第十六章 結ばれたメリロトス
「マルムス、すいません。ちょっと頼みごとがあるんですけど」
ある日のこと、医務室へ書類を届けたマルムスを見て、これはいいところにとばかりにアスケノスが話しかけてきた。
「はい、なんでしょう」
どんな頼みごとだろうとマルムスが返事を返すと、アスケノスはこう言う。
「ドラコーネーのところに行って、メリロトスの枝を数本取ってきて欲しいんです」
「メリロトスだけでいいのですか?」
ずいぶんと簡潔なお使いだなと思いながらマルムスがまた訊ねると、アスケノスは少し考えてから答える。
「メリロトス、といえば、他になにが必要かドラコーネーには伝わると思います」
そういうものなのだろうか。少し不思議に思ったけれども、マルムスは快くそのお使いを受けたのだった。
後宮には入れるのは女達と宦官だけ。そんな後宮の庭で医務室で使うハーブや薬草を育てているのは運搬の面で少々効率が悪い気はするけれども、植物の細やかな変化には男の庭師よりも女官の方が敏感だ。それを考えると、なんだかんだここで育てるのが最適解なのだろう。
女官の中でも、特に植物の変化に敏感なのが、この庭の手入れをしているドラコーネーだ。痛んだ葉を見つけて摘んだり、伸びすぎた枝を見つけて剪定したりとなにかとめざとい。
この時間ならそのドラコーネーが庭の手入れをしているはずと、マルムスは回廊から庭に入って周囲を見渡す。すると、メリロトスの植え込みの前で頭を抱えているドラコーネーが目に入った。
「どうしました? なにか異常でも?」
マルムスがそう訊ねながら近づくと、ドラコーネーはメリロトスの細くしなやかな枝を一本手に取ってマルムスに見せる。
「またメリロトスの枝が結ばれているんです」
「なんでです?」
たしかにドラコーネーが言うとおり、その手にあるメリロトスの枝の柔らかい部分が固く結ばれている。
「時々あるんですよね。なんでかはわからないのですけど……」
「う~ん、いたずらにしては困る人もそんなにいませんしね」
「私が困ります」
「すいません」
庭の手入れを任されているドラコーネーからすれば、こういういたずらは困りものだということに、マルムスはつい思い至らなかった。しかし、よくよく考えれば、こう言ったいたずらが頻発して皇母にでも知られたら、咎められるのはドラコーネーだ。困るのも無理はない。
「こんなに固く結ばれて痛いでしょうに」
そう言いながら、ドラコーネーは腰にさしていたはさみでメリロトスの枝を切る。それを見てマルムスは、ひと思いにやるタイプだな。となんとなく思う。
「ところで、なにかご用ですか?」
切った枝を手に持ったドラコーネーにそう訊ねられ、マルムスは用件を思い出す。
「ちょうど、アスケノスからメリロトスの枝をもらってきてくれと頼まれたんです」
あやうく用件を忘れるところだった。なんとか用件を口にできてほっとしていると、ドラコーネーははさみを持ち直してこう訊ねてくる。
「どれくらいいりますか?」
「ふんわりと数本、と言われましたね」
「かしこまりました」
マルムスの返答に、ドラコーネーはメリロトスの枝をかきわけてなにやら選んでいる。そして、選び出した枝を五本ほど切ってマルムスに手渡した。
「ああ、ありがとうございます」
マルムスが礼を言うと、ドラコーネーははさみを腰に下げ直して、他の花壇へと向かう。
「メリロトスがいるということは、きっとケシとキクニガナもご入り用でしょう。
ただいまご用意いたします」
「はい、それもお願いします」
手際よく花壇からケシとキクニガナを探し出して摘んでいるドラコーネーを見て、アスケノスが言ったとおり、ドラコーネーもある程度理解しているのだなとつい意外に思う。
ドラコーネーが薬草を摘んでいると、誰かが横から籠を差し出した。
「お姉様、これがないと困るでしょう?」
「ぞ、ゾエ様! 申し訳ありません、お手数おかけして……!」
