第十八章 戦と外交
「そろそろ次の遠征のことを考えないとな」
いつも通りの執務の途中、一息ついたところで皇帝がそうつぶやいた。皇帝はまたブルガリアへ行くのかと、マルムスは複雑な気持ちを抱く。皇帝がずっと都にいてくれていれば、きっと宮廷内の舵を上手く取れるのに。
そんなマルムスの気持ちもよそに、皇帝がこう訊ねる。
「糧食はどの程度準備できている?」
その問いに、マルムスは資料を見ずに返す。
「乾パンはまだ品薄です。
肉と豚脂は十分な量が確保できていますが、まだしばらく塩に漬けていなくてはいけないものも多いです」
「そうか」
遠征の時に兵士達が食べる糧食。その生産状況を確認するのもマルムスの仕事だ。週に一回か二回は確認しているので、もうほとんど頭に入ってしまっている。
マルムスの返答を聞いた皇帝は、視線を落として思考を巡らせている。おそらく、今度はどのような経路をたどってブルガリアに攻め込むかを考えているのだろう。
真剣な表情をする皇帝に、マルムスはなるべく平静を保ちながら訊ねる。
「次の遠征はいつ頃でしょうか」
「準備ができ次第だ」
ああ、やはりそうだ。皇帝はいつも闘争を求める。どうして都にとどまってくれないのだろうか。
その言葉をマルムスが飲み込んでいると、皇帝がため息をついて言葉を続ける。
「次の遠征までに、国内の問題をある程度なんとかしないといけないな」
「おっしゃるとおりです」
少し気落ちした声で同意するマルムスに、皇帝がにやりと笑いかける。
「私が都にいない間、官僚だの元老院だのがいろいろと勝手なことをしているのだろう?」
「あー、まったくもってその通りです」
官僚や元老院のことを押さえきれていないのは、当然のように皇帝はお見通しだ。マルムスには、官僚や元老院を押さえる権限があるのにもかかわらず、それを実行できていない。それを不甲斐なくも恥ずかしくも思えて、つい顔が熱くなる。
そこへ、皇帝が笑ったまままた問いかける。
「ところで、元老院が全員入れ替わっていたが、お前が謀ったのか?」
「いえ、あれは完全に不慮の事故です。
謀ったのなら今の元老院はもっとうまい人選をしています」
「事故?」
「前元老院が全員集まって会合をしていたところに雷が落ちまして……急なことで根回しができずあのような人選に」
マルムスの答えに、皇帝はきょとんとした顔をする。それから、軽く笑ってこう言った。
「なるほど。ずいぶんまずい人選をしたものだと思ったが、そういうことだったのか。
まあ、雷が落ちたのは摂理だろう」
前元老院には皇帝もかなり苦労させられていたので、こういう反応になるのは不自然ではない。
マルムスは皇帝の言葉に頭を下げながらこう続ける。
「せっかくの摂理を上手く受け止められず、不甲斐ないばかりです」
すると、皇帝は特に責める様子もなくこう返した。
「お前はたしかに優秀だが、謀が苦手なことくらい心得ている。気にするな」
「はい……」
宮廷及び皇帝に仕える宦官として、賛辞や謀など、肝心なところが苦手なのだよなと思いながらマルムスは苦笑いする。
「どうにも、私は宦官なので男達にはなめられがちなのですよね」
つい自嘲混じりの口調になってしまう。
「陛下のいない間にいろいろ計らわせようと、賄賂を送ってくる者も多いですし」
愚痴めいたことを口にすると、皇帝がじっとマルムスを見てひとこと訊ねる。
「受け取ったのか?」
マルムスは頭を横に振る。
「いいえ。
私がお仕えするのは、陛下ただひとりです」
その答えに、皇帝は満足そうな笑みを口元に浮かべる。
「わかっている」
皇帝の言葉に、マルムスは少しだけ救われたような気がした。皇帝は自分のことを信頼してくれているのだと思えたのだ。
皇帝は、きっと孤独だ。そしてマルムスも、心のどこかに孤独を抱えている。同じように孤独を抱える者として、おこがましいといわれるかもしれないけれど、それでも少しでいいから、皇帝のように光ってみたかった。
マルムスがつい思いにふけっていると、皇帝が視線を鋭くして言う。
