ張る。
「今日だって、兵士の健康のためにより良い食事を考えようとこの子を呼んだのだが、藪から棒に毒ニンジンを刻んで口に入れはじめておどろいたんだ」
「シンプルに心臓に悪いですね」
これにはマルムスも同意しかない。普通ならおどろくどころでは済まない事件なのだけれども、何度もこういった現場に居合わせている軍医だから対応ができたのだろう。
軍医もたいへんだなとマルムスが思っていると、軍医がアスケノスの頬を引っ張りながら、強い口調で言い聞かせた。
「いいかアスケノス。もうこんな風に毒を口に入れるんじゃないぞ」
「善処します」
反省の色が見えないアスケノスの返事を聞いて、これはまたやるな。とマルムスは確信する。
軍医はさらに嘆く。
「ああ、お前のこの、すぐ毒を自分で試す悪い癖さえなければ、お前を戦地に行かせられたのに」
すると、アスケノスは拳を握って意気揚々と返す。
「僕はいつでも、戦地に行く心の準備はできてますよ!」
「お前が戦地に行ったら真っ先に毒で自滅して迷惑をかけるだろうが!
行かせられるか!」
心外なことを言われたのか、軍医の言葉にアスケノスは唇をとがらせる。
懲りないようすのアスケノスを見て、マルムスはふとあることを思いだした。宦官と男では、体のつくりに違いがあるのかはアスケノスに訊いた方がいいと、以前サラディンと話したのだっけ。
あの時はサラディンが聞きに行くと言っていたけれど、正直言えばマルムス自身も気になるところだ。なので、話を切る形になるけれど、思い切ってアスケノスにこう訊ねる。
「そういえば、アスケノスに訊きたいのですけど、宦官と男の体にはなにか違いがあるのですか?
私はその、男が男のままでいる体というものがよくわからないので、気になって」
すると、アスケノスはすっと医者らしい表情になってこう答える。
「そうですね、基本的には宦官も男も構造は同じです。
ただ、マルムスもご存じのように、宦官には男として欠けている部分が多いです」
「えっと、それは……」
マルムスは咄嗟に、自分の下腹部を意識する。それを察したのか、アスケノスはこう言葉を続けた。
「器官だけでなく、宦官は男よりも筋肉が付きにくいといわれていますね」
「なるほど」
なんとなく納得できたような気がする。マルムスが頷いていると、アスケノスが心配そうに言う。
「マルムスは僕やサラディンに比べて疲れやすいでしょう?
たぶん、筋肉が少ないせいもあると思います」
「いや、疲れやすいのはどう考えても元老院のせいですね」
マルムスの言葉でアスケノスも軍医も笑い声を上げ、元老院総辞職しろと言った。