くすくすと笑うゾエから籠を受け取ったドラコーネーは、恐縮しながらもきちんと籠の中に薬草を入れている。
「ほんとうに申し訳ありません、ゾエ様に仕事を手伝わせるようなことをしてしまって……」
何度も頭を下げるドラコーネーを見て、マルムスもゾエに頭を下げる。
「申し訳ありません。私が籠を用意していれば、ゾエ様のお手を煩わせずに済みましたのに……!」
これは完全に不注意だったと反省するマルムスに、ゾエは笑って返す。
「しかたないわよ。だって、マルムスは庭仕事になれてないのだもの」
「ほんとうに申し訳ないです」
そんなやりとりをしている間にも、ドラコーネーはケシとキクニガナを籠の中に摘んでいる。その姿を見てか、ゾエがドラコーネーにこう訊ねた。
「ねぇ、お姉様。私にもなにかお手伝いしたいわ」
無邪気なその言葉に、ドラコーネーは困ったように笑う。
「そのようなことをおっしゃられても困ってしまいます。
ゾエ様は陛下の姪であらせられるのですよ? そのような方に、こういった仕事を手伝わせるわけにはいきません」
「そうなの?」
「そうです。母君と皇母様に私が叱られてしまいます」
「あら、それは嫌だからやめておくわ」
ドラコーネーの言葉に、ゾエは思いのほか素直に引き下がる。それから、すぐ側にある花壇に咲く花に手を伸ばした。
「でも、私が花で遊ぶくらいは許してくれるでしょう?」
可憐に笑いながら花を手折るゾエに、ドラコーネーも微笑んで答える。
「もちろんですとも。そのお花は、あとでゾエ様のお部屋に生けましょうか」
「ええ、ぜひそうして」
ドラコーネーとゾエの一連のやりとりを黙ってみていたマルムスは、どうにもドラコーネーから薬草の入った籠を受け取るタイミングを計りかねていた。
おろおろとドラコーネーとゾエの間で視線をさまよわせるマルムスに気づいたのか、ドラコーネーがはっとして籠を差し出す。
「あっ、マルムス様、お急ぎですよね? こちらをどうぞ」
「はい、たしかに受け取りました。
それでは、私はこれで失礼しますね」
とりあえず、これでアスケノスのお使いはなんとかなる。ほっとしたマルムスが回廊に戻ると、背後からドラコーネーとゾエの楽しげな話し声がまだ聞こえてきていた。
医務室に戻りアスケノスに薬草の入った籠を渡す。
「メリロトスとその他諸々をもらってきました」
「ありがとうございます」
にこにこと笑ってマルムスから籠を受け取ったアスケノスは、早速メリロトスと、それに添えられたケシとキクニガナを確認する。
「さすがドラコーネー、分量もほぼぴったり」
感心したようにそう言ってから、アスケノスはマルムスに訊ねる。
「そういえば、ドラコーネーのようすはどうでした?」
「ドラコーネーのようすですか?
相変わらずゾエ様になつかれているのと……ああそう、メリロトスの枝を結ばれて困ると言っていました」
「メリロトスの枝を?」
マルムスの答えに、アスケノスがきょとんとする。籠の中に目を落とし、たしかに結ばれた跡のあるメリロトスの枝を見て、眉を寄せた。
「たしかに結ばれていますね。誰がなんのためにこんなことをするんでしょう」
後宮を彩るだけでなく、医務室でも使う薬草が痛むのは、アスケノスとしても不本意なようだ。そのアスケノスに、マルムスはドラコーネーの言葉を思い出しながら返す。
「意図はわからないのですが、時々結ばれているそうです」
その言葉に、アスケノスが大きなため息をつく。
「薬草にいたずらをされると困ります。
それになにより、手入れをしているドラコーネーが悲しむだろうし……」
そう言ったきり、アスケノスは難しい顔をして考え込みはじめた。
アスケノスがなにを考えているのか気になったけれども、あまりにも真剣な顔をしているので声をかけられない。
なんとなく、アスケノスの言葉に違和感を覚えたのだけれども、そのことについてもマルムスは訊ねることができなかった。