「とりあえず、糧食の状況はわかった。今は乾パンが十分になるよう生産させるように」
「かしこまりました」
皇帝の言葉にマルムスは早速伝令を呼び、皇帝の言葉を製造所へ伝えるように走らせる。
伝令が走り去っていく足音を聞いていると、今度は他の足音が聞こえてきて扉を叩いた。
「陛下にご相談が」
サラディンの声だ。なにがあったのかと思いながらマルムスが招き入れると、サラディンが鬼気迫る表情で皇帝に言う。
「陛下、ここ数年、軍事費とそれ以外の予算のバランスが崩れてきています。
どうか、対策をお願いします」
これは暗に、遠征にいく回数を減らしてくれと言っている。それに対して皇帝は、厳しい表情で答える。
「戦なくして繁栄はない。
特にブルガリアは滅ぼさねばならない」
威圧的な皇帝の言葉にもサラディンは屈せず、噛みつくように返す。
「たしかに戦地で得られる戦利品は魅力です。
ですが、その戦利品を持ってしても民衆に富や財産が行き渡らないのです。なので……」
サラディンがそこまで言ったところで、皇帝の言葉が遮った。
「それならば、元老院や官僚達の派手な生活と賄賂をやめさせればいい」
あまりにも正論。
元老院や官僚が、どれだけの富と財産を消費しているかをよくわかっている身としては、軍事費よりもそちらをなんとかした方がいいのがわかってしまう。マルムスはもちろんサラディンも、ぐうの音も出ない。
そして、サラディンはわかっているかどうかわからないけれども、国の外部に敵を常に作っておくというのは、国民の団結にも一役買う。危険と紙一重の方法ではあるけれども、そのためにも戦をやめるわけにはいかないのが、マルムスにはわかってしまうのだ。
皇帝の視線に射貫かれたまま、サラディンが口を動かす。何度かぱくぱくと動かしてから、絞り出すような声を出した。
「しかし、元老院や官僚は、陛下のように慎ましやかな者ばかりではありません。
下手にあの者達の生活を絞ると、謀反を起こされる危険があります」
その言葉に、皇帝は渋い顔をする。この事実には皇帝も当然思い至っているのだろう。けれども、それと同時に、どうして元老院や官僚が慎ましやかな生活ができないのか、皇帝には理解しがたいのだろう。
皇帝に理解ができないのは仕方がない。皇帝は息を吸うように慎ましやかな生活をしている。奢侈を好む者たちとはそもそもの精神構造が違うのだ。
「では、より一層私が見本を見せないといけないな」
ため息をついてそう言う皇帝に、サラディンが返す。
「でしたら、是非とも少しでも長く都にとどまってください。
彼らにとっては、陛下がどれだけ見本になろうと、そこに無ければ無いのです」
サラディンの必死の訴えに、皇帝はまたため息をつく。
その皇帝に、マルムスはこう声をかける。
「しかし陛下。陛下が奢侈を好まないのは美徳ですが、あまりにも質素すぎると他国に権威を示せません。
せめて表に出るときは身を飾りましょう」
「……お前も難しいことを言うな……」
おそらく皇帝は自覚している。戦に出ればいくらでも他国に権威を示すことができるけれども、いざ平時に権威を示すとなるとどうしてもやりずらい。言ってしまえば、皇帝は外交に苦手意識があるのだ。
「平時の際の判断はお前に任せる」
「ありがたきお言葉」
任せるというのは、国外からの使節が来た際、着るものを選ぶだとかどのような料理を振る舞うだとか、どのような土産を持たせるとかそういうことだろう。
「どうにも、贅沢は苦手だ」
すねたようにそういう皇帝に、マルムスはにこりと笑ってこう言う。
「少なくとも私とサラディンとアスケノスは、陛下の慎ましやかさを見習っていますので」
「他の者たちもぜひそうして欲しいものだ」
疲れたようにそう言ってから、皇帝はふとこうつぶやく。
「女官達はどうなのだろうな」
それはあずかり知らぬ所だ。けれど、派手な生活をされては困ると思っているのだろうなと、マルムスは特に気にしなかった。




